見出し画像

これはYさんという50代の男性から聞いたお話です。

Yさんが40代だったある年の6月のことです。
その日、朝のうちはよく晴れていて、天気予報でも雨の確率が低かったので、Yさんは傘を持たずに出勤しました。

しかし、午後から雲行きが怪しくなりはじめ、彼が仕事を終えて自宅の最寄り駅に着いた午後9時頃には、雨は本降りになっていました。

駅から自宅までは歩いて15分ほど。
タクシーのりばを見ると、数人の列ができていましたが、タクシーは一台もいない状況でした。

列に並ぶか、濡れるのを覚悟で歩いて帰るか、Yさんが決めかねて空を見上げていると
「よかったらこれ、どうぞ」と、ふいに声をかけられました。

見るとYさんと同じ年頃の男性が、手にした傘を差し出しています。
傘はビニール傘などではなく、しっかりとした黒い男物の長傘で、柄には革が巻いてある、一見して高級品だとわかるものでした。

「え?、あ、ありがとうございます。しかし、どうやってお返しすればいいかわかりませんし、第一あなたがお困りになるんじゃあ…」
そうYさんが言うと
「いえ、いいんです。返さなくてけっこうです。どうせもう使うことはないですから…」
と、男性は言って、傘を押し付けるようにYさんに渡すと、足早に改札の方に歩いて行ってしまったのでした。

Yさんは突然の出来事にしばらく傘を持ったまま立っていましたが、どうすることもできず、結局その日はありがたく傘を使わせてもらって帰宅したのだそうです。

翌日は朝から雨でしたが、帰るころにはあがっているという予報だったので、Yさんは昨日もらった傘をさして出勤しました。
もしかするとあの男性にまた会えて、傘を返せるかと思ったからでした。

しかし、そんな都合のいい偶然はあるはずもなく、雨も小降りでしたがまだ降り続いていたので、Yさんはまたその傘をさして、自宅までの夜道を歩きはじめました。
歩き始めてすぐに彼は違和感を覚えたのだと言います。
傘をさしているときと、外したときの雨の降り方があきらかに違うのです。

傘をさすと、雨は音をたてて傘にあたり、雫はひっきりなしに傘の縁からしたたり落ちているのですが、傘を頭上から外してみると、実際の雨は、まもなく止むのではないかというほどの小降りなのでした。

そして雨のほかにもうひとつ、傘をさした時にだけ見えるものがありました。
それは自分の右隣を歩く女性の姿でした。
女性はしばらく暗い面持ちでうつむき加減に、傘をさしたYさんの右隣を歩いたのち、なにか一言いって駆け出していくのです。

遠ざかってゆく女性のベージュのコートと赤い傘が、夜の闇に不自然なほどくっきりと見える…、そんな光景が傘をさしている時だけ、ショート動画でも見るように何度も繰り返し見えるのでした。

いつもとかわらない自宅までの現実の帰路の光景に、まるでレイヤーを重ねたように、傘からしたたる雨の雫と女性の姿が重なって見えるのです。

それは、怖いというよりはただただ不思議な出来事でした。
何度も遠ざかって行く女性の後ろ姿を見ているうちに、Yさんの心にはしだいに言い知れぬ哀しさが溢れてきました。
彼はどうにもいたたまれなくなり、傘を閉じてそぼ降る雨に濡れながら自宅に帰ったのだと言います。

帰宅後、Yさんは不思議な傘についてあれこれと思い巡らし、眠れぬ夜を過ごしました。
明け方になり、ある考えに思い至り、出勤時に最寄り駅の顔なじみの駅員に、最近この付近で人身事故がなかったか尋ねてみたそうです。

すると、傘をもらった日の夜遅くに、ふたつ先の無人駅で貨物列車に男性が飛び込んで亡くなったと聞かされたのでした。
確証はありませんが、おそらく傘をくれたあの男性なのだろうとYさんは思いました。

男性が亡くなったあと、その最後の記憶が、あの日と同じような雨の夜に、傘を通して見えたのではないかとYさんはしんみりとした口調で話し終えました。
傘はその後、Yさんの菩提寺に理由(わけ)を話して引き取ってもらい、懇ろに供養してもらった…という、そんなお話でした。

初出:You Tubeチャンネル 星野しづく「不思議の館」
テーマ回「雨に纏わる不思議怖い話」
2024.6.22

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?