面白さを言葉にする方法

「昔ネットに書いてたヤツあったよね。あれ内容忘れたから読みたい」とリクエストを受け、10年以上前の文章だし普段ならまあいいじゃんと済ますのですが、もしかしてこの内容ってnoteっぽいんじゃ?と思い、再公開してみることにしました。↓どうぞ~


これは批評・評論の書き方というより、感想・解説の書き方です。

前提:「面白さ」が「つまらなさ」に比べて語りづらい理由

なぜ「つまらなさ」に比べて「面白さ」は語りづらいのか。「つまらなさ」を語る事は、そう思わない他者からの反発を招きやすい。その予想される反発に対して、自分がつまらないと思った理由に妥当性・必然性があることを証明するために、「つまらなさ」はあらかじめ「つまらないという結論に至るまでのそれなりの解説」を用意することが無難とされる。

対して「面白さ」を語ることは反発を招きにくいので、「なぜ面白いのか」は問われにくい。問われない答えを用意するのは手間であり、問われてから初めて「なぜ面白いのか」を考えることになりやすい。このように「面白さ」の理由は段階を踏まないと考えられづらい。そして「面白さ」を言葉に直す作業の経験の少なさから、「面白さ」は「つまらなさ」に比べて語りづらいのである。

「つまらなさ」を語ることに学ぶ、「面白さ」を語る方法

「下手」と「上手」

「つまらなさ」は語りやすい。なぜなら「つまらなさ」は目立つからである。例えば「つまらなさ」の一つに「下手」がある。ドラマなら演技が下手、音楽なら演奏が下手、漫画なら絵が下手、小説なら文法が下手、など。「下手」さは自然な流れを断ち切る。「下手」は不自然な存在であり、それによって今まで集中していた意識が途切れる。熱中できない。これはつまらない。

逆に言えば「面白さ」は「上手」なものである。意識を展開以外に費やす必要のない自然な流れを演出するものは「上手」であり、いわゆる「クオリティが高い」ものである。「面白さ」を語ることの一つに「上手」さを語る方法がある。

ただし「上手」を見極めるためには、対象への知識と審美眼が必要である。そして当然だが「判断の基準になる指針」をあらかじめ用意する必要がある。この指針がないと、別の作品を語る時に「前と言ってることが違う」状態に陥ってしまう場合があり、一貫していない話は他人に信用されない。

また、たとえ「下手」であっても、そこに何らかの別の価値を見出せる場合は、例えば「味がある」といって「面白さ」に転換されることがある。同様に、どれだけテクニックがあっても、「技術だけで魂がない」のように「つまらなさ」に位置づけられてしまうこともある。「上手」すぎてその「上手」さが気になるようでは、美しいとはいえない。自然な流れを演出できていないからだ。これは各個人の審美眼に任される応用である。

「平凡」と「非凡」

次に「つまらなさ」には「平凡」がある。あらゆる展開が予想の範囲内で、退屈で、心が動かない。感情に変化を起こさないものは、自分にとって必要のないものであると扱われやすい。結果、時間の無駄であり、つまらない。とすれば「面白さ」は「非凡」なものである。予想していなかった展開が起き、それに興味がわくと、気持ちが集中し、高まる。

例えば「朝遅刻した男子が曲がり角を曲がると女子にぶつかる」流れを予想できない人は今時いないだろうし、その後に「転んで女子のパンツが見える」のは決まっている。何の驚きもない定石である。しかしぶつかったことで核融合が起きたり、片方が死んだり、合体してしまったりするのは、今の所まだパターン化していない。これは定番の展開の一部分だけを変える「ズラし」というテクニックだが、「面白さ」を語るにはこの「非凡」さを語ることが定番である。

ちなみに、多くの場合「非凡」は定石の上に成り立っており、全篇予想できないもので埋め尽くされていると、受け手が展開を読み取れない。これでは単によく判らないことが連続で起きているだけの「意味不明」な作品となる。これを「面白さ」だと受け取る人はまれである。

注意したいのは、「朝遅刻した男子が曲がり角を曲がると女子にぶつかる」→「転んで女子のパンツが見える」のありふれた展開に「面白さ」を見出す人もいることである。期待通りの展開であることに対する満足度が「面白さ」である場合もある。「待ってました」は伝統芸能の「面白さ」である。

「リアリティ」の有無

「つまらなさ」の原因をリアリティの無さに求める声も多い。リアリティは「共感」の素であり、「共感」は「面白さ」の素である。なぜなら人は自分と関係があると分かると興味を抱くからである。言い換えれば、共感を抱ける要素を語るのが「面白さ」を語ることになる。先に断ると、リアリティとリアルは別物であり、リアリティを描くことは現実の出来事を事細かに描くことではない。ある世界観(=設定)の中で現実感を描くことである。「ある日起きたら自分が虫になっていた」は全く現実的ではないが、その主人公がどんな選択をするか、どんな感情を抱くか、によって現実感は増減する。

つまり「リアリティ」は各個人の体験や感覚に依存するものであるから、たとえ突飛な設定であっても、リアリティがある=自分の問題として捉えることが出来るならば、それは「面白さ」に還元される。逆に突飛な設定になんら現実感を抱けないままでは、それは空虚な存在のまま、他者のままであり、自分と関係ない=「つまらなさ」となって表出される。

なお、あまりに独自な世界観が構築されていると、当然その世界観自体に拒絶反応を示す人も存在する。その場合、どんなにリアリティが描かれていても、それが目に入ることがないまま「こんな世界観はありえない=リアリティがない=つまらない」と結び付けられてしまう。これは個人の資質によるので、「つまらない/面白い」の意見が対立したままになりやすい要素である。

何らかの価値基準に当てはめて、「面白さ」を語る方法

作者のこれまでの作品の経歴に当てはめる

作者がこれまで発表した作品を追っている人にだけ判る発見があり、そこに「面白さ」を見出すことが出来る。例えば前回に見られた挑戦的・実験的な要素が、今回で完成に至った場合、その成長や変化の「面白さ」を語るなど。

完成度の高さを取り上げる

「つまらなさ」を指摘できるポイントが無いこと、何の失敗も欠点も無い完成度の高さを「面白さ」として語るなど。

時代性を取り上げる

「リアリティ」とほぼ同意だが、登場する要素が時代に適していると判断される場合、その同時代性を「面白さ」として語るなど。ただし、今の時代に必要とされているものは、次の時代になると必要とされなくなる場合も多く、一時的な面白さではないのかと反論されることもある。

同一ジャンルの別作品との比較で語る

近い存在の作品と比較して「こちらの方が優れている」とする、比較対象の立場を落としてこちらの作品を持ち上げ、「面白さ」を語るなど。ただし、これは比較された側(マイナス点があるとされた側)に不満を残すやり方なので、問題が起きやすい。

個人的な体験に当てはめる

自分にとって未知の存在であったことを「面白さ」として語る、もしくは同じような体験をしたことがあり、その自分との同一性を「面白さ」として語るなど。これは根拠が自分に大きく依存するから、「リアリティ」というより「リアル」の面白さである(他人にはその体験がないため「リアリティ」は感じられない)。

その他

一生懸命努力して作った過程を「面白い」とする。懐かしさでも怒りでも何らかの感情を抱かせたから「面白い」とする。誰かが批判している箇所を「あえて」取り上げ、逆説的に「面白い」とする。

それでも「面白さ」が見つからない時は

無理に語る必要はないのでやめましょう。面白いものは他にも世の中に一杯あります。

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