anticommon is common


最近よく考えるのが「人と違う生き方をしたい」「普通じゃない人生を送りたい」という考えを持っている人はなぜそう思うのだろうということである。そもそも普通に生きたって適当に生きたって他の人と同じ生き方になるわけがない。にもかかわらずなぜそう考えてしまうのか。それは「スケール」の差がそうさせている気がする。

「人と違う人生」的なことをプロフィールの欄に書くような奴に限って量産型の投稿形式で投稿している人が多い。きゃぴきゃぴとした文体に充実してそうな写真を添えて楽しさを大いに表現している。もしくはポエムのように自分の考えを切実に述べているものである。考えれば考えるほど「人と違う人生」を送ろうとしている人の表現方法は「人と違う人生」という似たようなもので溢れ返る表現にとどまってしまうように感じる。

そもそも「普通じゃない人生」とはいったい何を指して言っているのだろうか。「普通の人生」はそんなにもつまらないものなのか。私なりの普通の人生を想像してみたが、それはとても楽しく、平和で充実したものなので、なぜ「普通の人生」が嫌なのかがあまりわからない。

脱線した話をレールに戻す。私と「普通アンチ」の人との考えの違いとしては人生の「スケール」の見方の違いがもろに出ていると思う。普通アンチの人はきっと普通→刺激がない→楽しくないという一連の思考があり、その思考で見る「人生」にはその全体像の形を求めているのだと思う。

「人生」という作品を作るにあたり、作品がただの丸や四角だとありきたりであると考え、星を作るのが普通アンチの人であると思う。しかし、実は丸・四角・星はすべて同じ「図形」という括りであるという点に気づいていない人も多い。つまりは「普通じゃない」とおもってやっていることは結局「普通」だったりする。

全体像というスケールで見るよりもっとミクロな見方をする方がよりギュっとした濃い感性と表現方法をもたらすことができるんじゃあないかと思う。ありきたりな丸でもそれが石なのか、水なのか鉄なのか気体なのか個体なのか。それぞれの個性を引き立たせ磨いていくことこそ「普通じゃない」といえるのではないかと思う。「図形」の中でどうすれば自分の「個性」を光らせることができるか。それがアンチ普通系の人の多くに足りない考え方であると感じる。

ここまで読んで、「お前のこの文章だって無個性な表現方法じゃないか」と思った人は早く自分の好きな記事を見つけて楽しめばいい。人の好き勝手やってることに対していちいち突っ込んでる暇なんてそれこそ「人生」を作る過程で最も無駄な時間じゃあないだろうか。


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