人の「存在と時間」は立派なギフトになる

「買わずに暮らす」ために
まずすることは「自分のもちものを人に譲る(give) 」である。

レンタルなんもしない人」と「プロ奢ラレヤー」の2人は
贈与経済だとか分かち合いの大切さだとかを
前面に出しているのではないし
基本的な価値観は資本主義に基づいているのだと思う。
日本は長らく資本主義思考で運営しているので
ここで育った人は私も含め多くの人が自然とそうなるだろう。
ただ、自分の存在を資本に自分の決めたものさしで判断し
お金を生きる目的にしていないという点では
お金を軸に経済活動をしている人たちとは大きく異なる。

そしてその活動内容は
「自分の存在や時間」を give していると言えると思う。
対価として交通費や食費を受け取っているのだから
「見返りを求めないこと」が原則のギフトエコノミーに反している。
と考える人もいるだろう。
この辺りの線引きは容易ではないし
線を引くことが最も重要なことでもないというのが私の考えだ。
見返りを求めずに自分のもちものを譲るにしても
ただ生きているだけでなにかと支払いの生じる社会において
お金はやはり不可欠だ。
自分の存在と時間(譲るもの)に値をつけることをしないとしても
その受け渡しには自分の価値観や主義に反してコストがかかる。
そこをどう賄うかは、やり取りをする当事者たちで決めていく。
それはこれまでにも
実際にギフトを贈ったり受け取ったりしている人たちが
それぞれに個別に判断し対応している。
家まで取りに来てもらえば譲る側に運搬コストはかからない。
ジモティやメルカリでも
出品者は品物の運搬コストについてそれぞれの考え方を表示している。
購入者はそれを踏まえてそのまま購入したり交渉したりしている。
資本主義経済でも贈与経済でも
お互いの提供できるものを説明し
お互いが納得した上でものごとを進めていく。
その点は共通している。

「ギフトエコノミー」において
ギフトを贈る側がそれを実行するときは
・見返りを求めない
・自分をすり減らさない
・やりたいからする
・楽しいからする
・自分のしたいときに
・自分のしたい方法で
という案内がある。
相手のためになるから、と言って
自分の気持ちを二の次にしてはならない。
ということである。
気持ちが向かっていないのに
(例えば本当は見返りを期待しているだとか、ほんの少し面倒だと思っているだとか。)
しぶしぶ贈られても、受け取る側も嬉しくないだろう。
そんな態度は隠しているつもりでも
相手に敏感に伝わる。

「レンタルなんもしない人」と「プロ奢ラレヤー」の2人は
多くの依頼の中から
自分の指標で提供する相手を決めている。
自分をすり減らさずに
自分がやりたいと思って「存在と時間」を give している。
ギフトについて考えるときにとても参考になる。

ギフトは「適材適所が実現する」ことも大事だと私は考えている。
存在そのものがギフトであると思える人には
その存在がギフトになる。
そうでない人にとっては「なんもしない人」でしかなく
「いてもいなくてもいい人」になり
感謝する気持ちも芽生えないだろう。
ギフトはお互いが「ありがとう」と言える
「もの、こと」である必要がある。


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