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世界パズル選手権と日本の30年

今月から、今年の世界ナンプレ選手権と世界パズル選手権の代表選抜が始まります。

世界パズル選手権は主に数理系のペンシルパズルを扱う国際大会で、現在では約30か国から250名程度のパズルソルバーが参加しています。競技パズル界ではもっとも権威のある大会で、優勝者は名実ともに世界一のパズルソルバーとみなされます。

競技パズルの歴史は、世界パズル選手権を中心に発展してきたと言って過言ではありません。大会や選抜大会によって世界各国のパズルが紹介され、また数多くの新たなパズルが生み出されてきました。

ペンシルパズルの世界で、日本の存在感は極めて大きなものです。初期には数多くのパズルを生み出す、パズル作家の国として。今でも、世界大会で出題されるパズルの3割は、日本にルーツを持つパズル(かそのアレンジ)です。

一方、初期にはふるわなかった順位も、近年では三強(ドイツ・日本・アメリカ)と呼ばれるほどにレベルアップ。現在の日本には、世界チャンピオンから中堅クラスに至るまで多数の強豪がひしめき(ランキングを作れば、5人に1人は日本人にすらなる)、日本の代表戦は世界最高の厳しさと言われています。

世界パズル選手権が始まって今年で27年。その間さまざまな変化があり、関係者の意識もずいぶん変わったように思えます。そこで、これまで個人的に話を聞いたり、調べたりしたことをもとに、世界パズル選手権と日本のパズル界(国内選抜を中心に)の動きをまとめてみることにしました。


1990年 第7回クロスワード・マラソン
世界パズル選手権(以下WPC)の前身は、1984年ポーランドに始まったクロスワード・マラソンであるとされる。これは、各国4名からなる代表選手が24時間の間に、各自の言語でなるべく巨大なクロスワードを作成して競う大会である。参考資料として、25kgまでの辞書の持ち込みが許されていた。

その後クロスワード・マラソンは回を重ね、第7回の時点では13か国が参加するほどになったが、避けがたい問題として互いの言語の壁があった。言語の壁を越えたパズルの大会はできないか。かくして、アメリカのウィル・ショーツの発案により、世界パズル選手権が始まる。

1992年 第1回全日本パズル選手権&第1回世界パズル選手権
この年の6月、ニューヨークで第1回WPCが開催される。参加国は13か国。出題者としても参加した芦ヶ原伸之の「パズル病棟日誌」第23棟に詳しい。

日本からは、世界文化社が作家2名と読者2名の選手団を派遣。以降、世界文化社が日本での代表選手決定ならびに選手派遣を担うことになる。この年の決定方法は雑誌に応募用問題を掲載し、制限時間なしで総合得点を競う形式。全日本パズル選手権(以下JPC)の始まりである。

1993年 第2回全日本パズル選手権&第2回世界パズル選手権
第2回WPCは、同年にスロバキアとの分離独立を果たしたチェコで開催される。日本国内では参加選手決定のため、会場型のパズル大会が開催された。

JPCの流れを大まかに説明する。まずは世界文化社のパズル誌に掲載される準決勝参加問題を解いて応募する。問題は掲載誌によって異なり、各誌で抽選により当選者が決定する。例えば第16回であれば、100人×のべ12誌で1200名が当選者となった。

当選者には7月に約20~30問の準決勝問題が送付される。これを約一週間の期間内に解いて返送する。成績上位者100名(初期にはもっと少ないことも)が都内で開催される決勝に参加できるという仕組みである。筆者は第12回~第16回の5回にわたって参加したが、全問応募して4回当選し、決勝進出している。

のちに別ルートとして一発勝負のオンライン予選が追加されるが、このスタイルは2007年の第16回JPCまで継続される。

JPCでは会場に集まってパズルを解き、上位2名(のちに4名)がWPC日本代表となる。すべての参加費用は世界文化社とスポンサー各社によって負担されていた。

JPCの決勝後は、作家や編集者を交えた記念パーティーが開催され、成績上位者と飛び賞にはスポンサーの東芝による家電製品のプレゼントが行われる。WPC代表権を賭けた戦いという名目はあれど、2005年頃までは決勝参加者も成績上位者も毎年大きく入れ替わり、競技というよりは記念パーティーのために参加する人が主流派であると考えられていた。

1994年 第3回世界パズル選手権
ドイツで開催された第3回WPC。ドイツはその後、国内の衰退により、今年の第28回WSPCまで世界選手権を開催することはなかった。

この大会では、ワードパズルの多さが問題となる。もともと初期のWPCではクロスワードなどのワードパズルが多く、非英語圏の選手にとって不利であることが指摘されていた。これは、WPC開催の理念にも反する。

これを受け、世界パズル連盟は加盟各国に「言語によらないパズル」の収集を呼びかける。ここで大きな役割を担ったのが日本である。当時パズラー誌では、読者とパズル作家両方による新作パズル開発が隆盛を誇っており、ビルディングやウォールロジック、アローズといった、のちの定番パズルが大量に発明されていた。これらが日本発のパズルとして海外に紹介されたことで、今でも日本のパズルが競技パズル界において大きな地位を占める、その礎となった(なお、単発的にはそれ以前に輸出されたパズルも存在する)。

1997年 第6回世界パズル選手権
クロアチア初開催となるWPC。クロアチアは第1回からのWPC参加国だが、ユーゴ内戦によって自国開催が不可能だった。前々年にようやくクロアチアが独立を達成。満を持してのWPC開催となった。

1998年 第7回世界パズル選手権
トルコ大会。この大会は、日本にとって重要な意味を持つ。前年、WPC開催国にトルコが決定するも、当時のトルコ国内ではWPCの出題パズルを用意するだけの体制がなかった(どうして開催国になったのかは謎)。代わって問題制作を引き受けたのは日本。世界文化社とその所属パズル作家が全面的に問題制作を行った。

この時、日本のパズルを紹介する目的で、ニコリ社に対しても問題制作が依頼され、スリザーリンクや四角に切れなど4種類のパズルが出題された。今でもスリザーリンクをFencesと呼ぶことがあるが、これはこの時の名前が残ったものである。

パズルの評価は極めて高かった。さらに、言語的に完全に中立なWPCを実現したことでも評価が高い(たとえばシークワーズでは韓国語を使用するなどの工夫もあった)。ただ、問題制作に加えて、大会本番にも多くのスタッフを派遣し、日本の費用負担はかなり大きかったらしい。

なお、トルコには10年後、世界有数のパズル作家、セルカン・ユレクリが登場する。トルコは2009年、完全自国制作でWPC開催を果たす。

2000年 パズラー休刊
世界文化社のパズル旗艦誌である「パズラー」が休刊となる。パズラーはワードパズルから数理パズル、ひらめきパズルまで多様な種類のパズルを扱う総合パズル誌であり、読者投稿コーナー激作塾や、所属作家陣による工夫を凝らしたパズルの数々など、日本におけるパズル発展の重要な位置を担った。

パズラー休刊により、世界文化社でバラエティパズルを扱う雑誌がほぼ消滅(ナンプレファンの散発的な出題などは残ったが)。以降、バラエティパズルの発表の場として、JPCが一層大きな位置を占めるようになる。

2000年頃?
この頃、WPCでインストラクションが通例化する。インストラクションとは出題するパズルのルールをまとめたもので、大会の一週間程度前に公開される。参加選手は大会前に読むことで、パズルのルールを把握することができる。それまでは英文で与えられたルール文を競技時間内に読んで解かなければならず、やはり英語話者との間の不公平が問題になっていた。

インストラクションの普及により言語的な不利は是正されたが、競技が高度化し、事前研究が必須となってしまったという面もある。なおJPCでは、オンラインコンテスト形式では事前のインストラクションあり、会場で行われる大会ではインストラクションなし(その場で日本語のルールを読む)という方式が一貫して採用されている。

2001年 第10回世界パズル選手権
2回目のチェコ大会。この年特筆すべきことは、9月に発生した同時多発テロである。8月のJPCで既に参加選手は決まっていたが、テロを受け急遽派遣は中止。西尾徹也氏ひとりが参加した。大会後、幻の選手団となった参加者を招いて、東京でミニWPCが開かれたという。

2002年 第11回世界パズル選手権
北欧フィンランドで開催されたWPC。この大会で初めて、日本が団体優勝を果たす(それまでの最高順位は、トルコ大会での、中井昌氏の個人2位)。この年はフィンランド以外にもさまざまな国の作家に呼びかける形で問題が集められており、「クセのない出題が日本人向きだった」とされる。

2006年 第1回世界ナンプレ選手権
数独ブームを受け、世界ナンプレ選手権が設立される。第1回の開催国は、提案者でもあるイタリア。その後2010年の第5回まで、春のWSCと秋のWPCという一年に2回のイベントとして開催された。日本からは「視察」として、西尾徹也氏率いる作家メンバーが出場している。

数独ブームには「Sudokuのエキゾチックな響き」が秘密であったとされ、これを機に日本語のパズル名がそのまま受け入れられる下地ができた。今ではSlitherlinkやKakuroなど、多くのパズルで日本語の名前が使用されている。

2006年 第15回全日本パズル選手権
この頃から、WPC日本代表選手の固定化が始まる。それまではWPC参加選手4人のうち3名は初出場の選手になるのが通例だったが、この時期を境に、WPCに複数回挑戦してレベルアップを重ねる選手が増え始める(それまでも青木真一氏や有松太郎氏など個別的な事例はあったが)。個人の優勝者はまだいなかったが、上位クラスの選手層が厚くなり、「団体戦に強い日本」のイメージができ始める。2005年以降、団体上位3ヶ国はほぼ毎年日本、アメリカ、ドイツによって占められている。

2007年 第1回全日本ナンプレ選手権&第2回世界ナンプレ選手権
チェコ開催。オンラインコンテストによって4名が選抜された。
チェコ、ハンガリー、クロアチアといった中欧地域の国は歴史的にWSC、WPCの開催回数が多い。問題制作能力はもちろんであるが、それに加えてこれらの国は為替レートが安く、参加費・開催費用が抑えられることが理由であるとされる(WPCは総じて金欠である)。また、参加国の多くを占めるヨーロッパ諸国からアクセスしやすいメリットもある。

2007年 第16回全日本パズル選手権
会場型大会として最後の全日本パズル選手権。これを最後に(この次だったかも)、WPC参加費用は全額選手負担となる。なお、この年のWPC開催地はブラジル。南米で開催された唯一のWPCであり、日本を含め参加国の負担が非常に重かったらしい。

2008年 第3回世界ナンプレ選手権
インド開催。インドは2004年がWPC初参加だが、熱心な活動によりたちまちWSC開催国となるに至った。ちなみに2010年以降はIT技術によって、オンラインコンテストの時代を築き上げる。

この大会は、第1回WSCを除けば、初めて公開の選抜が実施されなかったWSPCである。第2回WSC参加者から自費での参加希望者を募るという形で選手派遣が行われ、以降国内選抜が行われなかった回の標準的な派遣形式となる。

2008年 第17回全日本パズル選手権&第17回世界パズル選手権
ナンバリングされた最後のJPC。オンラインコンテスト1回のみの開催となった。

WPC開催国はベラルーシ。もともとはエストニア開催の予定であったが、前年になって急遽開催が不可能になり、ベラルーシが引き受けた。パズルを制作したのは、世界有数のパズル作家ウラジミール・ポルトゥガロフ(代表作はKropki)を中心とする、ロシア圏のパズル作家たち。準備期間の短さにもかかわらず、パズルのクォリティがすばらしかったため、高く称賛されている。

2009年 西尾徹也杯ナンプレ選手権2009&第4回世界ナンプレ選手権
この年、西尾徹也氏の個人大会という形で、代表選抜が行われた。世界文化社のバックアップを離れ、作家と協力者による手弁当のオンラインコンテストであった。

さて、この年のWSC開催はスロバキア。残念ながら、一部で「最低のWSC」と語り継がれる大会となってしまった。ほぼ全てのラウンドで理詰めの解法のない問題が出題され、別解問題も多数あったという。これ以降、開催国への立候補には一定のハードルが設けられるようになったという。

なお、スロバキアはこれを契機にしてか、その後数年で若手層が一気に拡大。今では中欧エリアの一角として大きな存在感を見せている。再びの開催となった2016年大会は、すばらしい大会運営とパズル出題で広く讃えられている。

2010年 全日本パズル選手権 2010&第19回世界パズル選手権
ポーランド大会。2年ぶりのオンラインコンテストによるWPC選抜。

有松太郎氏が日本人として初の世界パズル選手権優勝を果たす。有松氏の世界選手権初挑戦は2002年だが、その後は長期休暇が取得できず毎年辞退、2度目の挑戦での優勝となった。決勝戦は4名で争われたが、日本人選手3名が王者ウルリッヒ・フォイグト(ドイツ)を囲む形となった。このころには、日本はソルバーとしても強国のイメージを確立しつつあった。

2010年頃 選抜不在の時代
日本国内の体制も一定せず、WPC、WSCの代表選抜も、次第に開催されないことが多くなった。開催されなかった年の代表は、直近のWPC、WSC参加者に対して内々に参加希望者を募るという形で実施された。

2010年 Logic Masters India月例パズル開始
2000年代にもオンラインコンテストはあったが、一般のパズル大会とは異なり、一週間程度の期間で難問を解くものが主流であった。2時間程度のオンラインコンテストも散発的にはあったが、インドによるLogic Masters India(以下LMI)の開設以降、それが一気に加速することになる。

当初LMIはナンプレのコンテストを実施していたが、2010年頃から月替わりで世界のさまざまなパズル作家に声をかけ、バラエティパズルのコンテストを開催するようになった。LMIの登場以降、オンラインコンテストの開催頻度は飛躍的に増えた。一方で、さまざまな作家が作品発表と速やかなフィードバックの場を得たことで、パズル作家の質を引き上げることにも寄与した。

同時期、ニコリの運営するニコリコム(2019年3月閉鎖)も大きな役割を果たす。ニコリコムでは一問ずつの形式ではあるが、毎日問題が出題され、時間を競う。著名な海外ソルバーも多く入会し、定番パズルの練習の場として重要な役割を担った。

これらによって、WPC経験者以外にも実力を伸ばしていくソルバーが登場し始める。しかし、かれらがWPC参加権を得るチャンスは2013年を待たねばならず、ある種の不均衡が進行した時期でもあった。

2011年 第6回世界ナンプレ選手権&第20回世界パズル選手権
ハンガリー大会。国内選抜はなし。

WSC設立以来、春のWSCと秋のWPCの年間2回体制で開催されてきた(開催地はそれぞれ異なる)が、参加者にとって負担が大きく、これ以降は同時開催が通例となった。10月~11月の一週間に連続して開催されている。両方に参加すればWSC2日、WPC3日(+到着日、観光日、出発日の3日)という長丁場のイベントである。期間の長さと、それによる開催負担の大きさは課題になっている。

2013年 日本パズル選手権2013&第22回世界パズル選手権&第8回世界ナンプレ選手権
この年、現行体制の日本パズル連盟が端緒につき、ようやく公開の代表選抜が復活した。WSC、WPCそれぞれで上位8名(重複を除くと全体で9名)が中国で開催されたWSPCに参加した。このうち、初参加者は4名。

2014年 第23回世界パズル選手権&第9回世界ナンプレ選手権
イギリス大会。森西亨太氏が初挑戦から4年、日本人として初の世界ナンプレ選手権優勝者となる。その後、2018年までに4回の優勝を飾る。

2015年 第24回世界パズル選手権&第10回世界ナンプレ選手権
ブルガリア大会。遠藤憲氏が世界パズル選手権3回目の挑戦にして、日本人2人目、自身初の優勝を果たす(その後2018年までの優勝回数は2回)。頂点、中間層ともに日本の強国イメージが固まる。

2019年 第28回世界パズル選手権&第15回世界ナンプレ選手権
25年ぶり2回目のドイツWPC。ウルリッヒを始めとして、ソルバー、作家ともに世界最高レベルのドイツであるが、10年ほど前の商業的撤退以降、競技パズル団体が中心となって運営を行ってきた。Logic Mastersを中心とする組織運営は、世界でも有数の堅実な体制を感じさせる。

今回、ようやく国内の体制が整い、念願のWSPC開催となった。なお、開催地のキルヒハイムは、ベルリン近郊ではコスト的に折り合わなかったための選択だという。物価の高い国での開催には困難が多い。

2020年 第29回世界パズル選手権&第16回世界ナンプレ選手権
開催地は上海。現在開催地が確定している最新のWSPC。中国はWSC参戦から10年程度の新興国であるが、若年層(小学生~)向けの競技ナンプレが大成功しており、大規模かつハイレベルな選手層が育ちつつある。

中国は2013年北京大会に続く2回目の開催で、大会運営能力ならびにWSCの出題能力は申し分ない。一方、WPC問題制作は不安視されている(2013年大会ではハンガリーが全面的に担当した)。WSPC参加者の多くにとって、今なお、「面白いパズルが解けるイベントであること」は大きな価値を持っているのである。


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