2011年3月11日、私は。

東日本大震災から9年になる。
私は当時、大学3年生で就活生だった。

あの日。
東京での説明会と選考に向けて、当時住んでいた最寄りの明石駅から新大阪駅へ向かっていた。
たまたま友達も同じタイミングで東京で選考会があるから、一緒に移動することにした。
友人はその日、昼に難波で説明会があったから、それを終えて合流して移動することにしていた。
一人で東京へ行くなら、朝から移動して、昼は観光して、夜に兄の家に行くことが多かった。この友達が一緒に行こうと声をかけてくれなかったら、きっと私も東京で被災していたと思う。

新快速のなかで「就活で東京にいってる」とSNSでつぶやくと、複数の友達から連絡がきた。
ある人は「お台場で大きな火事があったみたいだよ」
ある人は「東京でなんか地震があったらしいよ」
ある人は「東北?で大きな地震みたいだよ」
情報が錯乱している。当時はガラパゴス携帯で、それでニュースをみる術を私は知らなかった。

新快速が止まった。
「ただいま地震が発生したため、一度停車しています」という内容だった。
一緒に行く友達から「難波、けっこう揺れた。地震かな?」
電車にいる僕は、外の状況が全くわからなかった。

新大阪駅は大パニックだった。
新幹線が全て運転を取りやめ、払い戻しをする人、事情を確認する人でカオスだった。
人混みをかき分けて、やっとの思いで友達と合流した。
「なんか、すごいことになってるね…」と見たままの感想を言った。
新幹線が運転を取りやめていても、私たちは田舎者だから「まあそのうち動くんじゃない?」と呑気なことを言って、喫茶店に入った。
2時間、3時間を過ぎても新幹線が動く気配がなかった。
それどころか、店に出入りする客が「なんかすごいことになってる」と会話が聞こえる。
地震や津波という単語が聞こえ、やがて「やばい」も耳にした。
場所を変えようと店を出て歩いていると、スクリーンで臨時ニュースが流れていた。
想像を遥かに超えた世界がそこにはあった。

選考先の企業に電話をしても繋がらない。
夜は兄の家に行く予定だったから電話しても、繋がらない。
すごく嫌な予感がした。
東北と東京、距離は離れているはずなのに、東京にいる兄にも何かあったのかと不安になる。
とりあえずメールで「新幹線が運休してるから、行けないかも」と伝える。
少しして返信があった。

「絶対こっちにくるな!!!」それだけだった。

その日、東京と選考会は諦め、友達と大阪で夜ご飯を食べて明石に帰った。
家でテレビを見て、事態が少しずつ見えてきた。
津波の映像が何度も放送されていた。
昼間のSNSの投稿を見た友達からも連絡がきた。

実際に被災はしていない私。
でも、連日報道される大震災の様子や、津波の映像…
そこに自分がいたら、と想像することが増えた。
逃げ切れる自信がない。
その場にいなかった家族や大切な人とどう連絡をとるのか。
想像すればするほど苦しくなった。
気分が落ちた。
のちに言われるようになった、津波や事件の映像を見て鬱に近い症状に陥ることがあること。多分私はこれに近かった。
4月から多忙を極める就職活動も、うまくいかなかった。
何もかも自暴自棄になった。


このように記憶に残っている、東日本大震災。
最近、四国でも震度3の地震があった。
南海トラフ巨大地震は必ず発生すると言われている。
阪神淡路大震災・東日本大震災があった。
前者については、私は幼くて記憶にない。
でも、話は聞いている。報道で映像も見た。
地震は防げないけど、備えることはできる。
きょうは、防災リュックを見直そうと思う。
未曾有の出来事、無駄にしない。
自分にできること、少しずつやろう。

月末、東北への出張がある。
復興が進んだ街で、おいしいものを食べてお金を落とそうと思う。
それが、私にできる復興の一歩だから。

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