互いに愛し合うのは大事ですがそれより優先されるものって何ですか?

お互いに愛せよというのは、非常に大切な徳目であり、人格を構築する上で重要な要素にもなっています。けれどそれが、キリスト教の最重要課題でしょうか?

そもそも

信仰=互いに愛せよ

という図式もおかしいように思います。だったら、キリスト教で大事なものって他に何があるのでしょうか?

世俗主義や刹那主義でも互いに愛せよは否定しません

よくよく考えたら互いに愛せよを否定する、世俗主義者はいないはずです。
人類は皆兄弟だというコンセプトは、別にクリスチャンでなくても、それはそうだと基本いうことでしょう。

いやそれは、キリスト教が広めたものだ。そういう言い方も、あるかもしれませんが、キリスト生誕以前の人類の文化でも、それが全く意識されていないでいたのでしょうか?キリストが初めていったことなのかと、言うとキリスト以前の宗教指導者たちも、似たようなことはいってはいるのです。

互いに愛せよというだけでは、それは他の宗教も世俗主義者も行う、つまりこれは道徳や倫理みたいなものと言えなくもありません。確かにキリスト教の方が、純度は高いのはあるのかもしれませんが…

しかし、キリスト教として特殊な内容があるとしたら(もちろんユダヤ教と共有はしていますが)、それは主が言われた、第一の律法の解釈についてです。結局は唯一神と、それに対する人の応じ方に、キリスト教の特殊性があると考えてもいいのではないでしょうか?

心をつくして汝の主を愛せよ

キリストがいう第一の律法は、心を尽くして汝の主を愛せよでした。これはいわゆる信仰というのに、繋がるかと思います。お互いに愛せよは、どうも
信仰そのものというよりも、人としての倫理的な項目の部分ではないでしょうか。

第一と第二の律法には、優劣がないという考えもできますが、主がいわれたこの第一の部分がない状態だとすると、そこにキリスト教的な風味がなくなってしまうように思います。何のために互いに愛せよ
より、神との交わりである部分をいわゆる、第一の律法にしたのでしょうか?

もちろんそこには、十戒を意識したキリストの意図があったと思います。私はだから、第一の律法の意義をなくした状態での、ヒューマニズム的な愛だけだと、そこに信仰の目的とか何か足りなさが、いずれでてくるのかと思うのです。これは心霊の復興にも大きく影響を及ぼす、ポイントだとも思います。

そしてこの第一の律法を成就するには、基本祈りの活動しかないと思っています。その問題はしっかり考えないと、キリスト教はただの倫理宗教になってしまい可能性を含んでしまうと思うのです。

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