快不快を主軸とした社会構造が人の性質を作っている。

この社会の原動力は快不快だ。社会作用が起こると必ず快不快が発生する。

この事象が習慣となり、人の当たり前の性質となる。快不快を基準とする生き方は社会起源であり、自然にはない。

と、言うことは自然に好不幸はない。ないからこそ社会があるとも言えるかもしれない。人は群れることで好不幸を作り出す。しかも幸福側不幸側と別れる。群れた全ての人が幸福側にいられるかは疑問である。

人は群れると優劣を決めたくてしょうがなくなるようだ。それが好不幸を呼ぶ。比較が優劣を呼ぶのではなく、優劣を決めるために比較が生まれる。

比較思考が快不快を呼ぶ。比較が無くなれば個としての実感しかない。比較なくして社会活動は成立しない。個としての実感とは世捨て人的状況からしか現れない。

比較を制して快不快を制し、新たな心境が生まれる。比較を制すとはあらゆる優劣を決定する基準をもつことになる。その時、快不快は基準となり、社会の原動力が基準となる。さらに基準が心に宿ると社会の原動力は基準から神性となる。神性とは社会と自然を一括にした場合の根源を指す。

神性を持つということは社会と自然に依存しない生き方を得ることになる。神性とはその人によって変わる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?