谷町・目白・木の都
織田作之助と地元が一緒だ。
だからというわけではないがオダサクの小説がすごく好きだ。
オダサクの小説の舞台でよく出てくる大阪の谷町とか上町とかいう辺りに今も住んでいて、通った中高もそのあたりにある。
彼に『木の都』という掌編がある。
「大阪は木のない都だといはれてゐるが、しかし私の幼時の記憶は不思議に木と結びついてゐる。(略)大阪はすくなくとも私にとつては木のない都ではなかつたのである」
こんな書き出しから始まるのだが、これは僕にとっても当てはまる。
後に数年暮らした東京の市街地は大阪の市街地に比べると断然木が多かったように感じるが、大阪も木がないわけではなかった。
谷町や上町を歩いたり運転したりしていると、道や路地の真ん中にでんと大木が屹立している光景に出くわすことがある。
通行の邪魔になりそうなそんな大木たちは道路が敷かれる前から既に大木であって、大概なにかしらの曰くがあって、だから祀られ切り倒せずに現存している、らしい。
あまりにも当たり前のように路上に木が立っていたものだから、上京して数年経ったある年のこと、帰省して散歩していると、家の近所のとある路地の木が消えていて「あれ、この道って木なかった?」と狐につままれたような感覚になったことがある。
調べると神木も寿命に勝てずに伐採されて整地されただけで、知らない人から見れば「路上に木がない」普通の光景なのに、しばらくその路地を歩いていなかった僕にとっては「新世界から通天閣が消えてる」ほどの違和感があった。いまはその違和感も薄れてしまった。
数年間、東京の新宿区内を転々と暮らしていたが、最後に住んだのが新宿の北の端っこの目白のあたりで、そこで人生で最も生産性のない日々を過ごしていた。
青春を回想する甘さからか、できることならもう一度あのあたりで寝起きしたいと思えるくらい好きな街で、すべての路地を覚えていると言っても過言ではない。
木の多い街だった。
薬王院という寺院の前やおとめ山という公園の前の坂道は、少し歩けば池袋、高田馬場という喧噪があると思えないほど鬱蒼としていて、狐狸に化かされそうな道、どころか本当に狸がいる道だった。
その目白にも路上に立つ木があった。大阪の路上の木と違って神木ではなく、一本がかつて近衛篤麿(あの文麿の父)の邸宅の車寄せにあったらしいケヤキの木で、この木にはあんまり思い入れはない。
もう一本、彝(つね)桜と呼ばれる枯れた大きな桜の木が細い裏道に立っていた。
そこで初めて知ったのだが、中村彝という画家が目白にアトリエを構えていてそのアトリエが記念館となっている。その側に、中村彝が生前愛した桜があって、その木が残されていたのだ。
ただ、初めて見た彝桜は周りに鉄の支柱が設置されていて、「安全面の考慮のために伐採します」というようなことが書かれた新宿区からの掲示が貼ってあった。
そう日も経たないうちにそこを歩くと、もうその木は伐採されて何事もなかったかのような綺麗な裏路地になっていた。
地元の木の死に目には会えなかったが、たまたま住んだ街の木の死に目に遭遇して、その街の歴史に関わったような気がして、だから目白への思い入れが強くなったのかもしれない。
中村彝の記念館は、ふらっと入ることがあったが、この「頭蓋骨を持った自画像」という絵が好きだった。
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