見出し画像

3月に読んだ本

夜中に突然目が覚め、不思議な体験をした。
心臓の鼓動が速くなり、身体が熱くなる。
眼球が瞼の裏側で上へ上へと向いているのを感じる。目を瞑っているのに、ベッドの周りの風景をありありと感じられる。
そして意識が身体から離れようとしている感覚がある。
頭の中で、自分の意識が叫んでいる。
「すべては認知である」「すべては認知である」「すべては認知である」
それは、今起こっている身体の変化に必死に対応しようとする声にも聞こえるし、同時に、身体から離れようとする意識がすべてを悟った上で語りかけてくるようにも聞こえた。
自分にまつわる様々な事項。将来の見通しのたたなさや明日やるべきことなどは、すべてちっぽけな紙粘土のように感じた。あまりの無敵感に、気分が高まるのを感じる。
一方で、隣で眠っている妻の姿を見て、まだこの世界を離れるわけにはいかない、離れたくはない、と強く願った。この世界でまだ見ていない景色があまりに多すぎる。

大学から受けた仕事はひと段落した。大学教員数名にインタビューをして、社会人学生の学び直しについての意見を聞いた。
当然だが、自分が知らない世界がその人の数だけあるということに、感銘を受けた。そして、自分が人生においてそうした世界を体験できないことを残念に思っていることにも気づいた。
東南アジアの島で火山の研究をする人生、数式の解明に日夜をかける人生。
どの人生も素晴らしく、どの人生の物語も読んでみたいと思った。

テーブルに並ぶカレーライス。

人生の意味の哲学 現代思想

>「人生の意味」と「人生に意味を与えるもの」は分けて考える必要がある。
自分を含め、多くの人はふたつを混同している。人生に意味を求めても、ただ無限の欲求の渦に巻き込まれるだけだ。人生に意味はない。だが、人生に意味を与えるものはカウントすることができるし、それは自身の考え方次第で
冒頭の森岡正博氏と古田徹也氏との対談で、障害者運動が出てきたのは面白かった。「生まれてこなかった方がいい者」として、積極的に生の意味を否定された人々の抵抗が問われるべきだと。僕が障害者に惹かれる理由もそこにあるのかもしれない。

https://amzn.to/3x9hS4Q


精神障害を生きる 駒澤真由美

精神障害を抱えて生きる人々が、働くことを通じてなにを感じているか、当事者の語りに迫った研究。精神障害の原因となった経験は、仕事での過度の負荷であったり、過酷な家庭環境であったりとさまざまだが、各々が自身の中に自分なりの「合理性」を持ち、自身の現状を肯定しようしている様が印象的だった。「障害者」という烙印を自らに押してしまうことが、システムから保護を受ける手形でもあり、同時に劣等感を感じさせていることが問題として挙げられている。


知的障害・自閉の人たちと「かかわり」の社会学 三井さよ

たこの木クラブという知的障害者とともに生きるを抱える事業所内での参与観察。本書では一貫して、ルーマンの「ダブル・コンティンジェンシー」(二重の偶然性)の概念が補助線で使われる。自分が「知的障害者」でもあり得たかもしれない、という想像力によって、相手の行動を「理解する」。一見、暴力的で制御不能に見える障害者の行動は、別の見方をすれば「必死の訴え」と捉え直すことができる。相手にレッテル貼りをしないこと、システムに押し込めないこと。



能力の生きづらさをほぐす 勅使川原真衣

資本主義社会で生き残るためには、自己研鑽をし続けなければならない。
教育社会学出身で、人材開発コンサルに従事した筆者が、そうした圧力を生きづらさと言い切り、その呪いを解こうとする本。
結論は「ネガティブ・ケイパビリティ」を説いているので、あまり真新しいことはなかったが、語り口が死んだお母さんが(将来会社員で思い悩みそうな)子供に語りかける風になっているので面白かった。
能力主義の呪いを解かなければ、死んでも死に切れないという。人の能力は環境や人間関係次第。そういう意味では、障害の社会モデルに準拠した前ふたつの本と問題意識は共通している。障害者とは、競争社会でうまく競争できない人たちのことだから。そして、それが辛いのは健常者(とされる人)も一緒だ。


仕事は初速が9割

一応仕事をしているので仕事関連も。仕事は初速が9割、は確かにそうだが、自分の場合、速さは精神状態に左右されやすいので、とにかく疲れが少ない状態で仕事をすることが大事だ。頭でやろうとしても、身体が追いつかないこともある。
最近、仕事の仕方が変わってきた。
今までは、時間をかけてもきちんとした質を担保することを美徳にしてきた。前職では成果物が全てだったので、納品前には必ずレビューをする、と言ったような。
ただ、今となっては速さが重要だと思っている。なぜなら、質は結局相手がどう思うか次第だが、速さは共通だからだ。どんなにきれいに作っても相手が求めていることを満たしていなければ「質」は低くなってしまうし、逆もまた然りだ。
いわゆる主観的な「質」を上げるには、相手とコミュニケーションを取りまくるしかない。ここでも、結局コミュニケーション。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?