2024/6/15

名古屋の会社の友達に誘われて、サカナクションのライブに行った。
印象に残ったがたくさんあったので、1日を記録として残しておこうと思う。

9時に起き出し、家事の諸々を済ませる。備忘のために書いておこう。

  • 音楽をかける

  • 歯磨き、洗顔

  • 洗面台の掃除(気付いた時

  • 小便

  • トイレ掃除(週末のみ

  • 2階の掃除機(週末のみ

  • 風呂掃除(週末のみ

  • ゴミ箱を空に(週末のみ

  • 食器洗い

  • 朝ごはん

    • 野菜ジュース

    • プロテインバナナスムージー

  • サプリメント

    • ビタミン剤

    • ビオフェルミン

    • 抗生物質

  • 筋トレ

  • 化粧下地、日焼け止め

行きの鶴舞線で、カフカ作品の解説記事を読む。

プルーストにとって、人間の内面世界は私たちを感嘆させてやまないひとつの無限、ひとつの奇跡でした。しかしカフカの驚きはここにはありません。彼はどんな内的動機が人間の行為を決定するのかとは問いません。それとは根底的に異なる問いを提出するのです。外的決定要因が圧倒的に強くなった結果、内的動機の意味がもはやなくなった世界にあって、人間にどんな可能性が残されているのか、という問いです。

今まで読んだ中で最もしっくりくる解釈のひとつだ。実存にフォーカスを当てている文学作品は、プルースト的かカフカ的かでマッピングをすることができるのかもしれない。

会場には車で行った。友達の家の近くの最寄り近くのウェルシアで待ち合わせをし、お決まりの赤いCOLTに乗せてポートメッセに向かう。

友達のYくんは名古屋でできた数少ない友人のひとりで、サッカー観戦や好きな音楽が合ってよく話をしたり、ライブに行ったりする。「スターリング(イングランドのサッカー選手)くらい反り腰」とか「ノエルのチケ代はほとんどDon't Look Back In Angerの演奏代」みたいな軽口が言い合える貴重な友人だ。地方の国立大を出て、地元に友人が多い。「バカじゃないマイルドヤンキー」を自称している。東京での暮らしに慣れきっていた自分にとっては、あらゆることが新鮮だった。

まず移動はどこに行くにしても車。行きたいところを挙げては、「迎えにいく」「送っていく」が口癖。行き先で観光に困ったら、その土地に詳しい友達に「LINE電話」する。そしていきなりの電話に友達がちゃんと出る。
郊外の県道沿いのラーメン屋の名前を挙げては、「え、行ったことないの?」と驚く。週末はコストコに出かけ、数週間分の食料を備蓄する。

逆に、彼にとっては東大生の友達は初めてだったようで、「意外と普通」だったと言っていた。それはそのはずで、自分も福岡の田舎の高校に通い、電車でGReeeeNを聴いたり、キオスクでサンデーを立ち読みしたりしていた。
けれど、やはり育つ上で触れてきたものの違いはよく感じる。「階層文化」という概念を思い出す。

とはいえ、たまに垣間見える違いを感じつつ、僕は彼といる時間がとても心地が良い。
僕は、気の知れた人には持論を並び立てて思いつくままに喋る癖がある。最近は妻以外の人と話すことも少なかったが、彼の前では堰を切ったように話してしまう。それを彼は当たり前に聞いてくれる。ひと通り聞き終えた感想は、「そんなふうに考えたこともなかったわ」か「似たようなことはあるよ」が多い。

車の中で自分は、東大生は小学生からの塾通いによって、「作る」ことができると述べた。コンクリートで固める感じで、イメージするなら与那国島のような。与那国島は聞いたことあるよね?、と聞いて、簡単に説明を加える。子どもに中学受験はしてほしくないと言う自分に対し、彼は、「そうなんや。おれの周りには小学生から塾に入れようって思っているやつはいなそうよ。子供も大変だね」と苦笑いする。そういった違いだ。

自分は、東大生を作る、という行為について考えていた。

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自分は階層を上げた。

父親は福岡のマンモス私立大だが、バブルの頃にハードだが給料がいいという理由で(本人談)、外資の製薬企業に営業として入社した。母は女子大卒で専業主婦をしながら、自分が小学生になった頃に赤ペン先生を始めた。運動神経は父、文書処理能力は母から、いい素材を受け継いだと思っている。
父の収入のおかげで、小学校からの塾通いや、私立高校へ進学する自由を得た。大学にも奨学金なしで行くことができた。そうした犠牲として、父は単身赴任が多く、小学生の数年以外は離れて暮らしていた。

小学校で塾に通っていた頃の記憶は、いいことばかりではない。
けれど当時の蓄積のおかげで、学歴が手に入り、今ブラックな労働現場にしがみつかざるを得なくなるリスクを回避できているとも言える。
「自分のような性格の人間は、愚直に勉強をするのが最適解だった」という理解と、「小学校からの過度の勉強習慣は悪影響を与える」という両方を語るために、当時を振り返りたいと思う。

塾へは自分から行きたいと言って入った。勉強することは好きだった。ただそれは「小学校で目立てるくらい」の学力をつけたい、程度の動機だったように思う。塾で勉強すればするほど、小学校で習う知識はほとんどが既知のものになっていき、100点以外取りようがないような状態になっていった。そのことは塾の勉強をますます加速させ、成績はみるみる上がっていった。
しかし成績とは裏腹に、自分は頭痛から頻繁に塾を休んだ。(そして半分くらいは仮病だった。)当時は、学校から帰ってきた直後に母の作った軽食を食べてすぐ電車に乗り、18時半から21時半まで、4コマを受けていた。小テストの点数が悪いと、22時過ぎまで再テストがあった。勉強は苦痛だったわけではない。だが、塾に行くことは、自分に与えられた役割遂行であり、できれば回避したい儀式だった。

休んでもいいと言う母に対し、父は心配しつつもフリスクを食べたらスッキリするよと言うタイプだった。父が送迎をしてくれる日は、あまり塾を休むことはできなかった。ふたりとも自分が仮病を使っていることは知っていた。

父は大病院の医師相手に営業をしていた。自分の塾には医者の息子や娘がたくさん通っていて、父の知っている名前も多かったようだ。だから、自分の息子が彼らのご子息よりも上に乗った成績表を見ることはとても誇らしかっただろうと思う。

社会階層とは、そういうことなのだ。当時の自分にとっても、医者の息子に成績で勝つことは一種のカタルシスがあった。というより、もはや成績の良し悪しが、自分の中の人間の価値を決めていた。下のクラスの友達と帰りの電車で一緒になるが、下のクラスの友達はたまに自分のことを「様」付けで呼んだ。自分はどこか得意げで、どこか寂しいような、複雑な気分のまま帰りの電車を過ごした。

成績上位の生徒は、東京の開成中や麻布中に受験遠征をすることができた。そうした元手は、成績下位の生徒の補習料から来ていた。
仕方がない。勉強ができないのが悪いのだ。
自分は福岡の第一志望の合格後、麻布中に記念受験に行き、東京を満喫して帰ってきた。ちゃんと落ちていた。

自身の価値観以外にも、塾に通っていたことはいくつかの意図せざる影響をもたらした。ひとつは、当時通っていたサッカークラブの練習に参加する頻度が落ちたことである。同じクラブの友達は、週3日の練習を欠かさなかったし、休みの日は公園でボールを蹴っていた。一方で自分は掛け持ちであったため、自分がレギュラーとして試合に出ることは多少の摩擦を生んだりもした。とはいえ、サッカーよりも勉強を選んだ方がリアリティのある選択だという「醒めた」見方をしていた。しかし、小学校6年になるとほとんど練習には参加せず、クラブの友達がサッカーを通じて交流することは無くなった。そのことは、自分に卒業まで疎外感を与え続けた。
そしてもうひとつは、成績がいいことによって、教員から成績の悪い子への「支援」を求められたことだ。小学校6年の時、「上島さん」という女の子がいた。彼女は全く勉強について来れず、見た目も同情を誘いづらく、ほとんど自分からは喋ることができなかった。何より、彼女からは異臭がした。家が貧しく、風呂にもろくに入れなかったのだろう。クラスメイトの多くは彼女をぞんざいに扱った。ある日、課題が早く終わっていた自分は、余った時間で上島さんの勉強の面倒をみることを担任に頼まれた。僕は仕方なく、何度か彼女の席に行って、白紙同然のプリントを埋めることを手伝った。近づきすぎると臭いがしたので、自分が喋る時以外は少し遠目から眺めた。当時の自分には、「なぜ彼女がこんなに臭うのか」「なんでこんな問題がわからないのか」理解できなかった。しかし、そういうことをするたびに、クラブの友達を中心に「なんであんなことをやっているんだ」とからかってきた。「先生に媚を売りたいのか」と。小学生に社会正義のような立派な看板はない。ただ、友達と馴染めないもどかしさや受験勉強のストレスと、助けた方が良さそうな女の子と大人からの期待の眼差しとの間で、ある日何かが爆発した。勉強を教えるのを中断すると、ありとあらゆる手につかめるものを黒板に投げつけ、教室を飛び出した。その後母親が学校へ行っていたが、その後の顛末については覚えていない。

教訓があるとすれば、自分は得た知識を自分のためにしか使うつもりがなかったということだ。というかむしろ、自分のためにすら、使っていなかったのかもしれない。それは、犬がフリスビーを取ってくるようなものだ。フリスビーを取る行為と自分自身との関係について、真剣に考えたことがなかった。自分は自分の子供に、従順な犬になって欲しくないと思っている。

また、小学生の受験勉強というのは、ともすると虐待的な水準になりうる。人に頼ることが苦手だった性格も災いしたように思う。

自分は大人になるまで、ソースカツ丼がずっと苦手だった。

小6の時は、クリスマス翌日の26日から30日まで、勉強合宿に参加した。(勉強合宿は、夏にも4泊5日、9月10月11月は3連休に2泊3日行われていた。)合宿では、朝6時から日付が変わるまで自習室が開放されており、リフレッシュタイムと呼ばれるおやつの時間の30分の散歩以外は、外の空気を吸うことはなく授業づくしだった。合宿3日目の夕方からずっとひどい頭痛がしていた。持参したバファリンを飲んでも改善されなかったが、ここで授業を休むと翌日のテストに響くと思い、夕食後の休憩中にトイレで無理やり食べたものを吐き戻した。便器の中は、夕食で食べて消化待ちだったカツとソースが、茶色く混ざっていた。外からは「誰?かわいそう」という声が聞こえ、自分はその声が聞こえなくなるまで待ってから、ドアを開けて教室に戻った。

自分は、たとえ体調が悪くても、人違いの叱責を受けても、後からそれが発覚して申し訳なさそうな顔で大人が自分に謝罪してくれることを祈るようになった。とにかく自分が我慢をすれば、事はスムーズに運んでいくのだと。

とにかく、中学受験は異常だった。
その経験は自分の中で、さまざまな価値観を決定づけた。
就活の自己分析で、自分には挫折という挫折の心当たりがなかった。自己認識の世界から大きく外れるような経験を徹底的に避けてきたから。その世界では、学歴がモノを言い、学歴のない人の話は価値が低い世界だ。
自分のアンテナに欠陥がある可能性には、敢えて盲目的になった。自分に分かり合えない他者と向き合う胆力が欠けていること自体に、敢えて向き合わなかった。

なぜなら、自分は勉強ができたからだ。いい大学に入れないこと以外は、かすり傷だった。そして就活をする頃になって初めて、自分の魂の形が、世間の人々よりも固く歪な形をしていることに気づいた。

その修復作業には、少なくない痛みを伴い、今もまだ痛み続けている。

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サカナクションのライブについてはあとで書く。

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