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仏像と私~出会い編①~

県境を越えての移動が制限解除になったとはいえ、まだまだ観光に遠出するのに二の足を踏む人も多いかと思います。

観光業界にも多大な影響を与えているこの事態が、一日も早い特効薬開発の元、正常に戻ることを祈るばかりです。

さて、仏像マニアと思しきプロフィールを公開しておきながら、note開始5日目にして初の仏像トーク。こんな世の中ですので、今はなかなか仏像探訪に出掛けることができませんが、これまでの仏旅・思い出話からスタートします。

まずは、仏像とは何ぞや?(これは、すでに世に出ている仏像マニア本から得た知見などをもとにご紹介します)、そして、私が仏像に興味を持つに至った思い出を知っていただければと思っています。

1、仏像とは何ぞや?
2、仏像の種類
3、仏教?仏像?聖徳太子?~興味を持つに至った思い出・小学生編
4、仏像って面白い!~興味を持つに至った思い出・中学生編

1、仏像とは何ぞや?

仏像。その名の通り仏の像。いやいや、もちろん、こんなたったの一文で終わらせるつもりは毛頭ございません!!

かなり端折った内容になっているのは、ご容赦ください。

仏像がいつごろから制作されるようになったかはいまだはっきりとした説がありません。そもそも、成立当初には、仏教に「像」を作るという概念はなかったようです。というのも、仏教を興したゴータマ・ブッダ(ゴータマ・シッダールタ、ブッダ、釈迦)は、その教えの中で「自らを拠り所とし、法を拠り所とせよ」と説いているように、自身を含めてほかに信仰や祈りの対象となる「形」を必要とはしていなかったようです。ゆえに、初期仏教には仏像が存在しないんですね。

ですが、ブッダが入滅し、長い時間が経つ中で、その教えを絵や図にして分かりやすく伝えようという取り組みが始まります。とはいえ、ブッダは偉大なる存在になったわけなので、人の手で姿を造るのは恐れ多いということで、初めは「仏足石」(ブッダの足あとを刻んだもの)や「法輪」(仏の教えの一部を輪の形で表現したもの)、「ストゥーパ」(ブッダの遺骨が納められた塔を模したもの、卒塔婆)などを信仰の対象とみなしていました。

その後、インドのガンダーラ地方、マトゥラー地方に仏教が伝わると、その2地域から盛んにブッダの姿を模した仏像が作られるようになり、信仰の対象として各地で祀られるようになっていきました。ちなみに、どちらが先か、というのは長年両地域の間で論争が続いている問題なんだそうです…。日本の古代史で言うところの、「天孫降臨の地はうちだ!」(宮崎県の高千穂町と高原町)、「邪馬台国の場所はどこ?」(九州説と畿内説)みたいなものですね。


2、仏像の種類

仏像には大きく分けて四つのグループがあります。

「如来」「菩薩」「明王」「天部」です。それぞれの特徴など詳細は、おいおい。ごく簡単に紹介しますと、

「如来」…修行を終え、いわゆる「悟りを開いた人」。釈迦如来、阿弥陀如来、薬師如来、大日如来など。装飾品はなく(大日如来をのぞく)、3枚の布を巻きつけた衣のみを身に付けています。それぞれ、持っているもの(持物)や印相(結んだ手の形)などでどの如来かを見分けます。

「菩薩」…菩薩とは、如来になることを目標に修行を積む者、という意味です。観音菩薩(観音菩薩はさらに、十一面観音菩薩、馬頭観音菩薩など多種あります)、勢至菩薩、文殊菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩など。装身具など多くの種類のものを身に付けていますが、代表的なものでいうと上半身に条帛(じょうはく)、下半身に天衣(てんね)を付け、髪は結い上げて宝冠を付けています(地蔵菩薩をのぞく)。持物や乗り物、どの如来とセットになっているかなどで見分けます。

「明王」…密教特有の仏のグループです。仏教の教えに従わず、救いがたい悪魔や衆生をねじ伏せて帰依させるために釈迦如来(ブッダ)が遣わすとも、釈迦如来自身が変化するともいわれる存在です。そうした意味合いを持っていることから、顔は憤怒相(怒りを表す恐ろしげな顔。孔雀明王をのぞく)で表されます。不動明王、降三世明王、軍荼利明王など。仏の活動的な面を担っているので、衣の裾は割き、動きづらくなりそうな宝冠は身に付けていません。

「天部」…古代インドの神々(ヒンドゥー教、バラモン教など)が仏教に取り入れられた姿です。帝釈天、梵天、吉祥天、弁財天など。もとの神様の性質を残して武神、貴人などの姿で作られます。


ちょっと文字量が多くなってしまいましたね…。でも、これまで仏像に関心のなかった方でも、「あ、あれも仏像かな?」と思い出されるものがあったのではないでしょうか。


3、仏教?仏像?聖徳太子?~興味を持つに至った思い出・小学生編

では、いよいよ私と仏像との関わりが始まった思い出について。

最初に「仏像」「仏教」という言葉を耳にしたのは、小学校の社会の授業でした。

歴史、特に古墳~飛鳥時代が大好きで、当時のヒーローは聖徳太子(笑)!そんな尊敬する聖徳太子が深く帰依したという「仏教」。まだ子どもだったので、どんな教えかというよりは、それこそ仏像だったりお寺だったりの美術的な側面に魅せられたような気もしますが…。

太子の建立した法隆寺は特に、救世観音像や玉虫厨子など、子どもの心を掻き立てるには十分魅力的なものが揃っていて、いつか自分の目で見たい!と憧れを募らせていました。


4、仏像って面白い!~興味を持つに至った思い出・中学生編

そんなこんなで中学生になった私。社会の授業に歴史分野も増えて、ほくほくです。

町の図書館で仏像の写真を眺めることもありました。私はあまり都会ではない町の出身なので、町営図書館といっても、蔵書はほんのちょっぴり。好きな本は、それこそ10回以上も借りて、貸出カードを自分の名前で埋め尽くしていました。

その小さな図書館で見つけた衝撃の写真!

「仏頭」(ぶっとう)。

ええっ!頭しかない!これでも仏像?!

当時は「山田寺本尊仏頭」とのみ紹介されていたように思います。

明治時代の廃仏毀釈で被害を受け、頭部のみを残して破壊された「破損仏」でありながら、その凛々しく神々しさすら感じる表情にすっかり心を奪われました。仏頭だけでも約98.3㎝。元の大きさを想像するに、どんなに美しい仏像だったかと、破壊されたのが残念でなりません…。

しかし中学生の私は、破損仏というものの存在と歴史、破壊されてなお訴えるものがある仏像の存在感を、このときにはじめて意識した気がします。


ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます!

次回の「仏像と私」シリーズは、「出会い編②」として、高校生、大学生、社会人になってからの仏像との関わりについて話していきます!

良かったら、またのぞきに来てくださいね♪

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