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仏像と私~私の好きな仏像編④~

好きな仏像編、4回目でございます。

好き放題に思い出を振り返って仏像への愛を語るこのシリーズにお付き合いくださっている皆さま。ありがとうございます!

皆さまの温かい眼差しに深い感謝を捧げつつ。

今回ご紹介するのは、これまた有名どころではありますが。

奈良きっての古刹・興福寺におわします…

と、ここまで言って「あ、阿修羅像!」と思われた皆さん。

いえいえ。そんな超級の「アイドル仏像」を追っかけるほど若くはありません、このワタクシ。

こちら、「無著(むじゃく)」「世親(せしん)」の二体であります✨

どちらも慶派仏師の作と伝わる肖像彫刻の傑作です。

では、出会いにまつわる物語。またもや取り留めのないお話になるかもしれませんが、よろしければお付き合いくださいませ。

※トップの画像は「ぴょんぴょんうさぎ」さんによる写真ACからの写真です

1、さて、まずは「興福寺」について
2、「無著」と「世親」 どんな人?
3、出会い
4、その後


1、さて、まずは「興福寺」について

「興福寺」は、白鳳~平安時代に隆盛を誇った藤原氏の氏寺としてもよく知られたお寺です。

藤原氏の祖である藤原鎌足(中臣鎌足)が病に倒れたとき、その妻である鏡大王(かがみのおおきみ)が、その病気平癒を願い、鎌足の発願で作らせていた釈迦三尊像をお祀りしたいと山背国(今の京都の一部)の山階に建立した「山階寺」を起源とします。

その後、都を奈良の飛鳥浄御原宮に遷都した際に、高市郡厩坂というところに遷したところから号を「厩坂寺」とします(一説には藤原京に遷都した際)。

そして710年(和銅3年)、平城京遷都(皆さんご存じですね。「710(なんと)きれいな平城京」です(笑)。修飾詞は地域によってさまざまみたいですね!)の際に、鎌足の息子・不比等が現在の地に遷し、号も「興福寺」と改めました。こういった歴史から、興福寺の創建年は710年とする見方もあります。

この「興福寺」、世界遺産に「古都奈良の文化財」の一部として登録されています。その所有する文化遺産の数たるや相当なものがあり、顔ぶれも豪華。国宝に至っては、実に国内の国宝数の20%近くを占めるというのですから…「興福寺」おそるべし。

「寺宝」のほとんどは「国宝館」にありますが、本尊「釈迦三尊像」(江戸時代の再建)や国宝「四天王立像」を安置する「中金堂」、建物自体も国宝であり、本尊「薬師三尊像」(重文)、「文殊菩薩座像」(国宝)などを有する「東金堂」、「北円堂」(国宝)、「南円堂」(重文)など見どころがあり過ぎ。仏像マニアにとっては一日では終わらせたくないお寺の一つですね。


2、「無著」と「世親」 どんな人?

では次に、「無著」さんと「世親」さんについて。

「無著」は、古代インドにあったガンダーラ国という地方の出身で、バラモン階級(インドのカースト制度の頂点に位置するバラモン教やヒンドゥー教の司祭階級のこと)の家に生まれました。

出家し、はじめ瞑想によって世の中の「欲」から離脱する方法を習得しましたが、仏教における「空(くう)」の教理(世の事物は固有の本質を持たない。固有の本質はないが、あたかも固有の本質があるかのように見える。それは錯覚に過ぎないのだ、というような意味。諸説あります)が理解できずに命を絶とうとするまでに悩んでいました。

ついには「空」を理解しますが、そのときに所属していた仏教の一派の教えに満足できずに離脱し、大乗仏教徒となります。その「空」思想を学び、大成した、という人です。

この無著さん、お師匠が「弥勒菩薩」なのですが。大乗仏教にうつったときに神通力を会得して兜率天(仏教の世界観における天界の一つ)に赴いて弥勒に出会い、教えを受けたのだそうです。

次に「世親」。無著とは三兄弟で、長男が無著、世親は次男です(三男もまた仏教徒になったそうです)。はじめは別の一派で修行していましたが、兄・無著の勧めで大乗仏教徒となりました。大乗経典や唯識論などの註釈を行った大学者として世に知られました。

ちなみに、お二人とも紀元前4世紀ごろの実在の人物です。

この二体はかの大仏師「運慶」作と伝えられてきましたが、近年の研究では、運慶の指導で慶派仏師が制作したものと見られています。


3、出会い

「無著」「世親」像も資料集や教科書の常連でしたから、早くからその存在は知っていました。

でもまだ中高生だった自分には、「普通のおじいちゃんたちに見えるけど、こんな人たちも仏像になるんだな」ぐらいの印象だったのです。

そして、そのまま大人になりました。

「興福寺」を訪ねようと思った当初の目的は、あの「山田寺本尊仏頭(現在は「銅造仏頭」と紹介されています)」との再会と、釈迦の十大弟子像(またシブいところを…)に会いたい!ということでした。

季節は秋。いつものように京都に降り立ち、近鉄線で一路、奈良へ。今回は「奈良駅」で下車すると、興福寺は歩いてものの5分ほどです。

何度かの奈良の旅で場所は把握していたものの、実際に境内に足を踏み入れるのは初めて。広大な敷地の中に、整然とした堂宇が立ち並ぶさまは圧巻です。

参拝客はたくさんいるようでしたが、何しろ境内が広い。ほかのお客さんたちとは本当にすれ違う程度でした。

そんな広い境内に見どころは山のよう。ひとまずは仏頭と再会せねばと「国宝館」に向かいました。

ここにおられましたか…という感も絶え絶えな様子でまっすぐ仏頭に近づく私。近くにいたおじさんの怪訝そうな視線がイタイ(笑)。やはり、凛々しいこのお顔。どこか哀愁を帯びた眼差しが胸深くに刺さります。

もっとゆっくり眺めたかったのですが、「また来ますね~!」と心の中で声を掛け、同じく「国宝館」におさめられている「十大弟子像」の方へと回ります。

ブッダの手となり足となり目となり耳となり、その教えを広めるために力を尽くした「十大弟子」。もとは十体の木像群でしたが、現在は舎利弗(しゃりほつ)、目犍連(もくけんれん)、須菩提(すぼだい)、富楼那(ふるな)、迦旃延(かせんえん)、羅睺羅(らごら)の六体が残っています。どれも、教理のために命を懸けた真摯なお顔とたたずまいが素晴らしいのですが、個人的には「論議第一」と言われた迦旃延の、今にも力強い説教が聞こえてきそうな躍動感が大好きなのです。

そんな十大弟子をためつすがめつ眺めた後、駆け足でほかの所蔵仏(阿修羅などなど)を駆け足で拝観し。

短い時間を有効に使わねば!と急ぎ、無著・世親のおられる「北円堂」に向かいました。名高い二つの仏像もせっかくだから見ていこう、と、その時は軽い気持ちだったのです。

そして、二体がそこにおられました。

前述しましたが、鎌倉時代・慶派仏師の作で肖像彫刻の極み。カツラの寄木造になる二体は、静かな佇まいの中にゆるぎない信仰をみなぎらせています。

写真で見るよりもはるかに「真理に生きる」ことへの力強さが伝わってくるこの二体に、私はその日出会ったどの仏像よりも心を奪われていました。

「仏旅」のエネルギーを二体に全部吸い取られてしまったのかのように、私はそこにたたずんだまま、時間が過ぎていきました。

ほかにも見たいものはあったはずなのに、なぜかすっかり満足。

「ほかの寺宝は、また今度観に来ればいいよね」。誰ともなしにつぶやいて、私は興福寺を後にしました。

像のお写真などは、お寺の公式ホームページを。

こちらのホームページ、寺宝が多すぎて、およそ古刹のお寺のホームページと思えないくらい検索システムが発達しています。


4、その後

ところが、なんとその後は仕事が多忙を極め、なかなか奈良まで足を延ばす「仏旅」が出来ず💦

全部は見学できておらぬのです💦

このほかに拝観した仏像のついては、また別の機会にご紹介することとしますが、この日あった仏像にも再会したいし、まだ見ぬ宝物たちも目にしたいし…。

ですが、なかなか終息の兆しが見えない今の事態。観光地の再興も気になりますが、「仏旅」再会まではまだ時間が必要だと思っています…。

罹患された皆さま、ご家族や周囲の皆さまが一日も早く日常を取り戻されることを祈りつつ。

今回のお土産情報です。

今回は、まあ奈良のお土産ということになりますが。奈良にもおすすめのお土産がたくさんあるので、奈良の仏像編のときに少しずつご紹介したいと思いまして。

今回ご紹介したいのは、「寧楽菓子司 中西与三郎」さんというお店の「黄熟の香」です。天皇陛下や皇太子殿下にも献上される老舗の菓子司「中西与三郎」。奈良駅からは徒歩10分ほどです。

「黄熟の香」は、干菓子のような見た目ですが、さくさくっとした表面に中はしっとり柔らか。卵と和三盆、水あめの風味豊かなお菓子です。

私は干菓子も大好きなもので。同じく干菓子が大好きな母と争うようにして食べ、あっという間になくなりました。…また食べたいなあ…。

商品のお写真や値段、店舗の場所などは、お店の公式ホームページをご覧くださいね♪

ではでは、また。次の「仏旅」にて。

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