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仏像と私~この仏に会いたい!編①~

こんばんは。

今回は「仏像と私」シリーズの新編「この仏に会いたい!」第1回をお送りします。

これまで仏旅愛好家の一人として、いくつかのお寺を回り、憧れの仏像との出会いを果たしてきました。

ご紹介できていない仏像はまだまだあるのですが、先に予告もしておりました「まだ会えていない憧れの仏像」への思いの丈(笑)も、早く語りたいという気持ちが募り。いささかフライング気味ではありますが、新編もご覧いただけたら嬉しいです。

栄えある第1回は…

奈良・五劫院におわします「五劫思惟阿弥陀如来坐像」様でございます。

※今回はお寺のお写真で掲載可能なものがないため、トップ画像には東大寺近辺の穏やかな風景を。「ソライロ」さんによる写真ACからの写真です。

1、まずは五劫院について
2、「五劫思惟阿弥陀如来坐像」はどんな仏さま?
3、私的憧れポイント

1、まずは「五劫院」について

「五劫院」は、「奈良の大仏」で有名な「東大寺」の末寺である華厳宗のお寺です。

入宋僧として中国を三度訪れた重源上人が、自身が持ち帰った「五劫思惟阿弥陀如来坐像」を安置するために創建したと伝わっています。

重源上人は、1180年(治承4年)に平清盛の息子・平重衡によって焼き討ち(「南都焼討」)にされ、伽藍もほとんど焼け落ちた「東大寺」を再興した人物として知られています。

五劫院は東大寺の北約1㎞ほどのところに位置しています。

徒歩では15~20分ほどだそうなので、東大寺参詣に併せて訪れてもよさそうですね。

ただし、秘仏・本尊「五劫思惟阿弥陀如来坐像」(重文)は8月1日~11日(ここ数年はこの期間のようです)の御開帳のようなので、その時期も考慮しなくてはなりませんね!※ちなみに、事前予約での拝観もできるようです


2、「五劫思惟阿弥陀如来坐像」はどんな仏さま?

お名前についている「五劫思惟」というのが、まず聞き慣れない言葉ではないでしょうか。「五劫」の「劫」とは仏教用語の中に出てくる時間の単位で、果てしなく長い時間のことを表します。

それは例えるなら、一つの宇宙が始まり終わるまでの長さ。

その気の遠くなるような長い時間、阿弥陀様は「思惟」、つまり、深く考えたのです。

何を考えたか。それはやはり「衆生をいかに仏の教えで救うか」ということです。

そんなにも長い時間をかけて考えていたため、阿弥陀様も御髪が伸びてしまいました。

その、一心に衆生のために考えておられる尊いお姿を表現したものが「五劫思惟阿弥陀如来坐像」だと言われています。

ところで、「五劫」と言えば、そう。落語の「寿限無」に出てくる「じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれ…」の「ごこう」のことです。

「寿限無」は、生まれてきた子どもの幸せを願って、縁起がいいという「長い名前」を付けようとお坊さんに知恵借りに行った父親が、有難い名前の候補を全部付けてしまった、というお話です(だいぶ端折っています)。

お話の中では、「五劫」は天女が時折下界に降りてきて、岩の表面をさっとなでる、それを繰り返すと岩が無くなる。その間にかかる時間が「一劫」で、それはおよそ40億年という気の遠くなる期間。さらにそれが5回擦り切れるということなので、とんでもなく長い時間だ、というような説明がされています(台本により、多少説明の違いがあります)。

お話を「阿弥陀如来坐像」に戻しますと。先に述べたように重源上人が宋から持ち帰ったものと伝わりますが、鎌倉時代の国内の作という説もあります。材質は定かではありません。

また、重源上人が宋から持ち帰った仏像は三体あり、そのうちの一体がこちらの「五劫思惟阿弥陀如来坐像」。もう一体は、東大寺の勧進所におさめられています。こちらも秘仏であり通常は拝観することができませんが、毎年10月5日、同じく勧進所に祀られている「僧形八幡神坐像」(国宝)と一緒に拝観が可能となります。

この「五劫思惟」の形を取る阿弥陀像は極めて少なく、ほかには十輪院(奈良)、大蓮寺(京都)、道成寺(和歌山)など10例に満たないそうです。


3、私的憧れポイント

憧れのポイントとなりますと、今更言葉を重ねる必要もないかと思いますが、何と言ってもその御髪です!

まるで大きな「鉢」のように膨らんで、かぽっと頭に載っています。

人によっては「アフロヘア―」と表現するほど、それはユニークな御髪なのです。

私も初めて仏像本で拝見したときは、何かこう、仏師がちょっとふざけすぎてしまったのかと。二度見しました💦

阿弥陀様の尊いお心ゆえであることを知らなかったとはいえ、大変失礼な話です💦

しかし…私と同じ捉え方をされた方って、ほかにもいらっしゃると思うのですよね。それくらいデフォルメ具合が群を抜いているのです。

そういうわけで初めて拝見したときは度肝を抜かれましたが、像に込められた、人々の阿弥陀様の功徳への願い。やはりこれは、本物を前にして感じたいと思うようになりました。

仏像と向かい合うとき私はいつも、その像が燦然と輝いていた数百年の昔、人々が願いを掛け、あるいは功徳を祈る姿がまぶたの裏に浮かぶような気がしてくるのです。

今年は感染拡大防止のため、まだまだ県内に気軽に足を運ぶことができませんが、来年あたりに狙いを定めて、ぜひお会いしに行けたらと思います♪


「好きな仏像」編も「憧れ」編もまだまだ続きます。

よろしければ、お付き合いくださいませ✨

ではではまた。

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