お遍路さんで気づいたこと
お遍路さんをしに、四国に行きました。
険しい山道を一人で歩いていると、普段近所の山の中を散歩しているときには浮かんで来ないような思いが、何故だか分かりませんが、あとからあとからやってきました。
休憩のとき書き留めておきました。
歩けることがありがたい。
からだ中の細胞が協力してくれているんだなぁ。
いつも、目の調子が以前のように良くないことに気が行って、文句ばかり言ってるけど、まだまだたくさんのものを見せてくれていることにありがとうというのを忘れていたなぁ。
苦しいことがやってきた時、人は普段気づけない大切なことに気づくんじゃないだろうか。
もしかして、苦しみって、そのためにあるかもしれない。
苦しみには一つ一つ意味があって、何かを伝えようとしてくれているのか?
もしそうだとしたら、その何かをしっかり受け取りたいなぁ。
お遍路さんについても、いろんな考えが浮かんできました。
人それぞれ、お遍路さんのやり方も、目的も違う。
全て歩く人もいるし、クルマやバイク、バスで回る人もいる。
自分の何かを変えるきっかけを探したり、自分に向き合いたくて歩いている人。
宗教的な意味合いで回っている人。
スタンプラリーのように四国の旅を楽しんでいる人。
スポーツのように歩くことを楽しんでいる人。
それで良いんだなぁ。
ただ、どんな回り方も、ただゴールだけを目指すと、ついつい急いでしまい、
一歩一歩が、ゴールのためのただの過程になってしまうんだろうなぁ。
それは何だか目標のために何かをしている普段の生活に似ている。
最近している英会話の勉強も、話せるという目標だけに気を取られると、毎日のレッスンはただのつまらない過程になってしまう。
いつになったら話せるのかなぁという思いが浮かぶ。
ゴールするという目標を忘れれば、一歩一歩がゴールになる。
もしかすると、ゴールとは、忘れてしまうと、ある時向こうからやってくるものなのかもしれない。
お遍路さんをしながら歩くことは、何だか瞑想をしているような気がする。
誰もいない深い山の中を一人で歩くと、自分に向き合うのかもしれない。
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お遍路さんはまだ始まったばかりなので、これから、またどんなことに気づくのか楽しみです。