貪瞋痴の『痴』
「とんじんち」と読みます。
仏教の用語です。
いわゆる煩悩のことです。
人間には元々この3つの煩悩があって、心を苦しめているんだそうです。
煩悩とは、心を「煩わせ」「悩ませ」るものです。
特にこの3つは、心を汚し、ダメージを与えるので、よく三毒だと言われます。
でも、どうもこの中の『痴』の説明が、どこを調べてもしっくりこないんです。
『貪』は分かりやすいです。
貪欲という言葉があるとおり、
快感を与えてくれるものを、もっともっとと、欲しがる心のことです。
『瞋』は漢字が難しいです。
「瞋恚」という言葉で使われるそうですが、この言葉めったに見たことありません。
「怒り」という意味だそうです。
『瞋』とは、自分にとって不快なもの、思い通りにならないことを、嫌がり遠ざけようとする心のことです。
この2つはいいんです。
何かを欲しがればどんどんエスカレートして、心がざわざわすることは避けられないですし、怒りに身を任せて冷静さを失えば、とんでもないストレスを心が抱えるのは、当たり前です。
問題なのは、『痴』です。
「痴」という文字は「痴愚」という言葉で使われます。「おろかなこと」という意味です。
だからでしょうか、貪瞋痴の『痴』とは、真理を知らないこと、おろかなこと、無明と、どこを見ても説明されています。
でもこれは、「痴」という文字に引っ張られた解釈なのではないかと思います。
そもそも知らないことって、おろかなことって煩悩なのでしょうか?
知らないものは知らない。
仏教的には、真理を知らないのは良くないことなのかもしれませんが、煩悩ではないように思います。
赤ちゃんは、まだ、真理は知らないと思います。でも、だからと言って、煩悩があるようにも見えません。
私は、『痴』とは、感情や思考に過剰に反応していまい、今この時から意識が逸れて、集中力を欠いてしまうこと。
だと思います。
最近毎日マインドフルネス瞑想をしています。
マインドフルネスでは、今ここを感じていくことを大切にします。
呼吸だったり、身体の感覚だったり、思考だったり、感情だったり。
でも、それがそこにあることを判断せずにただただ認めていくだけで、反応しません。
第三者的に見てるだけで巻き込まれません。
『痴』とはつまりこの逆で、目の前の現実から意識が逸れて、心の中で未来に対する不安や、過去の後悔など、様々な妄想を膨らませることではないかと思います。
今から意識が逸れれば逸れるほど、心に煩いや、悩みが生じるので、これならば煩悩のひとつだと言えそうです。
ちなみに『痴』とはもともとサンスクリット語のmoha(モーハ)に由来し、「妄想、混乱、鈍さ」を表す言葉なのだそうです。
追記 10月29日
「痴」は、「無明」と、同じとも書かれています。
人間一人一人が素晴らしい存在であることに気づかず、恐怖を埋めようと、もっともっとと求めたり、自分の苦しみを増すように思われるものを避けることを「貪」「瞋」というのでしょうが、
その出発点の、自分の中心とつながっておらず、自分を信頼しきれず今に居ることができてない状態を「無明」「痴」というのかなと思いました。
やはり、知るとか知らないとかいうことではなくて、自分の中にあるものに、ハッキリ気づいていないだけのように思います。