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創設10年間で9度最下位の暗黒(漆黒)時代を振り返る

漆黒の闇(03〜05)

【03年】[順位:5位]63勝99敗 .389[監督]L.ピネラ
【04年】[順位:4位]70勝91敗 .435[監督]L.ピネラ
【05年】[順位:5位]67勝95敗 .414[監督]L.ピネラ

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04年の東京開催を契機にTBファンを始めたのは先日お話しました。とはいえ、自分がファンになって見始めた当時の状況は地獄絵図そのもの。いくら[打倒強者]が信条の自分でも今の状況から脱出するのは果たして何十年後になるんだろうと率直に思った。そこで今回は今更ながら創設以来10年間で9度の最下位に沈んだ地獄の暗黒(漆黒)時代を時系列で振り返る。

創設以来03年まで6年連続最下位。しかも全て90敗以上うち01年&02年は2年連続で100敗を喫するなど、依然として浮上する兆しが全くない。

まず戦力面では大激戦のAL東で他球団と対等に勝負できるだけのものは到底ない。それでも人気面でいわゆる「弱くてもファンが熱くて多い」チームならまだ良いが、新興球団+万年最下位+球団周囲をとりまく様々な諸事情で地元の固定ファンが中々増えず、スタンドは常に閑古鳥。意識面では万年最下位が続いてるが故にチーム内も敗北意識が蔓延していわば「負け犬根性」が完全に染みついた状態。

また編成面では万年最下位の恩恵からドラフトで将来有望な選手を毎年獲得しながらも、将来を顧みず目先の補強だけに走って育成せず放出して中途半端な補強で同じ失敗を繰り返す失策続きのフロント…。

そして最終的には結果が出ない責任を現場の長である監督に取らせて首をすげ替えるだけ。初代監督のL.ロスチャイルドは就任4年目の01年4月半ばに解任。後任はベンチコーチだったH.マクレーがそのまま2代目監督に就任するも、チームのカンフル材には全くならず、2年連続で100敗を喫してまたも解任された。その後任には地元のフロリダ州•タンパ出身で、過去のSEA等での実績から三顧の礼でL.ピネラを3代目監督に招聘。しかし、その名将でさえも就任1年目の03年は3年連速の100敗は何とか回避したものの、99敗を喫して球団創設以来6年連続の最下位。就任2年目の04年は球団記録の12連勝もあって初の最下位脱出の4位にしたが、上位進出を狙った就任3年目の05年にはまたも「定位置」の最下位に転落。就任以降も常にお金を渋って補強をしないフロントに不信感が募った結果対立が年々表面化。契約年数は4年だったが、残り1年を残して結局逃げるように辞任。

もはや全てが悪すぎてチーム全体が暗黒を超越した漆黒の闇状態。このチームは名将ピネラでもダメなのか…。自分もファンと言いながら、現実逃避の如くいつしか順位&勝敗を度外視してクロフォード・ハフ・ルーゴ・バルデリ・アプトンなど若手野手の台頭ばかりに目がいくようになり、試合結果を見るだけの日も多くなっていったように思う。自ら望んでファンになったとはいえ、まともに現実を直視すると精神がおかしくなりそうな程の惨状が続いていたのは確かだった。

「万年最下位」+「不人気」を骨の髄まで抱えまくった負け犬お荷物球団。再び消滅話が浮上しても全然不思議ではない惨状。しかしそんなお先真っ暗状態のチームに一筋の光が差し込む時が遂にやって来た。

一筋の光(05オフ)

2005年オフの10月6日。球団消滅の足音さえ再び聞こえるほどのお荷物球団に遂に一つのRay(光線)が差し込んだ。球団創設以来史上最大規模の大改革を敢行する。

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まずは球団経営陣の刷新。初代オーナーだったV.ナイモリが、元投資銀行家でゴールドマン・サックス証券在籍の当時は共同経営者だった、S.スタンバーグに球団経営権を譲渡、いわゆる日本で言う「身売り」である。

次は現場の再編成。球団創設当初からGMを務めたが、失策続きで創設以来ずっと長期低迷を招いたC.ラマーを解任。新任にはスタンバーグと同じウォール街出身の若手金融マン2人(当時28歳のA.フリードマン&当時30歳のM.シルバーマン)を球団編成部門のトップに登用した。

最後に監督には、辞任したピネラ監督の後任に02年にエンゼルスを球団史上初のWS制覇に導いた時のベンチコーチだったJ.マドンを招聘。従来までバラバラだった「球団」・「フロント」・「現場」で三位一体を図るべく、まず球団トップから現場までの風通しを良くした。

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若手選手の育成に再尽力(06~07)

【06年】[順位:5位]61勝101敗 .377[監督]J.マドン
【07年】[順位:5位]66勝96敗 .407[監督]J.マドン
※07年オフに球団名を「タンパベイ•レイズ」に改称 

とはいえ、実際に現場の指揮を取るのは監督で、プレーするのは選手自身。いくら球団上層部が一新されるだけでは全く意味がない。一番大事なのは編成を含めた戦力の整備だ。ただNYYやBOSの様に同地区のライバル球団ほど補強資金が潤沢にあるわけではないから、大金をかけての補強は期待できない。そこで注目したのは「万年最下位」の現状から完全ウェーバー制のドラフトの恩恵を最大限に活用する事にした。

まずは大金をはたいて大物選手を獲得する「中途半端な補強」は一切辞めた。それでは資金が潤沢な同地区のどこかの2球団の二番煎じになるだけと考えた。それよりも球団ひいてはMLBの将来をも担うであろう、マイナーで超有望株と称された選手を安易に放出せず、独自の育成プランを作る事で若手選手がチームの中心を担うようにゼロからチームを再建する方向に完全にシフトチェンジした。

前体制では「将来有望な若手の宝庫の球団」と称され続けたが、実際は長期低迷が続いた現状からの脱却に焦って目先だけの補強にこだわり、育成しないまま放出→獲得した選手で大失敗の負のサイクルを延々と繰り返していた。結果年々マイナー組織が枯渇して若手育成からの戦力の底上げが全くできず、毎年中途半端なチーム構成が続いたことが長期低迷を招いた原因の一つでもあった。

「将来有望な若手選手の宝庫」と他球団からも称されただけあって数は粒ぞろいでいた。しかし前体制ではいかんせん中長期的展望が全くなかったために、少しの間しばらく起用されても結果が出なかったりミスをするとすぐに交代させられたり、起用されなくなったりして伸び悩む選手も多数いたのも事実。そこでまず球団としては「ミスは大いに結構。ただミスを恐れて萎縮するプレーは厳禁」と伸び悩む若手選手に繰り返し説いた。「今は負けても良い。全てが経験になる。これからの明るい未来のために。」その一心で地獄&悪夢の日々からの脱却のために全身全霊で取り組んだ。

その結果、マドン体制最初の2年間は数字上では2年連続最下位で過去となんら変わり映えしない成績に終始したが、若手選手を辛抱強く起用し続けた結果、従来とは違い投打共に将来有望な若手(中堅含む)選手が次々と台頭してきた。

【主な野手】
①C.クロフォード
99年D2で入団。俊足巧打の選手。盗塁王を4度獲得するなど球宴選出の常連にまで成長。暗黒時代当時の球団イチのスター選手。
②B.J.アプトン
02年D1で入団。俊足強肩強打の選手。07年に3割20本20盗塁を記録するほど成長。入団当初はIFだったが、この年途中からOFに転向。
③D.ヤング
03年D1で入団。強肩強打の選手。デビュー2年目の07年は全試合出場で93打点をマークする強打者に成長。07年オフにMINに移籍。
④C.ペーニャ
07年にマイナー契約で入団。強打が自慢。TEXで01年D1指名も目が出ず、数球団を転々。この年46本を記録し一躍主砲に成長。

【主な投手】
①S.カズミアー
04年オフにザンブラーノとのトレードでNYMから加入の左の速球投手。05年から3年連続2桁勝利を記録。07年は最多奪三振を受賞する。
②J.シールズ
00年にD16位で入団。制球力とCアップを武器に06年にデビュー以降先発に定着。07年にはカズミアーに次ぐ12勝を記録する程成長。

この他にも野手では06年入団のE.ロンゴリア、投手では07年入団のD.プライスなどもマイナーで着実に成長を重ねて来季にもMLBデビュー出来る程までになった。

いかがだろうか。結果的に投打共に数人の名前を列挙するだけで、翌年アメリカ全土を席巻した出来事の中心的人物のピースが次々とはまっていく。ちなみに、日本からは06年オフに東京ヤクルトからポスティングシステムにより岩村明憲が入団している。在籍時は1番打者に定着。25歳以下の選手が半数を占める若いチームで、類稀なるリーダーシップを発揮してチームを牽引した。

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07年オフの11月には球団名も「タンパベイ•レイズ」に変更。ユニフォームやキャップのデザインも一新した。【Rays】も球団のシンボルマークである「エイ」に加えて、別の意味で「光線(Ray)」という意味もあるため、それを球団のロゴとして新たに加えた。「Devil(悪魔)」を取り、「光線(Ray)」を取り入れて全員で新たな再出発を切ろう。そんな縁起を担ぐ意味も込められている。

08年は「タンパベイ・レイズ」として迎える新生レイズ。自分も含めて誰一人予想もしなかった、映画「メジャーリーグ」を彷彿させるアメリカ全土を席巻するとんでもない出来事が現実に起きる。まさか自分も近鉄同様一人のファンとしてその渦中にいるとは考えたことすらなかった。その話は次回にお話致します。

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