「丁寧な暮らしではなくても」
昨日は一日ボーッとしていた。
みんな低気圧のせいだ。
晩ごはんを作るも、こちらもぼんやりしている。
・串を刺した肉と野菜にパン粉をかけて焼いたもの
・土曜日の鶏と椎茸の旨煮をほうれん草と一緒に煮込んで白だしでスープにしたもの
行き当たりばったり過ぎて、料理名も考えられない。
パン粉のそれは、土曜日の串揚げの残りの串に刺した肉を天板に並べて、パン粉、オイルをかけて焼いた。
パン粉はサクサクだけど、食べるときに落ちる。
「食べにくい」とみんなで笑いながら食べた。
ごはんも、時間設定を間違えて間に合わなくて、遅れて炊き上がったものを食卓でおにぎりにした。
これが美味しくて、みんなキムチやら秘蔵の辛子味噌やら高菜を取り出してきて勝手に味付けして食べてた。
毎日のごはん、こんなもんである。
とても「丁寧」とは言い難い。
こんなもんではあるが、「こんなもん」と言っていいのは作った私だけである。
「丁寧」ではないけれど、「手抜き」でも「時短」でもない。
7時に帰宅して、そこから40分間で作り上げた、本日の最適解である。
こんなことを書いているのは、昨日買った「暮しの手帖」のせいかもしれない。
「丁寧な暮らしではなくても」。
この言葉が気になって書店に走った。
新しい編集長、北川さんの文はとても興味深い。
「丁寧であれ、雑であれ、自分や他人の暮らしにそんなラベリングをしたくなる風潮ってなんだか不思議だと思いませんか」
そうなのよ。
「誰もが後ろ指をさされることなく、自分の考えることを正々堂々と口にして、思うように暮らしていけたらいいな、節にそう思います。」
うん。いいな。
私は私のやり方で、やり過ごせればそれでいい。
そこには、精一杯の毎日があるだけだ。
「丁寧」は素晴らしいけれど、毎日はやりづらい。
でも、毎日の家事が「時短」だったり「雑」だったり「ズボラ」だというわけではない、というのはずっと思っている。
私の「やり過ごし」には、そういう思いも込められている。
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