ブタニク日記#15 ノスタルジーを搾取するな

お久しぶりです。ブタニクです。
またまた間が空いてしまって申し訳ないです。
これからも毎日更新できるとは思えないのでこれからはほぼ不定期みたいな感じになると思います。

さてさて今回は、みんな大好き(もちろん僕も大好き)
Twitterのあることについて話していきたいと思います。


たま〜にタイムラインで流れてくる「○○知ってる人RT」というツイート、皆さんはご存知だろうか。

こういうやつです。(爆笑問題の宣材写真の部分には数年前の流行物などが入る)

こういうのでたまにバズってる輩を見るたびに「此奴、やりやがったな」と僕は思ったりする。

上手く言語化出来ない嫌悪感が湧き上がってくるのだ。 人のネタを使っているかと言われれば、そうではない(ただ昔の商品やサービスの画像を貼っているだけなので)

自分で考えてしたツイートでないのにバズっているからという訳でもない。ただの体験談がバズったり、偶然の1枚がバズったりするなど、自分で考え出したわけでないツイートがバズっていても特になんの感情も湧かない。

ただそういった昔を思い出させるようなツイートになんの面白みもないと言えばそれだけなのだが、ただそれだけの理由でそこそこの嫌悪感が湧く理由もない。

こういったツイートで僕達はノスタルジーに浸る機会を強制的に消費されている気がする。

SNSのタイムラインなんかは受動的に情報を得ることが出来る。それがよりノスタルジーの搾取を加速させている。

ゲームや漫画の話でいえば、例えばブックオフに行った時にウイングマンを偶然見つけるとか、実家に帰った時にパタポン3の入ったpspを見つけるなど、(パタポン3は2011年だったかのクソゲーオブザイヤーにノミネートされていた。かなしいね)
現実世界でふとしたときに偶然見つけて、ノスタルジーに浸るようなものだと個人的に思っている。

偶然見つけるという点では確かにtwitter上で見るのもまあ確かに同じかも知れないが、やはりそこには情緒というものが存在しないのではないかと思う。

もしTwitterでパタポン3に対する言及があったとしても、僕は「ああ、そんなのもあったな」くらいにしか思わないだろう。

パタポン3についての言及を見た時に、僕が想起される記憶というのは、パタポン3についてだけではない。プレイしていた時の環境、その時の僕の心情、はたまた前作のパタポン2についての記憶だって想起される。

それが実家で見つかったときは、パタポン3の情報だけでなくその周辺の情報も同時に認識するので、パタポン3をプレイした時だけでなく、その時のあらゆる記憶が戻ってくる。

郷愁というものは、なにもその引き金の周辺の記憶のみが想起される訳ではない。昔の友達との飲み会等で、ある会話が引き金になって、そこから延々と昔話が続いていくこともあるだろう。

Twitterでその引き金についてのツイートがされていたとしても、僕達はその引き金以外の情報を得ない。

昔話であれば、話し手の顔、声など、実家で見たものであれば、その時の家の状況や、母親の声など、引き金以外に色々な情報を得る。そのおかげで広範囲における郷愁に浸ることができる。

ツイートによる質の低いノスタルジーに浸るよりも、自分の目でその対象を直接見て、ノスタルジーに浸る方が精神衛生的にもよっぽどいいと思う。
疲れている時こそ実家に帰ってみるのも良いのかもしれない。

一度その対象を認識してしまうと、再度その対象を引き金にするのは難しいと思う。一度きりのチャンスを無駄にしないように生きていきましょう。

久々すぎて全然纏まってないと思いますが、多めに見てください。

それでは、また今度。


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