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卒論の意味

2018年の秋頃、休学して起業した友達から「卒論に真面目に取り組む意味あるの?」という質問をされたことがある。

その当初、自分の中で明確な答えが出なかったことを覚えている。自分はそれなりに真面目に卒論に取り組んだ部類の人間だと思うが、何か大義があってその研究をやっていたわけでもないし、誰かの研究を引き継いでいたわけでもないし、(今の所)アカデミアに残らない予定だし、企業から研究資金をもらっていたわけでもない。ただなんとなくできることが増えて面白いからやっていた、というのが当時の率直な感想。だから僕はその質問に対して「多分意味はないけど、なんかコード書くの面白いからやってる」みたいな適当な返事をした。周りから見たら惰性と取られてもおかしくはなかったのかもしれない。

がしかし、B4を卒業した今、「卒論の意味」に対する考えがまとまったので、僕の経験とともに記しておこうと思う。

そもそも

僕は土木系の学科に所属していて、水文関連(水資源、気象、水循環など)の数値シミュレーションをよくやっている研究室に入った。卒論の内容はまだ公開できないが、地域スケールの簡単なシミュレーションみたいな感じ。

最終的には、一からPythonで簡易なモデルを作ってシミュレーションを行ったわけだが、その過程でまあ色々とあった。

無知を自覚する

春先、そもそもプログラミングをしたことがなかった僕は、ラボの必須ツールだったLinuxからわからなかった。それも何がわからないのかがわからなかった。今思えばドアホな話だが、当時はそもそも「技術Aを使えばXができる」という知識体系が大きく欠落していた。研究を行う際に「技術を用いて実現可能なことを知る」ことは大前提だが、当時の僕はこれに気づくことにすら時間がかかってしまった。

では適当にググって知識を付ければ良いのかという話になるが、それはあまりにも非効率だった。なにせ研究も技術体系も、背景知識からして知らないことだらけだからだ。だから僕はさっさと質問するようにした。夏頃の自分は全く実力のない雑魚そのものだったが「わかってそうな人に尋ねる」というスキルだけは所有していた。この一点だけは今から見ても評価できると思っている。そうやって、教授や先生、先輩方から研究分野、IT技術の様々な知見を得ることができた。

ちなみにラボの博士課程の先輩が「人に技術について聞いたことは殆どないし、調べればどうにでもなる」と言っていたが、これはある種の「自分の能力を伸ばす才能」だと思うし、僕にはその才能がなかったというだけの話である。

目的意識を持つ

そしてもう一つ、目的意識を明確に持つのに時間がかかってしまった。

少し時期は戻って6月ごろの話。今考えると普通に笑えるが、薄っぺらい知識だけで「なんとなくこんな数値モデルが作れるのでは?」「こんなシミュレーションができるのでは?」と考えてプログラミングを勉強していた時期がある。コードは結局ツールなので、作りたいもの、到達したい場所が明確にならない限りはまともに能力は上がらないと思うし、実際当時勉強したことはほとんど身につかなかったように思う。刺身タンポポの記事にもあったが、やりたいことがわかっていないと人に質問することすらできないのだ。

今考えると当たり前だが、研究においては論文を読むことがリサーチクエスチョンを持つためのベースとなる。そう認識してからは、論文を読み漁り、教授とのミーティングを重ね、リサーチクエスチョンを明確にした上で、コーディングやgitなど研究に必要な知識をつけ、研究を進めるようになった。

目的ドリブンになると、技術が身につく速度および進捗を生む速度は上がった。しかしそこで新たな問題が生じてくる。

無能具合をマネジメントする

だんだんできることが増えてくると、難しい数値モデルを使いこなせるのではないか、すごい結果を出せるのではないかといった欲がちょくちょく芽生えてくる。しかしこれはいわゆるダニング・クルーガー効果であり、現実そう上手くはいかない。夏頃までの僕は、新しい技術習得や結果を出すのに予想した2倍の時間がかかってしまっていた。徐々に自分は無能であることを自覚するようになった。

できないことを自覚するのは良いのだが、秋口にその勢いで「自分は大したことないのではないか」という感情に苛まれることが増えた。これは今思うと全くナンセンスで、研究という個々人が別の目的を持ったフィールドでは、自分がどれほど無能かという他者との相対評価はどうでもよいと思う。今の自分に何ができて何ができないのか、では何を身につけるべきかを明確にして動くのが適切な目的達成の手法だと、今振り返って思う。

無能具合は言語化した上で可能な限りのマネジメントを行うべきである。僕の場合、一見すると「のろまである」という無能具合について、時間を気にせずダラダラ作業や調べ物をしてしまうことがタイムロスの原因だとわかったので、Googleカレンダーを使って研究時間を区切り、進捗に対してかかった時間をメモして肌感覚として掴み、進捗管理を行った。進捗というふわっとした概念は定量的には計りづらいが、結果として1.5倍ほど作業効率は良くなったように思える。ちなみに同期はそんなこと気にせずにガシガシとコードを書いて結果を出していたようだが、自分にはこのプロセスが必要だった。

閑話休題。無知と無能は異なるものであるが、当時の僕はこれらを混在させる癖があった。無知はただ単に知識がない状態。無能は自分の能力がある目的の達成に対して不足している状態である。無知は自覚することですぐに改善できるので、知らないことがあっただけで「自分はダメだ」と思うのはやめるべきである。

折り合いをつける

研究の話に戻る。無能を自覚したら時間をかけて頑張りまくればよいというものではなく、卒論には締め切りというものが存在する。従って、リソースの制限内で自分の結果に適切な折り合いをつける能力が求められる。

折り合いをつけるためには取捨選択をする必要があり、12月ごろの僕はまさにこの問題に直面していた。簡易なシミュレーションを行っていたので、そこに追加できる要素はごまんとあったが、何を追加するべきか、何には手を出さないでおくか、毎週のミーティングで教授と議論した。

これは無知由来のものだが、そこでの判断の軸を僕は持ち合わせていなかった。そこで教授がくださった一つの判断基準が「何に価値があるか」というものだった。教授からは様々なことを学ばせていただいたが、「やりたいことをやるだけでなく、何をすることが、どんなメッセージを出すことが研究として価値を持つかを考えろ」というメッセージは最も響くものだった。

そうして進捗と執筆のバランスを取りつつ、1月末に卒論を書き上げた。この時期、総合的に見て自分の成果に折り合いをつけるという経験ができたのは面白かった。

卒論の意味

まとまりなく書き散らしたのでここまで読んでくれている人は少ないだろうが、僕が卒論から得たものを要約すると

・無知を自覚し必要な知識体系を揃える能力
・目的意識を持つ能力
・自身の無能具合をマネジメントする能力
・折り合いをつける能力

で、これらを得られたことが僕なりの卒論の意味である。

で、あなたが得た気づきは「役に立つ」んですか?

知りません。というか知れるなら苦労しないから卒論に真面目に取り組んだみたいなところがある。冒頭にも書いたように、当時の僕には卒論の意味はわからなかった。全て、終えて初めて明確に言語化できたことである。

僕は、大学意味ない論者が「お勉強」「研究」をキャリアの役に立たないものだとしてサクッと切り捨てることに違和感を感じる。その過程で身につくスキルやマインドセットが「役に立つ」かは、無能な僕には少し先にならないとわからないからだ。

ただ確信めいて言えることだが、結局のところ社会に出ても僕は自分の無能具合と向き合い続けるしかないのだと思う。となると、結果としても僕の卒論の経験には無駄だとは思えないような魅力がたくさん詰まっていたように思える。

これから卒論を書く人に向けて

自分語りに終わりそうなので、他人向けコーナーを少しばかり。

偉そうなことを言える立場ではないが、大事なことは自分なりのスタンスで卒論と向き合うことだと思う。

研究はどうしても環境依存なところがあり、のびのびと楽しんで成果を出している人もいれば、環境が合わなくて病んでしまうような人もいる。だめなら適当にお茶を濁すもよし、研究室を変えたりインターンなどに精を出すのも手だと思う。そもそも研究活動に向いていないと思うならさっさとやめれば良いとも思う。

ただ、僕の卒論に対するスタンスは「考えながら卒論に取り組めば確実に自分の能力は広がるので、どうせやるならちゃんと取り組むのも良いよ」というものです。

読んでくださった方が少しでも卒論について考えるきっかけになれば幸いです。

謝辞

僕は環境に関してとても恵まれていたと思います。指導教員であった教授にはお忙しい中しっかりとミーティングの時間を作っていただいたし、テーマを始め主体的に考える時間をたくさんいただきました。サーバーを始めラボのリソースも豊富だったし、先輩や同期のレベルも高かったです。研究室の皆さんに深く感謝しています。

サポートいただけましたら、ちょっといいご飯を食べに行きます。