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生きること、それは排泄すること

娘がうまれた。
わたしが令和四年の七夕に、胎内から外の世界にリリースした。
わたしは、物心がついたあたりから、漠然と「赤ちゃんを産んでみたいな」と感じるような子どもだった。今思えば「子供が子供を産みたがっている」という謎い状況ではあったわけだが、赤ちゃんや幼い者に対する「可愛い」という感情が幼心に既にあった、とでも言っておく。

娘が生まれて、自分に纏わるさまざまなことが変化し、考え方も流動的になっていった。いや、正しくは、「捉え方の変化」かもしれない。
わたしという人間の根本や信念、そしてなかなか柔軟性を持てない凝り固まった偏見など、そういうものに、おそらく変化は見られないのだが、娘の居る今とそうでない過去とには、やはりなんというか、違いがあるのだ。

少しずつ、小さな例でも、挙げていけばキリがない。なんでも娘ファーストになるわけなので、自分のことはどうしても後回しになる。それでも、そんな二の次ライフが楽しく、うれしい。
母(わたし)の姿が見えなくなり、不安で「ビャー」と泣く娘に一目散に駆け寄り抱き上げたとき「フェ〜」と力なく脱力し全てを明け渡してくる、この無防備と信頼のまなざしが、愛おしくて仕方がない。

わたしが今とても愛おしいもの、といえば、
娘の便である。
排泄物の様子は健康のバロメーター、とはよくいったもので、赤ちゃんの便も様々に変化する。
例えば、母乳と粉ミルクを両方与えている(「混合」という)娘の場合は「母乳を多く飲んだ時には濃い茶色・深緑に近い茶色」「ミルクの後は黄色っぽく明るい色」という風に。便を食べ物の色で例えるのは御法度であるというのは重々承知であるが、考えた末に、この例えが一番分かりやすいと判断したので書くが、前者の便のことを「カニ味噌」と我々夫婦は呼んでいる。妊娠・出産をして以来、磯丸水産には行っていないが、仮にあの大舟のような店内の中で網の上に再びカニ味噌入りの甲羅を乗せる時、私は娘のムチッとした脚とオムツのギャザーを思い出すのだろうか。子育て経験者からは共感を得られると信じたい。

大幅に話が逸れた。

そんな訳で、産院や健診でも言われるように、赤ちゃんの便の様子には注意を払っておくのが良いとされている。母子手帳には、ご丁寧に便の色チャートのページもある。チャート片手に娘の便を観察したことは、今の所は無いが、きっとこれからお世話になる日も来るだろう。娘の健康管理を担う母の道は、遠く千里まで続いている。

便といえば(今回は便回)(便回、とは)
ちょうど本日ホットな事件があった。
これを「梅田お背中大惨事」とでも名付けよう。
本日、友人と会うため、娘を抱っこ紐に格納し、いそいそと街へ出かけた。
梅田には、娘を伴っても何度か出かけており、大体の目的地へのベビーカールートは頭に入っている。(ベビーカールートというのは、まあ、その文字列のまま、「ベビーカーで通行できる道」ということで、わたしの適当な造語だ)百貨店やその他商業施設など、多数が密集する梅田には独身の時もよく行っており、なんなら何年か働いていたこともあるので、特定の縄張りに関しては地理も理解しているつもりだ。しかしまあ、ベビーカーで行ってみると、その不便さたるや。わたしが行きたいのは目と鼻の先にあるあそこなのに、ベビーカーがあるとエレベーターに乗るための迂回で5分以上はかかるじゃないか!というのがザラにある。(ベビーカーを使ってみてはじめて、車椅子の方などの日常に転がる不便さを、程度は違えど実感することができている)
そういうもどかしさもあり、小回りが利いた方が歩く時楽な場所にはベビーカー無しで行くことも多く、梅田はその筆頭である。(勿論、これはわたしの価値観であり、梅田ならベビーカーで楽々じゃない?という方が多いということも分かっている。ただわたしは、娘がタイミング良く抱っこ紐で寝てくれた時などに、フラッと決して通路が広くないお店のお洋服とか、激狭雑貨店のカラフルな小物とかを、見たいのだ!!!)
本日も例に漏れず、上記のような理由で、娘を抱えながら、阪急電車の改札を通り抜けた所だった。電車に乗っている時、ガタゴトという線路に響く音やその他雑音に紛れて「ブフォ」という音が確かにした。たぶん、娘の排泄の音である。
間髪入れず、抱っこ紐の中から、ぷふぉ〜んと漂う、香り。(またも、便関連のものを食に例えるという御法度であるが許して欲しい。何故なら自分でもこの例えは秀逸だと思っているから。怒らずに、聞いてほしい。娘の便の匂いは、朝マックのにおいに酷似している)
「おお、これは。梅田に着いたらオムツを替えよう」などと思っているうちに、電車は大阪梅田駅に到着。この時のわたしは何を考えていたのか、「まだもう少し時間あるから阪急行こう♪」などと完全に娘の排泄のことなど忘れ、少々百貨店に寄り道をした。15分ほど。そしてわたしは待ち合わせ場所に一番近いトイレにオムツ交換台が設置されていることを確認し、足早にそちらへ向かった。この時点でも、まだ待ち合わせの時刻までは余裕があったからだ。
娘は何故か、オムツを替えようと台の上に寝かせるといつも急にハイテンションになり、ひとりでニヤニヤし始める。これからお尻が清潔になる、と経験から導いて察知しているのか。真偽のほどは確かではないが、母にはそのように見える。
本日も、いつものように、話しかけながら、朗らかにオムチェン(オムツ替えのこと。オムツチェンジの略語。こちらもわたしの適当な造語)が進むはずであった。レギンスを脱がせ、何やら様子がおかしいことに気づく。

漏れている。
これは確実に、、、漏れている。しかも背中に。

わたしは重力というものを信じていた。ニュートン以来、多くの人間たちがそうであったように。しかし、娘の前ではそういった物理すらも通用しないように思える。何故なら、わたしは娘が(おそらく)電車の中で排泄をしてから、オムツ台に寝かせるまでに一度たりとも娘を逆さまになどしていないし、ましてや抱っこ紐の中から出してもいない。みの虫のように、しっかりと抱えてオムツ台までやって来たのだ。であるのに、排泄された娘の便(カニ味噌であった)は、虚しくも、おろしたばかりのフリル襟つきの生成りのボディスーツの背中〜下半身部にかけて鮮やかにペイントされていた。スプラトゥーンプレイヤーも真っ青の荒技。(スプラトゥーンをプレイしないので、実際の所スプラトゥーンにおいて「カニ味噌色」が存在するかどうかはわかりません)(謹んでお詫び致します)

泣いた。泣きながら笑った。

泣きながら笑って、待たせてしまうであろう友人に「娘のオムツ替えてきます!」と急いで連絡をした。実際には、オムツはもう剥がされ、スプラトゥーンに興じる娘を前に、片手にはお尻ふきを握りしめていた。

しかし不幸中の幸いともいうべきか、その友人から出産祝いにいただいて、涼しくなってきたことだし♪とはじめて娘に着せた可愛い綿のカーディガンは一切無傷だったのだ。そして、ボディスーツの上からはかせていたレギンスも、何故か生成りカラーを保ったまま無傷で、謎が謎を呼んだ。とはいえ、本当にラッキーではあった。あらかたスプラトゥーンを回収し、仕方がないので素肌にカーディガンをそのまま着せた。お着替えは一応持ち歩いてはいたのだが、よりに寄って、薔薇に蝶々という柄オブ柄、というようなチョイスだったため着替えは断念した。カーディガンが、テディベアの総柄だったためだ。しかし、高級アパレルの綿は素晴らしい。娘のこんにゃくのような柔肌をやさしく守り包む。散りばめられた可愛いテディベア一人ひとりに、最敬礼したい気持ちであった。

帰宅し、オムツ用のゴミ袋に密閉した、本日の事件の被害者である生成りボディスーツを取り出した。やさしい生成りの上で、カニ味噌がスプラトゥーンしている。一刻も早い洗浄が求められる。水であらかた洗い流してみたが、勿論カニ味噌は依然としてそのその存在感を放ったままだ。娘用の洗剤を少しずつつけ、容赦なく素手で揉み洗いしていく。カニ味噌が、生成りと混ざっていく。生成りという絶妙な色のチョイスのせいで、カニ味噌が取れているのが全く分からない。もはや終盤は、カニ味噌を洗い流しているのか、生成りと混ぜ合わせているのかすら分からなく、ヤケクソであった。

しっかりと絞り、干した。心なしか、生成りボディスーツは、疲れ果てやつれているようだった。

本日の教訓は、ふたつ。ひとつは、娘が排便をした気配を感じたら可能な限り迅速にオムツを替えること。ふたつ目は、重力など信じないこと。あるはずの当たり前などに逃げず、今目の前で起きたことのみを受け止め突き進むことだ。

それにしても、他者の便をここまで愛おしく思える日が来ると、誰が想像しただろう?いや、今までのわたしでは分からなかったことばかりだ。

大切なことは、娘がすべて、教えてくれる。

#子育て #娘 #おむつ替え #梅田

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