輪郭

私のごく取るに足らない感傷が、そしてすべての人間のそれが、巨大に膨れあがってきたのだ。太陽系全体は私の(あるいはきみの)腕時計のガラスに映る影にすぎない。収縮すればするほど――

「おまえ、ウソついたな」

タリーズで本を読んでいると、隣の席についた二人組のうちの一人が、とつぜん相手をなじった。
言葉を吐いた方が女の子、その向かいは男の子。しどろもどろになって、「え?」と呟いている。

どうやら二人は、この席につくまでに、「どこまで勉強したか」話をしていたらしかった。テストか、あるいは受験の話だろうか。
なんだ、そんなことか、と真っ赤っかな他人であるわたしは安堵した。
けれどそれとは裏腹に、久しぶりに耳にしたキツイ言葉に、その後の文章が頭に入らなくなってしまったのだった。

学生とは、いいものだ。
好きなことを言える。正しいことも言える。
大人になって、うそをつかれたら、
ああ、うそをつかれたな、と気づきながらも
「そうなんだね」と相槌を打つだけなのだから。


人間が多面的な生き物であるように、一人一人の作家にも色んな面がある。一概に、この作家はこういった特徴があります、とは言えないものだと思う。物事は色んな要素によって成り立つ。作家の特性も、色んな面によって成り立つ。

その一面のひとつとして、ナボコフは喪失を追い求めた人なのではないか、と思うのだ。

わたしは『ロリータ』を読んでから、他の作家の小説を読んでも数ページで手が止まってしまうという謎の奇病に罹患しているが、ナボコフの文章はひどく心地よく感じる。わたしは、勉学が非常に苦手だ。おつむの弱いわたしだが、それでもナボコフの言葉たちは、好みの音楽のように親しみやすかった。それは、わたし自身にも、避けがたい喪失の覚えがあるからだろうと思うのだ。


喪失と書くと、なんとも悲壮な雰囲気が漂ってしまうが、大人なった今は、そんなに悲しい、とは思わない。逆に、懐かしいというか、愛おしさや、温かさを感じる。今の自分にはないものが、失ってしまったものが。欠けたパズルのピースのように、はっきりとした空白の輪郭が。

ないことも含めて、自分がすべてを有しているかのような。
あったとしても、なかったとしても、初めからすべて揃っていたかのような。

ただただ「虚しい」としか感じられなかった子どもの自分が、そのように前向きになれたのは、おそらくだけど、とても自分本位な読み方だけれども、ナボコフ作品に触れることによって、作者と共に喪失を追い求めることによって、かつての傷が慰められたからではないか、と思うのだった。



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