きわめて透明な

イオンの帰り、駐車場へと続くスロープを歩いていると、足許になにかが落ちているのを見つけた。注視しながらその脇を通りすぎる。
裏返ったカナブンだった。
とうに動いてはいなかった。

初めて人の亡骸を見たとき、「魂ってほんとうにるんだな」と思った。
生命活動を停止した肉体は、どう贔屓目に見ても「遺体」だった。生きているようには見えない。眠っているようにも見えない。
音がしない。動かない。

人の生死に触れると、肉体はほんとうに容れ物だったのだということがよく分かった。魂が抜けた時点で、肉体は地球に引き渡されるのだな、ということも。

小さな時は、対象物の表面しか見ていなかったことに、大人になってから気づいた。
たとえは、カナブンが死ねば、それはただ虫が死んだだけだった。
今では、大きな生命に還っていったことに思いを馳せる。
肉体の裏に透けて見える、大小の炎を思う。
亡者にはなくて、生者にはあるもの。


「じいじはどこに行ったの?」

去年から、立て続けに命がその務めを終える出来事があった。
義理の父も亡くなった。わたしのペットもなくなった。その後、ペットはもう二匹、亡くなった。

「みんなどこにいったの?」

子どもの前で、「死」という言葉をつかうのは、少し躊躇われる。死はほんとは、いつだって身近にあるけれど。身近ではあるけど、軽々しく扱うものでもない。

「じいじは、君がいたところに還っていったんだよ」
「ぼくがいたところ?」
君はまだ憶えているだろうか。


阿字の子が
阿字のふるさと立ち出でて
また立ち返る
阿字のふるさと


巡る、巡る。いのちがめぐる。
海の水が蒸発して、雲になり、雨や、雪になって再び降り注ぐように。


もしかしたら遠い昔
みんなひとつだけの
でかい塊だったりして

吉井和哉


わたしたちはみな兄弟だった。大きな生命から産み落とされ、それぞれ異なる体を得たけれど、元を辿ればひとつの生命から生まれた兄弟だった。

生きることは寂しい。
死んでしまうことはもっと寂しい。
けれどわたしたちは、生の状態であれ、死の状態であれ、いつも同じ籠の中にいる。

年を経たらまた違ったことを考えるかもしれないけれど、少なくとも今は、そう思う。

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