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最も勘違いされる言葉「公共の福祉」

■はじめに
最近、なにかと政策などで違和感があると、その価値基準として「公共の福祉に反するから」と持ち出す人が多い。しかし、公共の福祉を他人に説明できる人は少ない。また説明できても、大抵は「勘違いした解釈」で解説している。今回はこの最も難解と言われる「公共の福祉」とは何なのかを考えていきたい。

1.憲法の価値観と公共の福祉
憲法の価値観は中学あたりで学ぶであろう三原則と言われるものである。
それは、国民主権平和主義基本的人権の尊重である。
その最後の「基本的人権の尊重」の中に「常に公共の福祉のためにこれを利用する」とあり、違反した場合は人権は制限されたりする可能性がある。
従って基本的人権とはなにかと言う事が理解できていないと、この公共の福祉もわからない。


基本的人権とは、人間が人間として生まれながらに持っている、或いは国民が一律の基準において必ず得る権利と言われている。

内容は、主として、自由権平等権社会権参政権請求権

そして、尊重とはかなり強めに大切にするという意味で、総理大臣ですら、この権利を簡単に侵害することは許されていない。

自由権は、様々な活動と思考の自由性を補完した権利で、最も基本的人権の基本である。思想良心表現職業選択言論学問信教移動等の自由は有名だろう。
これを担保する代わりに、憲法には国民の義務が存在し、それは勤労の義務、納税の義務、そして子供に教育を受けさせる義務とされている。

勤労の義務については社会権の中にある勤労権も存在しており、現在は「労働能力を有するもの」と義務範囲を絞っており、また「私企業等への就業または起業」及び「国又は公共団体への機会の提供要求」そして「これらが不可能な場合、国や雇用者は相当の生活費を保証すること」という事もうたわれている。

平等権とは、差別的な扱いをされない権利、各権利を誰もが公平に使用できる権利と言われている。奴隷にされない権利や貴族や士族などの身分制度に縛られない権利、夫婦や両性を平等に扱う権利など。

社会権とは、国民として社会の中で存在できる権利と言われており、生活保護等の根拠となっている「健康で文化的な最低限度の生活をいとなむ権利(生存権)」や「教育を受ける権利(教育権)」、また一定の年齢を過ぎたものが得られる権利として「勤労及び勤労条件の権利(勤労権)」「労働者が団体で雇用者に雇用条件などを交渉する権利(団体交渉権)」「家屋に住む権利(居住権)」「資産や財産を保有する権利(財産権)」などがある。また犯罪や過失などによって「基本的人権を侵害されない権利」も含まれる。

参政権は年齢で一律に得られる最も代表的な基本的人権で、選挙で議会の代理士や行政の代表者等の公務員を選んで投票する「選挙権」と、その公務員に立候補できる「被選挙権」からなる。

そして、請求権とは、未来の行為を相手に要求できる権利とも言われる。

実体的な別の行為(売買の契約や、権利の侵害の排除または補填、差別的な行為の停止など)に基づいた権利で、その実体的な別の行為がない、または起きうる可能性が低い、虚偽であった場合等には発生しないが、発生した場合、損害の補填、公務員の罷免、法や規定の策定や停止・廃止、公務員への賠償請求などを請願できる。(請願権

また法律に照らして判断する第三者の裁判官によって判別・調停する「裁判」をうける権利(裁判権)や、刑事事件の被疑者になった場合、裁判に向けて弁護士をつける権利(弁護人依頼権)なども請求権とされる。


こうした基本的人権を制限する基準が「公共の福祉に利用しているか」である。

公共から連想するのは、社会全体というイメージで、福祉弱者救済を図り保たれる秩序やバランスというイメージがある。
実際に中学の教科書あたりでも、公共の福祉を「社会全体の共通の利益」と説明している例も散見する。

しかし、もしもそうならば、個人の人権社会の利益が制限したり侵害したりと「優先」することになる。
それは、国民主権をうたう日本国の憲法として違和感がある。

2.公共の福祉は観念
公共の福祉については、アリストテレス等が唱えて以来、ずっと議論されてきた「観念」である。従って今でもなお、実体としての公共の福祉は時代の評価によって成立する特性があり、また社会の変化と共に変容すると言われている。

例えば50年前には道路での立ち小便はそれが所有者不明の空き地や道路等ではかなり容認されていた。しかし、今では、そこに所有者の権利が存在しなくてもトイレ以外では違法行為になる。
その土台は社会が全体的に考える公共の福祉の観念の変容で、仕方ないと容認していた時代から、やはり清潔感はなく、臭うし、見た目も下品だし、生活環境のあちこちでされていたら生活するのに大勢が迷惑するという様な変化だ。
そしてその感覚をなんとなくではなく、実体として扱うために、軽犯罪法で具体的な行為を犯罪行為として明文化し、規定している。

法律で正確に規定しないと、人権を制限するほどの対象であるかを決定できない。

排尿は自然に生まれ持つ基本的人権なのだ。ただその行為はトイレという一定の場所に限り自由なのだ。じゃないと家族や近隣住民が臭いや汚物によって生活をできなくさせる。つまり生活する権利を侵害するのだ。

人間の生活は基本的に社会生活である。従って、個人の人権に基づいた利益の追求を優先し始めたら、他の個人の人権を侵害(踏みにじるや損失をさせる等)する事がある。

そこで両者間の調和が必要になる。

これが公共の福祉の基本である。

この調和の結果を越えて、さらに個人の利益を追求し、他の個人の人権の侵害程度を大きくするならば、その個人に対して、人権を制限し、やめさせたり穏やかにしたりする、その表現が「公共の福祉に反する」なのである。

また誰もがその公共の福祉を保つ、つまりそこで調和を図ったその状態を維持する為の努力をしなくてはならない。

つまり公共の福祉とは社会生活を営むすべての個人の基本的人権の尊重とそのバランスを調整して初めて成り立つ「感覚的な事」なのだ。

3.公共の福祉という観念の悪用
しかし、17世紀頃、個人の利益を追求する人に対して、侵害を受ける個人の方が多い事から、公共の福祉は、個人を社会のために制限するものと捉えるようになった。

なぜなら、公共の福祉が観念に過ぎないので様々な解釈ができること、そして、多くの国が、まだが整備されておらず、また公平という概念もない。特に君主による絶対主義維持するためには、抵抗する人達を排除する規律を必要とした。

君主の為の国家では、国民はその国の利益を優先し、国はそれにより秩序を保つという価値観が強く、そのため公共の福祉という言葉はそうした価値観を国民に強制する目的で使われた。

この流れは様々な形で引き継がれ、福祉国家思想(すべての国民が全体の利益に奉仕する国家像)として強調され全体主義の根拠となり、21世紀に至る今でも、公共の福祉の概念のどこかにうっすらと存在してしまった。

権利を集約し、全体主義を唱え、意のままに国民を操り、恣意的に反意の個人を排除・抹消するという極端な公共の福祉の解釈は、自己権威を追求したいという欲望実現には必要条件だった。ナチス、ムッソリーニ、スターリン、などなど。

人権の制約原理としてどんなことにも公共の福祉を認めると、それを理由に個人の人権は不当に制約されると、ナチスを研究している法律学者は必ず言う。

ナチスは「公共の福祉は個別個人の利益に優先する」というのが標語だったのだ。

日本でも全体主義という戦前の思想は、この「公共の福祉」の極端解釈が基軸となっていた。

その結果、国際社会から孤立し、戦争という手段を選ぶことになり、最終的に空襲と原爆という、社会に最も大きな損益を与えてしまう結果に導いた。

戦後に作られた日本国憲法はその反省に基づいたものなので、個人の基本的人権はそう簡単には社会利益に制限されないように考えられた。

4.公共の福祉の憲法上の意味
現代の日本では、あくまで「公共の福祉に反しない限り」と、政権等権力者側が法律や規律・命令などをを作る時の絶対条件とし、人権制限の要件を狭くしている。

また実際には、個人の権限に立脚し、「基本的人権の相互間の調整及び基本的人権と社会的な利益との矛盾と衝突を調整するもの」と公共の福祉を位置づけ、実質的な公平の観念とし、法律によって明文化し、その範囲において、個人の人権を「法に反したら一部に制限を受ける可能性がある」としている。

また昭和後期には、裁判等においてもあまり「基本的人権を制限する」理由として観念的な公共の福祉は用いられなくなり、また社会利益の維持を根拠にした法律に基づく裁判の場合は、あくまでその法によって制限を受ける人権とその制限によって得られる利益とを比べて判断するという手法が用いられている。

■さいごに
ここまで来るのに、実はなかなかに難しく、かなりの理解力が必要だった。
モノが観念で、しかも時代性の影響を受けて変化する限り、仕方ないのかも知れない。

しかし、その柔軟さこそ、法律には必要なのだとも思う。

ただ中学生時代の自分なら、けして理解できなかったであろう。
彼には要約してこう説明したい。

「○○したら、隣の家の窓が割れてお金がかかった」「〇〇と言いふらしたら近所のお店の売り上げが減った」そんなことを損失で終わらないように調整するものが「公共の福祉」で、けして「〇〇をやると全体が悪くなる」という「正確な損害や被害のない漠然とした恐怖感や危機感」や「規制する法律が明確でない決まり事」などは「公共の福祉」とは呼べないと。

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