樹海村の感想とか考察とか(感想編)

ホラーというジャンルは作者が一般大衆を怖がらせるために空想力が必要とされるジャンルである。その空想力に触れるだけで面白いのであるが、その空想を表現した内容というのも民俗学や社会問題などの知見を含んでいるものも多いので私は昔から好きである。

そんな私が最近気になった作品があったので、本日はその感想とか考察についてお話したい。ツイッターで繋がりある人はご存知かと思うが、その作品とは樹海村である。

この樹海村は映画であり監督に清水崇氏、脚本に保坂大輔氏が就いているという豪華な作品である。また小説とマンガも発売されており、小説は久田樹生氏が担当し竹書房から、マンガはゆとと氏が担当しメディアファクトリーから発売されている。

私はマンガ版から入り映画を見た。そして小説の方も気になったので読み、その上でもう一度映画を見ているので、感想と考察はこの3つを見たうえでのものである。

本題に入る前にこの作品の概要を説明すると、タイトルの樹海村とは「富士の樹海には死にきれなかった人たちが作った村がある」という都市伝説の樹海村から来ている。さらにインターネットの怪談で有名になったコトリバコという怪談があるのだが、この作品は樹海村とコトリバコという二つの怪談をクロスさせたものである。ストーリーは5人の若者がコトリバコをたまたま見つけてしまい、恐怖に巻き込まれるというものである。

その5人が主人公となる天沢姉妹(姉:鳴、妹:響)、姉妹の幼馴染である阿久津輝、阿久津美優、鷲尾真次郎である(輝と美優が結婚して新居に引っ越すというところから恐怖が始まる)

※ここから先はネタバレを含むのでそれでも構わない方だけ読んで欲しい

もともとお金がない身の上なのでホラー好きといっても映画よりもマンガを読む機会の方が多いのであるが、なぜこの作品を読んだかというとあまり詳しく覚えていない。夜にインターネットで何かを調べていたときに、マンガ版の情報に流れ着き読み始めたのが全ての始まりなのは覚えている。

そういう訳でまずマンガ版の感想であるが、絵が個人的に好きである。そのため主人公の一人である響の死は好きな人が死んだようで非常に辛かった(余談であるが響の死に方はマンガ版が一番残酷であった気がする)。

ところで、ホラー映画がマンガ化されるときというのは話の流れや描かれ方というのが少しばかり違っていることがよくある。この作品もそうで、映画や小説で出て来てない言いまわしがマンガであったりする。

登場人物同士の関係性もそうで、マンガを読んだ時は「しっかり者のお姉ちゃんとマイペースな妹で、姉が時折マジ切れする。」程度に思っていたのだが、映画と小説を見ると主人公姉妹がガチで仲悪いので「!?」であった。

何故、仲が悪いのかというと響は霊感?があり幽霊とか霊気に反応するのであるが鳴は霊感がないので響のことが理解できないからというのが理由である。小説の方を読むとその辺りが詳しく書いてあるので、仲悪くなるのも仕方がないと思いはするが・・・

まあ、それはさて置き映画版の一番の感想は悪霊というか樹海村とコトリバコ(映画や小説では単にハコと言っている)という呪の正体が怖かったといことである。木や苔と同化したような亡者なので「いくら森の中で死んだからってそうなるのか!?」という気持ちであった。

あと、やはり印象深いのは映画の最後のシーンである。響の死から7年が経ち鳴と真次郎とが結婚して7歳くらいの娘(ねねという名前である)がいる中で、ねねの前にコトリバコが現れ響が「来ちゃだめ」と言って終わるのである。

最近のホラーではベタであるが、実は呪が終わっていなかったというものである。「やっぱりな」と思った。予想が当たるというのは嬉しいものである。

ところで、このシーンに関しては状況が読み取れずもやもやしているので、詳しく説明する。車庫の奥でねねちゃんがコトリバコを見つけて屈んでハコに「ひーびきちゃん」と話しかけると響の声で「来ちゃだめ」と囁いてカタッという音がして映画が終わる。マンガもほぼ同じ終わり方である。

ねねちゃんにはハコがどう見えているのであろうか?響が死んだ時は17歳と推定されるのであるが、7歳の子が屈まないといけないって子どものころの響が見えているのだろうか?このシーンは少し謎である。

この点についてはいくつか可能性を考えてはりうのであるが、それは次の考察編で。





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