『画家でなくて絵描きになれ』か

なんとなく、少し古いけれどジミー大西さんのしくじり先生を見ていたら
横尾忠則さんに『画家でなくて絵描きになれ』と言われた、と。
画家は商業として、絵描きは楽しくてやる人。なんだとか。
なんともしっくり。

脚本家用にそれに対応する言葉はないんだけれど
私の印象では
今食っている人には『画家』脚本家が多い。
『画家』自覚、もいるし
皆よくわかんないようだから『絵描き』だと思わせている『画家』もいるし
自分の事を『絵描き』と間違って思い込んでいる『画家』もいる。
超有名な方々の中にさえ。

そしてそんな状態だからか
褒める人達の褒め方もおかしい、というか。
最近、びっくりしたのが
脚本家? らしい人がある脚本家をほめる動画があって
「このセリフ、すごい! どの場面に入れてもいい、良いセリフなんだ」
みたいなことを興奮しながらおっしゃっておって。
ここまできとるのか、と驚いた。何を言ってるんだ、と。
例えば「うんこ」「しね」って単語でさえ
その文脈にに入るからこそ泣けるくらい「いいセリフ」になりうるってのが脚本創作の基礎の「キ」じゃねえのか、と腹が立ってしまう。
少しでも気を抜くとキャラクター達はまっとうになりがちで
「良い事」や「うまいこと」語りそうになるのを理性で必死に止める、
主張を構成や行動でどう言い換えをするかなって頭をひねっている身としては悪い冗談にしか聞こえない。うまいことを言うキャラクターは狙いに狙って配置しないと、見ている人は疲れる。私は疲れる。
どこに入れても意味の変わらないセリフなら、それは「エッセー」「随筆」おしゃれな雑誌連載ににかけばよいではないか、と意地悪な事をおもう。

今、めぐりめぐってショーンKさん問題がぶり返されてて、なんだか、思い出した。現場にいた時私が会えた「うえがわの人達」はまさにこういうKさんみたいな人を求めてんだよな、って肌で感じてたのを。
画家さえ求めてない、というより、彼らはそれが画家でない事を見抜けない
または「最悪、画家でなくても別にいい、ごまかす事が上手なら」を
無自覚で行く感じ。働きたくなくなったな。

一つ前の拙き記事、引用してもらった事があった。

この方が私について
「自分の感性と他者の感性に対し共に誠実であるが故にプロにならない選択をした」ように見える、と書いてくれて、なんとも、改めて、恐れ多い、傲慢な事を吐いてしまっているんだよな、と感じて。それほどの者でもないんです、と恐縮だったけれど、書いてくれたこの方も絵を書く事において、あるレベルからしか見えない景色を見ている人だから「趣味で脚本を書く」という激しいつっこみ覚悟の肩書の遠吠えを笑わないんだろうなあ、とものすごくありがたく受け止めた。

最近、絵描き脚本家を目指しつつも
発表の場をどうやって作るかを本気で考えて営業を始めた。




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