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偶然 1

偶然1
 
『ん〜‥鹿児島産 鰻白焼一尾3480円かぁ‥』
山森、現役の頃であれば、躊躇なく、即、購入であったが、
今はこういう即断即決は身を亡ぼす。
山森、割増退職金というあまい言葉にパクリと食いつき、55歳という年齢で、スッパリ現役を退いて早5年。
後悔は今のところ無い。
 
『まっ、たまにはいいか‥‥』
手を伸ばそうとしたその時、
「山森さん」
『ん?』
若い女性が、声をかけてくる。
と言っても、山森から見てである。
時節柄マスクをしているので、顔はよく分からない。
が、目は少し潤んだ感じで魅力的である。
「私ですよ。キ、リ、タ、二」
と、マスクをさげる。
山森息を呑む。
『き、綺麗な女性・・・』
と、心の中で呟くが、誰だか分からない。
山森、口を半開きにしたまま、見惚れる。
「あ〜、忘れてますよねー」
その時、電撃のように思い出した。
二十年ほど前か、山森が人事部長をしている頃、可愛い娘が入社してきた。
「そうかぁ、あの娘だ‥』
当時、山森は、仕事に没頭する堅物男であった。
が、うっすらと記憶がある。
数年勤務して、退職したはずだ。
たしか寿退社だったような‥‥
結婚式に呼ばれ、スピーチをしたような記憶がある。
役職柄、仕事のように結婚式に呼ばれていたので、定かでは無い。
『おぅ、元気にしてたかい?
君のことだから、さぞ幸せな家庭を築いているだろう。
ご家族は皆さん元気かな?』
単なる時間潰しのような質問をしてみる。
「はい、娘二人は独立して、気儘な一人暮らしを楽しんでます」
『えっ?大変失礼だけど、ご主人は?』
「娘達が独立したのを機に、離縁されちゃいました。うふっ」
『君が三行半を突きつけたんじゃないのかな?
君のような魅力的な女性を離縁する男なんていないだろ』
「もうどーでもいいんです。
それより、私、この近くのチャオっていうイタリアンのお店にいるんです。
兄の経営ですけど。
近くに来られたら是非、立ち寄って下さいね。」
『イタリアン・・チャオか・・・』
「ほら、あの高いビルの角を曲がって少し行った所です。
そ、れ、と、山森さん、
私との約束、まだ実行していただいてないので、それも宜しくお願いしますね‥」と悪戯っぽく微笑む。
『約束?‥』
「あー忘れてるぅ。
私が会社にいた頃、一度食事にでも行くかって、言っていただいたままですよ。」
『そ、そうだっかな・・・
じゃ近いうちに、実行に移さなきゃいけないな』
「お待ちしてまーす」
 
つづく


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