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zaregoto

戯言
 
最近、感性、知性は研ぎ澄まされて、若い時分より豊かになっているように思える。
本当にそうだろうか。
知らず知らずのうちに視野狭窄に陥ってはいまいか。
視野狭窄は気付かぬうちに進行し、ふとした弾みに片目でものを見たときに初めて自覚するようである。

五感全てはやはり若い頃より衰えるだろう。
ただ若いうちは、人生の中でも戦さの最中である。
闘いに明け暮れ、シャープな五感を意識することはない。
花鳥風月を愛で、自然の営みなどに心をとめることなどは、あまりないのではないか。
戦い終えた後はどうか、現役引退すると時間に余裕ができる。
自然、今まで関心をもたなかった世界に目がいくようになる。
つまり、若い頃より感性が豊かになったのではなく、視点が変わっただけなのかもしれない。
では、知性はどうか‥‥
同じであろう。
人恋しくなるのもしかりである。

実は視点が変わるというのは、考えているより凄いことなのである。
若く勇敢な戦士であった頃は、視点を変えるなどということは無い‥出来ないのである。
何故か‥
年齢の為せる技だからである。
小生が、肉体が経年劣化するのに対し、精神は経年熟成するという主張の所以である。
情報のみで物事を判断するのではなく、心眼で見、考える。
而して、マスコミの情報のみで判断することは極めて危険であることに気付く。
うまく表現出来ないが、自然の美しさが心に染み入るように感じることが出来るということだろうか。
そうすると、それを芸術で表現しようとした先人達をやっと少しだけ理解出来るようになるような気がする。

絵画、彫刻、音楽、etc・・・
 
話は変わるが、小生は無宗教である。
心の安寧を神仏に祈ろうとは思わない。
小生の宗教観は、神は個々人の中にのみ存在する。である。
これは、傲慢というものであろうか。
否だと思う。
古来、太陽、月、ある時は山、海といった自然の中に己の心を投影し神とした。
そういった自然崇拝信仰は、経済活動の進展とともに包括的創造主という共通概念を産むにいたる。

つまり、もともと原始的には己の精神に存在した神めいたものが集団の膨張につれ(家族、一族、仲間内で最も解りやすく共通意識を持ち易い)神という概念に投影され集団の団結を図ったのだろう。
 
経済的進展と共に、為政者が「私はこう思うから、ついてきなさい」よりも、絶対的創造主のご意志であるとした方が民衆はリードしやすい。「これは神のご意志である‥‥」と。
古来、八百万の神々の国、日本はその代表概念として天皇を奉じた。

周知のことであるが、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の神は共通している。
西欧のキリスト教勢力と対峙した中東勢力は団結する為に、ムハンマドを登場させイスラム教を創り出した。

勿論、あくまでも私見である。

為政者の都合であろう。
歴史を俯瞰すれば、宗教というものは大なり小なりこうした一側面を持ち、民族・国家、集団統治の為のイデオロギーのようである。

現代で言えば中国における共産主義しかりであり、ロシアにおけるプーチンとロシア正教のキリル総主教の関係を見れば明らかである。

では日本ではどうか、
世界の中ではかなり特殊だと言える。
一言でいえば西欧の一神教に対して八百万の神である。
加えて、仏教という輸入宗教も見事に日本化され定着している。
日本独自とは言えないのかも知れないが、怨霊信仰というものもある。
怨みを含んで亡くなった人を神として祀り、祟り(天変地異、自然の災い・・・)の無いよう崇める。
日本三大怨霊、崇徳天皇、平将門、菅原道真は特に有名である。いずれも神として祀られている。

また、日本人の極めて優れたところは、怨霊だったはずの菅原道真公を学問の神として変身させる能力を持っていることである。
これと似たような例は山ほどある。クリスマスを国を挙げて祝い、一週間後に初詣に行く・・・例をひくまでもないだろう。

では、日本人の心のよりどこは・・・
日本史を眺めれば、
天照大神と天皇家と言えるのではないか。
 
因みに、石山本願寺との長期にわたる戦、比叡山の焼き討ちで知られる織田信長、彼の一大功績は宗教勢力に武装解除させたことだといわれる。

武装した坊主、僧兵は歴史物でよく見かける。
宗教勢力の武装もしくは、それらを利用することは、むしろ当時の日本のみならず世界でも普通のことのようである。

信長は、何故、そんなことをやったのか?
恐らくではあるが、彼自身が神たらんとしたのではないだろうか。
世界の為政者が大いに利用した宗教勢力を、彼は利用しようとしなかった。

その意志を継いだ、秀吉は豊臣大明神であり、家康は東照大権現、アズマテラス、つまり徳川幕府の存在する関東一円を照らす神である。

現代日本はどうだろうか、少なくとも宗教を政治的イデオロギーとして全面的に利用している節はあまりない。

余談になるが、アインシュタインとホーキンス博士。
近代を代表する頭脳の持主であるが、前者は神を肯定し、後者は完全否定である。
対極をなして面白い。
アインシュタインは人類の思い上がりを戒める意味もあったものと思われる。
一方、若くして難病に見舞われたホーキンス博士は、その不運も影響しているのではないかと言われている。
 
心の安寧を何に求めるか・・・

小生は、やはり自然に求めたい。
そして、芸術・音楽・文学だと思う。

勿論それらを解説するものなしで、である。
何故か、余分なイデオロギーが入るからである。

心で見、聞き、読むである。

文酔人卍 戯言
 
 

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