わが青春想い出の記 7 芽生え

 大学四年生になった夏、三年振りに帰省した。そして二、三日してから佐々岡の家を訪ねた。玄関で留守を乞うと、
「兄は留守ですが・・・と奥から出て来たのは洋子だった。二人は、咄嗟の出会いにほぼ同時に
「アッー」
と、言ったきり、次に出て来る言葉が出ない。何分間沈黙が続いたであろうか。暫く沈黙がつづいたかと思うと、洋子は大きな目に涙をいっぱい溜めてジーット見つめていた。
 
「ご無沙汰ばかりしていて、・・・迷惑だったでしょうか」。
 
「いいえ、兄はすぐに帰って来ますから、上がって待ってて」と言った。
自分は素直に上がることにした。
 
 三年振りに見る洋子は見違えるほど大人になり、もともと美人で、高校生の頃は、男子生徒の間でも評判の美人であったが、その頃よりも一段と美しくなっていた。高校生の頃、友人の一人が、洋子のことを「まるで別世界の人のように美しい人だなー」と話していたのを思い出した。
 
「これや北風に一輪勁きを誇る梅花にあらず、また霞の春に胡蝶と化けて飛ぶ桜の花にあらで、夏の夕闇にほのかににおう月見草」。
 
とは、昔の作家、徳冨蘆花が浪子を評した言葉であるが、不如帰に出てくる浪子も洋子みたいな美人だったろうか。その洋子は、世の画家達が描いた美人画の中でも「これ以上美しくは描けないだろう」、と言う絵の中から抜け出て来たような美貌の持ち主で、目が大きく黒い瞳は潤んでいるようにも見えるが、パッチリと開き、顔は丸くて色白。肌色は紅でもつけたように紅色をし、からだは大きく肉づきもいいのに二つ折り、三つ折りにも出来そうな、いかにも柔らかそうに見えるからだつきの美人になっていた。動作は幼少時代と変わらず活発でピチピチしている。

 洋子は自分でお茶を入れたり、茶菓子を持って来たりした。
三年振りの再会であったが、二人の間に三年間の空白を取り戻すのに時間はかからなかった。佐々岡と手紙のやり取りしていたのが効奏したのかも知れない。
「お兄さんはどこへ・・・・・・」。
「知らないわ」。
「さっき君はすぐに帰ると言ったじゃないですか」
「そう言わないと、智帰りそうだったので一寸嘘を言ったの。しかし、もうじき帰るだろうと思います。気まぐれだからあてにはならないけどねー。そのくせ智を帰した後に帰って来るとなぜ帰したと怒るといけないから・・・・」。
二人は幼い頃の思い出話に華を咲かせた。
 
「僕は今でも洋子に済まない事をしたと思っているんだ」。
「何のこと?」。
「ほら、小学生の頃、裁縫の時間にいつも裁縫道具を貸してくれたじゃないか。ところが僕は洋子が差し出した物は一度も使わないで、よその子が差し出したものばかり使ったから・・・」
「あ!、あのこと?、覚えてる、覚えてる。あの頃、智ったら強情っパリだったねー。でもその都度、お母様に話したでしょう?。聞いたわ、お母様はチャーンと私の母に「詫びといて」と言ってあったそうよ。素直なところもあったのねー。母が褒めていたわ」。
「高校の陸上競技大会だったなー、百メートル発走の直前、アルコールを持って来て僕の足を揉んでくれた・・・」。
「知ってるわよ」。
「僕が一位でゴールした時、洋子は泣いていたね」。
「そんなこと覚えてないわ」。
「僕はあの時、一寸恥ずかしかったけど、あの時ほど嬉しいことはない」。
「どうして?」。
「あんなに人気者で、男子生徒の注目の的だった洋子が、他人を気にせず足まで揉んでくれたこと。まるでお姉さんみたいだった」。
「あたし、お姉さんなの?」。
「お姉さんか兄弟でないと、あんな大勢の人の目の前で、女子高生が男の足を揉むなんて度胸が要るんじゃない?」。
「迷惑だった?」。
「そんなことはない。むしろ嬉しかった」。
「あの時、実はある人と賭けをしてたの」。
「賭けとは?」。
 
「・・・実はあの時、M高校のある人にしつっこいほど文通をせがまれていたの。友達を通して手紙を渡されたり、部屋の雨戸の隙間に恋文みたいなメモを挟んであったり、本を借りるふりしてその本の中にラブレターを挟んであったりで本当に困りました。それであの競技大会でN校から代表として出てくる智に勝てば文通してもいいわ、と言っておいたの」。
「わかるでしょう。あの人」。
「・・・・・・」。
「だから絶対にあの人にだけは智は勝って欲しかったの」。
「それであんなことを」。
「ええ」。
「それでどうなった」。
「手を引いてくれたわ」。
「彼と仲良くやってね」と、言って。
「私たち二人が仲良しそうなところを見たらしいの。あなたに感謝しなければねー」。
「そんなに嫌だったの」。
「ええ」。
「ところでお兄さん遅いですね」。
「この頃留守がちで、お嫂さんも気にしております。兄ったら、よその女の人と良くないことをしているらしいのよ」。
「そんなことはないでしょう」。
「信用出来ないわ。男の人は」。
「手きびしいですねー」。
 
「だって、私の知っている人の十人の内、七人は信用出来ないもの」。
「信用出来ない人は十人のうち三人でしょう?」。
「そんなことないわ。十人に七人はまだ控え目で、九人はと言いたいくらいですわ」。
「それは洋子の思い違いで、そんなことないよ」。
「だって、私の知っている人は例外なしに、馬鹿な話を平気でしているのよ。お嫂さんや母はそれは仕方ないと思って半ば諦めているらしいが」。
「洋子はどうです?」。
「私はいやです。絶対にいやでず」。
「洋子は今が一番楽しい時ですねー」。
「どうして?」。
「愛する人がいて、その人のことで頭がいっぱいだからです」。
「そんなことないわ。私は今が一番いけない時と思うの」。
「どうしてですか?」。
 
「私は糸のついてない風船のようなものなの。どこへ飛んで行くか、流されるかわからないからですわ。私はいっそ家を出て一人になりたいとか、どこかへ行ってしまいたいと考えたりする時もあるくらいなのよ」。
「お兄さんはそれに対し何と?」。
「結婚する気がなければ、それもいいだろう。そうなったらおれは監督なんか御免だからな。その時はどうなっても知らないぞ」、と言うんです。どうやら反対らしいのです。
「僕はまた洋子は今が幸福の最中だと思っていました」。
「それならいいですけどねー」洋子はにっこり笑って見せた。すっごく可愛かった。
「洋子は理想があまりにも高いのではないですか」。
「そんなことないわ。ただこちらの思いが届かない・・・・・・・あーら、噂をすると何とかやらと言いますが、兄が帰って来たようよ」。
洋子は素早く立って行った。
 
自分は、洋子ともっと話がしていたかった。それは懐かしいからだけではない。向かい合っているだけでも嬉しかったし、洋子の美しい顔や、潤んでいるようで大きく黒い瞳、その笑顔、きびきびした動作を見るのが楽しかつたからである。
 
その翌日だった、洋子とその兄、外に二~三人の男を交え楽しそうに会話しながら街中を歩いているのが遠くから見えた。
自分はそれを無関心で見ていようと思ったが、無関心でいられなくなっていた。いつの間にか洋子の事を想うようになっていたらしい。しかし、自分の許嫁でもなく、自分の方で気かあると言うだけで、洋子がどう思っているかも知らない。自分は女に好かれないタイプであることも十分知っていたから、特別に近づこうとも思わなかった。それに自分はまだ学生の身分。結婚して一家を持つだけの自身もなかったからだである。
 

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