「公共哲学と自己統治」慶應義塾大学経済学部2016年
(1)問題
次の課題文を読んで,設間A,Bに答えなさい。解答は解答用紙の所定の欄に横書きで記入しなさい。
[課題文]
① われわれの生活を律する公共哲学の中心思想は,自由とはみずからの目的をみずから選ぶ能力にあるというものだ。政治が国民の人格を形成したり,美徳を涵養したりしようとするのは間違っている。そんなことをすれば,「道徳を法制化する」ことになりかねないからだ。政府は,政策や法律を通じて,善き生に関する特定の考えを支持してはならない。そうではなく,中立的な権利の枠組みを定め,その内部で人びとが自分自身の価値観や目的を選べるようにすべきなのだ。(中略)
② 自由についてのこうした見方は実になじみ深いため,アメリカの政治的伝統における不変の特徴のように思えるかもしれない。だが,支配的な公共哲学として, こうした見方が登場したのは最近のことであり,この半世紀ばかりのあいだに広まってきたのだ。その著しい特徴は,対立する公共哲学,つまりこの見方に徐々に取って代わられた公共哲学と比較すると最もわかりやすい。その哲学とは,ある種の共和主義的政治理論である。
③ 共和主義的政治理論の中核をなすのは,自由は自己統治の分かち合いに支えられているという考え方だ。この考え方自体は,リベラルな自由と矛盾するわけではない。政治への参加は,人びとが個人的目的を追求するために選ぶ手段の一つともいえる。だが,共和主義的政治理論によれば,自己統治を分かち合うことにはそれ以上の意味がある。つまり,共通善について同胞市民と議論し,政治共同体の運命を左右するということだ。ところが,共通善について深く議論するには,みずから目的を選択し,他人にもそうする権利を認めるだけでは不十分である。公的な事情に関するする知識はもちろん,帰属意識,全体への関心,運命を左右されるコミュニティとの道徳的つながりも必要なのだ。したがって,自己統治を分かち合うには国民が一定の市民道徳を持たなければ,あるいは獲得しなければならない。だとすれば,共和主義的な政治は,国民が信奉する価値観や目的に中立ではありえないことになる。共和主義的な自由の概念は,リベラルなそれとは異なり,形成的政治,つまり自己統治に必要な特性を国民のなかに培う政治を要求するのである。
④ リベラルな自由の理解と共和主義的な自由の理解はともに,われわれの政治的経験のなかにずっと存在してきた。だが,そのあり方や相対的な重要性は変化している。この数十年で,アメリカ政治の市民的あるいは形成的な側面は,手続き的共和国に取って代わられた。手続き的共和国とは,美徳を育むことよりも,人がみずからの価値観を選べるようにすることに心を砕くものだ。こうした 変化を考えれば,現在われわれが抱いている不満も理解できる。というのも, リベラルな自由観がいかに魅力的であろうと,そこには自己統治を支えるための市民的資源が欠けているからだ。われわれが生きる指針としている公共哲学は,そ れが約束する自由をもたらしてはくれない。なぜなら,自由に必要な連帯感や市民参加の感覚を呼び起こすことができないからだ。
⑤ アメリカの政治が市民の声を取り戻そうとするなら,われわれが問い方を忘れてしまった問題を論じる手だてを見つけねばならない。現在われわれが経済について考えたり論じたりする方法を考察し,アメリカ人が歴史の大半を通じて経済政策を論じてきた方法と比較してみよう。近年,われわれの経済的議論のほとんどは,考慮すべき二つの焦点のまわりを回っている。つまり,繁栄と公正である。どんな税制,予算案,規制方針を支持しようと,人びとがそれを擁護する根拠は,経済のパイを大きくするか, パイの配分をより公正にするか,さもなくばその両方か, という点にあるのだ。
⑥経済政策を正当化するこうしたやり方はあまりにもなじみ深いため,ほかの方法はありえないように思えるかもしれない。だが経済政策に関するわれわれの議論の焦点は,必ずしも国民生産の規模と配分だけにあるわけではない。アメリカの歴史の大半を通じて,われわれは別のある問題にも取り組んできたのだ。つまり,自己統治に最も通しているのはどんな経済の仕組みか, という問題である。
⑥ トマス・ジェファソンは,経済論議の市民的な要素に古典的な表現を与えた。『ヴァージニア覚書 』(一七八七年)に おいて,ジェファソンは国内で大規模な製造業を育成することに反対した。農村の生活様式は国民の美徳を養い,自己統治に通しているというのがその理由だった。「大地で働く者は神の選民である」と彼は書いた――「真の美徳」の化身だというのだ。ヨーロッパの政治経済学者は,あらゆる国家がみずから物をつくるべきだと説いたが,ジェファソンは大規模な製造業が無産階級を生み出すことを懸念した。無産階級は,共和主義的市民に必要な自立性を欠いているからだ。 「依存は従属と金銭的無節操を生み,美徳の芽を窒息させ,野心を満たすたくらみを準備させやすくする」。ジェファソンは「わが国の工場はヨーロッパに残しておいて」,工場がもたらす道徳的腐政を避けるほうがいいし,工場で物をつくることに伴う風俗習慣ではなく工業製品を輸入するほうがいいと考えた。 「大都市の群集が純粋な政府の支援にほとんど貢献しないのは,体の痛む箇所が体力を高めないのと同じだ」と彼は書いた。「共和国の活力を維持するのは人びとの習慣と精神だ。習慣と精神の堕落は悪の元凶であり,法と憲法の核心をあっというまに蝕んでしまう」
⑦国内の製造業を育成するか,わが国の農村的性格を維持するかという問題は,建国以来数十年にわたって激論の的となった。結局,農村の意義を重視するジェファソンの考え方は主流とはならなかった。だが,彼の経済学の土台をなす共和主義的な前提,つまり,公共政策は自己統治に必要な品格を育むべきであるという前提は,幅広い支持を受け,長く影響力を保った。独立戦争から南北戦争にいたるまで, この「市民性の政治経済学」はアメリカの国民的な議論において重要な役割を演じた。実のところ,経済論議における市民的な要素は二〇世紀に入っても存在していた。
(マイケル・サンデル著,鬼澤忍訳『公共哲学政治における 道徳を考える』筑摩書房2011年より抜粋。常用漢字表にない漢字には,一部ふりがなをつけた)
(注)トマス・ジェファソン:アメリカ合衆国の政治家。第3代大統領(1801年から1809年 まで在任)
[設問]
A.共和主義的政治理論の自由とは何か。リベラルな自由と対比しながら,300字以内で説明しなさい。
B.たとえば地球温暖化防止対策のように,次世代のために現在のわれわれがコストを払うことは,われわれの自由と矛盾しないのだろうか。課題文の考え方を参考にして,自己統治,道徳などに触れながら,あなたの考えを300字以内で論じなさい。
(2)解答例
[設問]
A.
リベラルな自由は中立的な権利の枠組みを定め,人びとに価値観や目的の選択の自由を保障するのに対し、共和主義的政治理論の自由とは一定の市民道徳の下で人びとが自身の価値観や目的を選ぶ自己統治の分かち合いに支えられている。政治への参加は人びとが個人的目的を追求するために選ぶ手段の一つとして捉えられる。市民の選択の自由を保障し公的な事情に関する知識を共有し帰属意識、全体への関心、運命を左右するコミュニティとの道徳的つながりを構築した上で共通善について市民と議論して政治共同体の方針を決定する。共和主義的な自由の条件として形成的政治、自己統治に必要な特性を国民のなかに培うことが挙げられる。(290字)
B.
共和主義的自由主者はコミュニティの維持に政治的関心の主眼を置き、リベラル派が推進する地球環境問題対策のコストを支払うことを拒否する傾向にある。
環境問題で共和派の協力を仰ぐには、狭い地域の閉じた社会ではなく、開かれた地球市民の1人としての帰属意識を促す必要がある。ひとたび台風の猛威に晒されれば、コミュニティは破壊され莫大なコストがかかる。この事実をもってすれば意識の変革は可能である。それには地球温暖化について市民間で情報を共有することが前提となる。この問題への関心を高め、自己統治の原理でボトムアップにより国民間で環境倫理を形成することが成功すればコスト問題も解決できると考える。(299字)
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