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【メリトクラシー】慶應義塾大学文学部2019年

(1)問題

次の文章を読み、設問に答えなさい。

① では、どのような議論が他にありうるのだろうか。メリトクラシーが進展しているのか幻想なのかについてなんらかの形で白黒つけるためには、メリトクラシーというものが一つのベクトルを持つものとしてまとまった形で存在することが仮定されなければならない。しかし、社会で求められる能力の多様な形を許容するという(筆者にいわせればごく自然な)スタンスに立つならば、もはやそのような単純な議論には戻れないということになる。そして、第1章でそれぞれの職業に求められる能力が多様であるということをデータからも指摘したように、メリトクラシーの基準が多様であることをいったん前提としてしまうと、そもそも社会全体としてメリトクラシーが進展しているのか幻想なのかと問うこと自体にあまり現実味がなくなってしまうのである。

 ② 誤解のないように再度断っておくが、メリトクラシーの進展ないし幻想という方向性の議論にまったく社会的意味がないわけではない。時にはそうした言説が必要な場面もあるだろう。しかし、それは私に言わせれば、そうした議論自体がメリトクラシーの反省的特質 (再帰性)を示すものではあっても、知的フロンティアを拡張するような議論には感じられないのである。角が立つようであれば、私自身のことだけに限定してもいい。少なくとも私は、このような議論をするのに高度な知的操作が必要だとは感じないのである。

③ 再びわかりやすい例として、学歴による処遇の差異を考えてみよう。例えば、階級や民族、性別や年齢といった属性(つまり本人の意思によって事後的に変更できない性質)によって収入や昇進の処遇に差異をつけることは近代以降の社会では基本的に差別や不平等の典型的な議論を引き起こす。「あなたは日本人だからアメリカ人より時給が低いです」と言われたら、 ほとんどの人はこれを差別と考えるだろう。そして、このような会社に対して能力主義的な経営を行なっているとはみなさないだろう。これと比べるならば、学歴別処遇は相対的にはメリトクラシーだと見ることもできる。なぜなら、学歴は本人の努力によって事後的に獲得できる業績主義的な指標だと考えられており、また職務遂行能力と(強い相関ではないにしても) まったく無関係とはいえない知的操作能力の一端を示している可能性は捨てきれないからである。したがって、相対的には、学歴主義はメリトクラティックだといいうる場面がある。

④しかし一方で、日本の学歴社会批判に見られるように、職務遂行能力を職業ごとに詳細に見た場合には、学歴という基準はそれとは必ずしも直接的に関係ないことのほうがむしろ多いかもしれない。こうした点に着目すれば、 学歴によって処遇に差異を設けることは、それが真のメリトクラシーを歪めているとする見方をとることもできる。

④ このように考えてみると、ある現象なり、ある社会体制なりをメリトクラシー基準によって評価する場合には、どこに軸足をおいて考えるかによって結論が正反対になる可能性がいくらでもあるということである。もう一つ踏み込んでいわせてもらえれば、まったく同じ現象を取り上げていても、ある基準では「これはメリトクラティックだ」と断じ、別の基準ではあれはメリトクラティックではない」と、我々はやろうと思えばいつでも、論じることかできるのだ。それはメリトクラシーの基準が多様であること、そしてそれらがおおむね同じ方向を向いた基準になっているという無理な仮定をおかないことを前提とするならば、論理必然的にそうなるのである。つまり、メリトクラシーの進展を主張する議論に対して、別のメリトクラシー基準を持ちだせばいつでもその幻想性を描くことができる。逆も同じである。すべてにおいてメリトクラティッ クな(あるいは非メリトクラティックな)状況が成立していない限り。

⑤ ここまで 論じてくれば、「メリトクラシーが進展しているのか幻想なのか」と論じる議論の素朴さは明らかだろう。社会全体としてメリトクラシーが進展しているのか幻想なのかを問題にしたところで、それはまったくリアリティを欠いた議論のように、私には思われるのである。では我々はどのようなスタンスに立つべきだろうか。

⑥ わたしたちは、メリトクラシーの基準をアプリオリに画一的に設定し、それへの到達度を考察するような思考から少し距離をとってみる必要がある。能力を評価する基準は基本的に文脈依存的なのだと考えてみよう。そしてその文脈こそが、我々がイメージする「能力」そのものを構成する重要な要素だと考えてみるのである。

 ⑦ 実はこのようなスタンスで 能力主義に関する考え方に重要な問題提起を行なった学者がいる。アメリカの社会学者、ジェームズ・ローゼンバウム(James Rosenbaum)である。

⑧ローゼンバウムは、実は教育研究だけではなく労働研究でも知る人ぞ知る社会学者である。それは、彼が企業内昇進の研究を行なうなかで昇進構造の「トーナメントモデル」を提示した実績を持つためである。このローゼンバウムモデルを参照して日本でも企業内の昇進構造の実証研究が行なわれたこともある。

 ⑨ トーナメントモデルとは、企業内の昇進の過程で、いったん昇進競争から遅れを取ると、
以後は競争から除かれ、勝ち上がった人たちの中で次の昇進競争が行なわれる、という昇進パターンを示すものである。それがあたかもスポーツ競技のトーナメント戦のような様相であることから、その名がついている。

⑩ しかし、このトーナメントモデルは、企業内昇進構造のパターンを示しているだけではなく能力論にも示唆的な内容を持っている。というのも、このトーナメント型昇進構造は、トーナメントで敗れた場合、その人物の能力を「そこまで」という形で定義づけるメカニズムも内包しているからである。

 ⑪ 具体的に考えよう。ある会社で新入社員のほとんどが入社五年目で主任に昇格していたとしよう。その場合、一部に主任にならなかった平社員がいる。彼らは低い能力評価を受けて昇進ができなかったのかもしれないし、またなにか別の理由があったのかもしれないが、ここではそれはどちらでもいい。それよりも、ここで遅れてしまった人が主任の次の係長への昇進競争で追いつくことがきわめて難しい構造になっている場合に付与される意味こそが、トーナメントモデルのミソである。つまり、その後彼らがどれほど努力しても、またそれまで示していなかった潜在能力を開花させても、はたまた営業成績を上げたとしても、次の競争に参加できにくい構造であるならば、それは彼らの能力の上限が前のトーナメントの時点で構造的に定義づけられてしまっていることとほぼ同じなのである。「あの人は、いまは頑張っているけど前回昇進できなかったということはやはり何か劣っているところがあるのだろう」といった形で、トーナメントの結果が その人の能力の値踏みに使われてしまう。言い換えれば、トーナメントの構造が能力の定義を事後的に作り出してしまうということなのである。「能力の社会的構成」。ローゼンバウムはその現象をこのように命名した (Rosenbaum1986)。

⑫ この能力の社会的構成説を日本で大いに紹介し、自ら日本のケースに適用する研究を行なって独自のメリトクラシー論を展開した研究がある。竹内洋の『日本のメリトクラシー』(1995)である。今ここで語った「能力の社会的構成」の議論も、実は竹内の議論を自分なりに解釈しなおして再構成したといつても言い過ぎではない。能力の社会的構成説について知りたい読者は、竹内のこの著作もあわせてご覧いただくことをお勧めする。それはさておき、竹内の著書の中で、ローゼンバウムに関する非常に興味深いエピソードが紹介されている。それは次のようなものである。

ローゼンバウム教授は一九九〇年に来日し、東京大学や京都大学などで講演会を開いた。かれの増幅効果論や能力の社会的構成論は日本の教育関係者や教育社会学者に大きな関心をよんだ。彼自身が「欧米では私の論説はマイナーな議論なのに、日本ではどうして大きな興味をもたれるのだろうか」と驚いたくらいである。増幅効果論や能力の社会的構成論が、日本社会におけるメリトクラシーの疑惑の背後仮説とマッチングしたからである。
(竹内1995、二三九頁)

⑬ 竹内の指摘の通り、日本では竹内の紹介もあって広く知られている「能力の社会的構成」という概念も、英語で(social construction of ability)で検索してみると、ローゼンバウム本人の論文以外で彼の能力の社会的構成説に言及する研究論文にはなかなか行き当らない。つまり、同じ「 能力の社会的構成」ないしはそれに類似した用語を使っていても、ローゼンバウムを引用していないのである。これはローゼンバウム自身がいうとおり、彼の議論が「マイナー」扱いされていることを示している。なぜだろうか。

⑭ 竹内は、この点について、「階級やホワイト/ノン・ ホワイトに帰属されるメリトクラシーの疑惑という欧米の社会学者の背後仮説とずれてしまう」(同書、二三八〜二二九頁)ことに原因を求めている。つまり、さきほど本章で批判したメリトクラシー幻想論のパターン、つまり画一的メリ トクラシー基準からみて階級などのバイアスがかかるがゆえにメリトクラシーが幻想となっているという、やや言い方は悪いがお決まりの方向性の結論を得意とする欧米社会学者にとって、能力の社会的構成説は、使いにくい説だということなのである。しかし、竹内がまさに実践して見せたように、階級や人種問題のリアリティが欧米との比較で言えばかなり薄い日本においては、むしろリアルな説として受け止めることができるのである。

⑮ 竹内は、 ローゼンバウムの説が適合する土壌として、学歴主義に対するまなざしに注目する。「イギリスの教育社会学者が階級固着だとすれば、日本の教育社会学者は学歴固着」(同書、一一四〇頁)であるという。しかし、この学歴主義こそ、いったん学歴獲得競争で勝ち上がったものに対して能力の下限を定義し、その後の就職活動や昇進競争という(入試競争とはずれた場面で)「真の実力」以上の過剰な能力評価が与えられるという利得増幅効果を生み出す当のものなのである。トーナメントモデルが適合的な事例は日本の学歴主義なのである。

⑯ ただし、学歴が自動的に「能力」を社会的に構成していくわけではない。コンテクストが「能力」の概念に不可分に結びついているのが能力の社会的構成説であることを、再確認しよう。

⑰ 日本において学歴が能力の指標として特に利得増幅を促すにはいくつか条件――コンテクストが重要である。第一に、学歴獲得過程は広く開かれていなければならないということである。能力を社会的に構成するシステムの側から見れば、できれば全員参加が望ましい。というのも、レースに参加しておいて、負けた時だけ結果を受け入れないのだという態度を貫徹できる人はおそらくきわめて少ないからである。レースに参加することは、レースの結果を受け入れることと密接に関連する。その意味で、教育拡大=進学率の上昇は、この学歴の信ぴょう性を高める一つの条件となる。

 ⑱しかし、それだけでは学歴は能力に昇格できない。それは、学歴獲得のプロセスが能力測定手続きとしてその社会にとって説得的なものになっていなければならないのである。日本や多くの東アジア諸国における学歴獲得過程において特に目立つ方式だが、全員一斉実施による学力筆記試験には、科学実験のような論理が埋め込まれている。つまり、まったく同じ問題を、まったく同じ時間に行ない、その他の一切の条件を考慮せずに平等に実施する試験での得点差は、 他の条件をすべてコントロールしたうえで、 条件を一つだけ変えて行なわれる比較実験の結果の違いによく似ているのである。そのため、科挙のように少々試験問題の内容自体に問題があったとしても、結果は社会に受け入れられやすいものとなる。もちろん、測定される内容がその社会にとって重要なものとみなされているものなら、さらに学歴によるメリトクラシーは説得的なものになるだろう。

 ⑲このように、多くの者が競争に参加をし、その社会に説得的な方法と内容で正当性が獲得されるならば、学歴主義は暫定的なメリトクラシーの基準として社会的に受け入れられるのであり、いったん社会的に受け入れられた選抜の結果は、その文脈を外れても一定の効力を発揮する。その意味で、学歴主義は、まさに能力の社会的構成の好例だといえるのである。

⑳以上のように、能力が社会的に構成されるという見方は、シンプルで一次元的な従来の社会学的能力論――すなわち、理想的に機会が開放された 選抜を基準点とした能力論――から一歩外に踏み出した、チャレンジングな能力論である。この観点からさまざまな能力を見てみると、より一層、能力主義と社会の関連が気になってくるはずである。

㉑ここで、第2章で例示した諸能力に関して、「社会」がそれを枠づけ、 定義づける側面を意識してみるとわかりやすいだろう。

㉒ 第2章でまず取りあげたのは、コミュニケーション能力であった。しかし、これも貴戸が指摘したように、関係性において立ち現れる性格のものであるならば、まさにどのような関係のなかで発揮されるコミュニケーションを測定しようとするのかということが本来必要である。しかし、そうした手続きを経ずになんとなく社会のなかで抽象的に、コミュニケーション能力が必要なのかどうか、多いか少ないか、という一次元的な思考で議論しがちであるということ自体が、コミュニケーションをそのようなものとして定義しているということであり、きわめて社会的である。私たちはそのような、茫漠としたコミュニケーションに関する能力を「コミュニケーション能力」として社会的に定義し、社会的に重要な位置づけを与えつつある、とみることができるだろう。

(中村高康『暴走する能力主義――教育と現代社会の病理』より)

注1能力主義。能力に基づいて選抜された人に高い社会的地位が配分されることを基本原理とする体制。

設問I この文章を三〇〇字以上三六〇字以内で要約しなさい。

設間Ⅱ 「能力」について、この文章をふまえて、あなたの考えを三二〇字以上四〇〇字以内で述べなさい。



(2)要約のコツ

要約のコツはいくつかあるが、ここでは小見出しをつけて、大きな論の流れを整理するという方法を採る。

下記の(1)~(4)は小見出しにあたる。

今回は詳しく箇条書きにしたが、入試本番では、ざっくりと重要なところには線を引いて(箇条書きの部分)、小見出しは参考文の上にメモ書きするとよい。

(1) 社会で求められる能力の多様性とメリトクラシー

・メリトクラシーが進展しているのか幻想なのかについて結論づけるためには、メリトクラシーというものが一つの方向性を持つものとして仮定されなければならないが、社会で求められる能力は多様であるという立場を前提とするとしてメリトクラシーが進展しているのか幻想なのかと問うことに現実味がない。

・本人の意思によって事後的に変更できない属性によって収入や昇進の処遇に差異をつけることは差別や不平等であるが、学歴別処遇は本人の努力によって事後的に獲得できる業績主義的な指標だと考えられており、職務遂行能力と関係する知的操作能力の一端を示している可能性があるので相対的にはメリトクラシーだと見ることもできる。

・しかし職務遂行能力を職業ごとに詳細に見た場合には、学歴という基準はそれとは必ずしも直接的に関係ないことのほうがむしろ多いので学歴によって処遇に差異を設けることは、真のメリトクラシーを歪めているとする見方をとることもできる。

・メリトクラシーの基準が多様であること、そしてそれらがおおむね同じ方向を向いた基準になっているという仮定をおかないとするある現象や社会体制なりをメリトクラシー基準によって評価する場合には、どこに軸足をおいて考えるかによって結論が正反対になる可能性がある。

・社会全体としてメリトクラシーが進展しているのか幻想なのかの議論はリアリティを欠いているので、我々はどのようなスタンスに立ってメリトクラシーを考えるべきだろうか

(2)能力の基準は文脈の中でつくられる

・能力を評価する基準は基本的に文脈依存的で文脈こそが、我々がイメージする「能力」そのものを構成する重要な要素だ。

・アメリカの社会学者、ジェームズ・ローゼンバウムはこのような立場で能力主義に関する考え方に重要な問題提起を行なった。

・彼は企業内での昇進構造の「トーナメントモデル」を提示した。

・「トーナメントモデルとは、企業内の昇進の過程で、いったん昇進競争から遅れを取ると、以後は競争から除かれ、勝ち上がった人たちの中で次の昇進競争が行なわれる、という昇進パターンを示すもの。」

・トーナメント型昇進構造は、トーナメントで敗れた場合、その人物の能力を「そこまで」という形で定義づけるメカニズムも内包しているからこのモデルは、企業内昇進構造のパターンを示しているだけではなく能力論にも示唆的な内容を持っている。

 ・トーナメントの構造が能力の定義を事後的に作り出してしまうことを「能力の社会的構成」という。

・画一的メリトクラシー基準からみて階級などのバイアスがかかるがゆえにメリトクラシーが幻想となっているという方向性で結論づける欧米社会学者にとって、能力の社会的構成説は、使いにくい説であるが、階級や人種問題のリアリティが欧米より薄い日本においては、むしろリアルな説として受け止めることができる。

(3)日本の学歴主義がトーナメントモデルで説明できる。

・竹内は、 ローゼンバウムの説が適合する土壌として、学歴主義に対するまなざしに注目する。「イギリスの教育社会学者が階級固着だとすれば、日本の教育社会学者は学歴固着」(同書、一一四〇頁)であるという。しかし、この学歴主義こそ、いったん学歴獲得競争で勝ち上がったものに対して能力の下限を定義し、その後の就職活動や昇進競争という(入試競争とはずれた場面で)「真の実力」以上の過剰な能力評価が与えられるという利得増幅効果を生み出す当のものなのである。トーナメントモデルが適合的な事例は日本の学歴主義なのである。

・学歴がコンテクストを通じて「能力」に不可分に結びついている。

(4)学歴が能力の指標になる条件・文脈

・日本において学歴が能力の指標になる条件にはコンテクストが重要である。第一に、学歴獲得過程は広く開かれていなければならない。教育拡大=進学率の上昇は、この学歴の信ぴょう性を高める一つの条件となる。

 ・全員一斉実施による学力筆記試験には、科学実験のような論理が埋め込まれている。そのため、学歴獲得のプロセスが能力測定手続きとして結果は社会に受け入れられやすいものとなる。測定される内容がその社会にとって重要なものとみなされているものなら、さらに学歴によるメリトクラシーは説得的なものになる。

 ・多くの者が競争に参加をし、その社会に説得的な方法と内容で正当性が獲得されるならば、学歴主義は暫定的なメリトクラシーの基準として社会的に受け入れられる。その結果は、その文脈を外れても一定の効力を発揮する。その意味で、学歴主義は、能力の社会的構成の好例である。

・能力が社会的に構成されるという見方は、シンプルで一次元的な従来の社会学的能力論(理想的に機会が開放された選抜を基準点とした能力)から一歩外に踏み出した、チャレンジングな能力論である。

・諸能力に関して、「社会」がそれを枠づけ、 定義づける側面がある。

・コミュニケーション能力も関係性において立ち現れる性格のものである。「コミュニケーション能力」として社会的に定義し、社会的に重要な位置づけを与えることが求められる。

スクリーンショット (678)

(3)設問Iの解答例

学歴別処遇は基準が本人の属性ではなく努力など事後的に獲得できる指標であるのでメリトクラシーと見ることもできるが職業や求められる能力の多様性がこれを否定する。一方、ローゼンバウムのモデルでは能力の基準は社会的文脈の中でつくられるとする。これはトーナメントの構造が能力の定義を事後的に作成するという能力の社会的構成の理論で階級や人種問題が少なく学歴を能力の基準とする日本で当てはまる。学歴獲得競争で勝ち上がったものに対して能力の下限を定義しその後の競争で実力以上の過剰な能力評価が与えられる。その条件として学歴獲得過程は広く開かれていること、全員一斉実施の学力筆記試験を採ることで科学的客観性が担保されていることが挙げられる。こうしたコンテクストを通じて学歴が能力に不可分に結びついているという考えが社会的に受け入れられている。(360字)



(4)設問Ⅱの考え方

設問Ⅰの要約を踏まえて考える。

ポイントは2点

①ローゼンバウムのモデルでは能力の基準は社会的文脈の中でつくられる

②学歴獲得競争で勝ち上がったものに対して能力の下限を定義しその後の競争で実力以上の過剰な能力評価が与えられる。

→日本では学歴主義が未だに機能している。その条件は以下の2点

 1)学歴獲得過程は広く開かれている

 2)全員一斉実施の学力筆記試験を採ることで科学的客観性が担保されていること

②は①の社会的文脈(コンテキスト)にあたる。

1)と2)の条件を読むと、これは大学入試センター試験のことを指していることは明らかである。

なぜ、2019年に慶應義塾大学文学部の小論文入試でこの問題を出したかというと、センター試験が2020年で廃止され、新テストの導入が社会的な話題となったからである。

新テストの英語では民間のテスト導入をめぐって議論が起こった。

これは、地域格差や経済的な格差によって、民間テストを受けられる回数に差が生じてしまう。

これは上記の1)の条件、すなわち「教育の機会均等」原則に反するものである。

このような背景を知っていれば、設問Ⅱの答案は容易に書くことができる。

この問題は実は時事問題であった。

慶應義塾大学環境情報学部2021年の問題も「新型コロナウイルス感染拡大」の時事を扱ったものであった。

慶應義塾大学の恐ろしいところは、あからさまに時事ですよ、と書かないで、「わかる人にはわかる」形で何気なく出してくるところだ。

というわけで、慶應義塾大学を受ける人は日ごろから新聞を読んで時事に精通しておくこと。

今はデジタル版で過去の記事も遡って読めるので、そちらの契約をお勧めします。

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