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【国民性という幻想】国際・外国語学部小論文の解法/第1回~SFC受験生も必読


問題の解答例はオンライン個別授業を受講された方にお配りしています。(1)国民国家という幻想

国際・外国語学部で小論文を使う受験生にとって、知っておくべき『常識(以降、『共通理解』と呼ぶ)』がある。

今回から、その『共通理解』をひとつひとつ紹介してゆきたい。

国民性や民族性(ethnicity)にかかわる問題は厄介である。

厄介と書いた理由は、私たちが普通に抱いている「常識」は、きちんとこの問題を考えている人にとっては、『共通理解』から外れるからだ。

どういうことか。

たとえば、「日本民族という単一民族で日本という国は構成されている」という「常識」は間違いである。

北海道には、アイヌという先住民族が住んでおり、かつてはアイヌ語という言語を話し、イオマンテ (iomante) という儀礼を持つ独自の文化を持っていた。

また、日本には在日朝鮮・韓国人の人々が70万人以上(2017年現在)住んでいる。

このような理由で、「日本は単一民族で構成されている」、という「常識」は誤りである。

これは日本だけに限らない。

ほとんどの国の国民は多言語、多民族、多宗教で構成されていて、「ひとつの国家は単一言語、単一民族、単一宗教で構成されている」というのは幻想である。

(2)「日本国民」や「日本語」は明治以降につくられた

「日本には有史以来、『日本国民』が住んでいた」

この言説も同様に幻想である。

近代以前(江戸時代)には、北海道は蝦夷地と呼ばれ、「国を持たない民」であるアイヌの居住の地であり、日本各地には、小独立国家である藩が割拠して、独自の政治・経済を展開していた。

言語もそれぞれの地方の方言があるだけで、統一的な標準語は存在しなかった。

ペリー来航を機に日本は開国し、明治維新を迎えて、明治政府は近代化を邁進した。

明治政府は「単一言語、単一民族、単一宗教」という国民国家の統合原理をもとに近代化を出発させた。

こうした理念の下に、徴兵令(1873年)による国民軍の編成、学制(1872年)という「国民皆学」の精神に基づく公教育の開始、そして失敗したが、明治初年の神道国教化政策によって、政府は「国民」をつくっていった。

「国民」の統合の中心として、選ばれたのが天皇であり、国民は天皇の臣下として大日本帝国憲法の下で、集会結社の自由が法律の留保をつけながら形だけの権利が規定された。

そして、「国民」統合のもうひとつの原理である言語も、「学制」から始まった公教育や徴兵制による軍隊教育によって標準語としての「国語」が整備された。

考えてみよう。

徴兵令で国民皆兵の原則の下で国民軍が形成されたとき、江戸時代以来のバラバラな方言では、兵士ひとりひとりに対して命令が行き渡らない。

標準語を作ることで、命令一下、統一のとれた軍隊が一糸乱れずに動くことで、戦争に勝利することができる。

このような背景により、当初は富国強兵の国是を完遂させるために学校や軍隊で「日本語」教育が施された。

こうした動きにリンクして、新聞・雑誌のメディアの全国的な流通、鉄道をはじめとする交通の発展が、各地域の文化的・地理的距離を縮めて国民統合を加速させ、原文一致体を掲げる文学運動がこれをアシストして、ついには「日本語」を完成させた。

まとめると、「日本国民は有史以来、日本列島に住んでいた」という「常識」は誤りであり、「日本国民は江戸時代以前から『日本語』を話していた」という「常識」も誤りである。

「国民」や「日本語」は明治以降の近代化政策のなかで、人為的(制度的)につくられたものである。

言い換えると、「国民」や「日本語」は制度として創作され、現在も機能している。

ただし、「国民」や「日本語」を静的なイメージで捉えることも誤りで、その境界や領域は常に変化している、という側面も忘れてはならない。

(3)保守とリベラルの対立

保守とリベラルの対立はこの問題を国民性の問題を淵源としている。

歴史と伝統を重んじ、これを守ろうとする保守は、「国民」や「日本語」を安定的に保とうとする。

移民や外国人労働者の導入には、反対の立場を守り、「日本語」の乱れを正そうとする。

一方、リベラルは変化し流動する「国民」や「日本語」を認めるスタンスをとり、在日朝鮮人・韓国人のようなマイノリティーの権利を保障する考えをとることが一般的である(外国人の参政権の導入など)。文化を伝統文化だけでなく若者を中心とするサブカルチャーを含めて認める傾向にあり、オープンマインドの姿勢がみられる。

「国民」や「日本語」に対する自己の思い入れや捉え方の差異から保守・リベラルの違いが生じる。

保守、リベラルのどちらか一方が正しい、間違っているという問題ではない。

入試小論文を書く場合、どちらの立場で書いてもよいが、ロジックを厳密に組み立てることが必須となる。

私はリベラルの立場から書くのが書きやすいと考えており、実際、本音の部分もリベラル寄りと自認している。

一方、保守は「日本の伝統文化は守るべきだ」という頑なな感情論に陥りやすい。きちんと論理的に秩序立てて、事実に基づいて主張を組み立てることができるかがポイントとなるが、個人的には、これはかなり難しいと考える。

なぜなら、「日本の伝統文化」という概念が流動的で、その領域が時代とともに拡大しているから。

保守が伝統と呼んでいるものの歴史は実は新しい。

天皇制は明治22(1889)年の皇室典範により整備され、また天皇家の大嘗祭は(貞享4〈1687〉年)に現在の形に復興された。

※天皇制や大嘗祭が新しいから価値がない、守らなくてもよい、と言っているわけでは決してない。このような結論を入試小論文で書くと(入大学試に限らず)、物議を醸すのは当然だ。

「日本の伝統文化」を時代で区切り、たとえば戦前の文化が日本文化と定義するなら、戦後の文化はすべて認めないのか。

長い目で見れば、戦後の文化(たとえば安藤忠雄の建築やジブリのアニメなど)は、後世に残っていくものと考えられる(国際的な評価も考慮にいれて)。

一方、時代で区切らずに、芸術性で区切る場合には、その線引きには主観が強く働き、恣意的になることを免れない。

(4)受験生は読書を通しての深い学びを

ここまで書いてきたことは、歴史を学んだ私たち(大学入試の採点者も含まれる)にとっての『共通理解』である。

国際・外国語学部を受験する皆さんは、この『常識』を理解し、実感することから学びをスタートさせてもらいたい。

初回から、いきなり高度で難しい議論から始めて、初学の人は頭の中がかなり混乱していることかと思う。

参考図書として以下の本を紹介する。

ぜひ一読を。

『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行 』(ベネディクト アンダーソン 、白石隆・白石さや訳、リブロポート、1987年。)

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『単一民族神話の起源――<日本人>の自画像の系譜』(小熊英二、新曜社 1995年)

『<日本人>の境界――沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮:植民地支配から復帰運動まで』(小熊英二、新曜社 1998年)

※SFC(慶應義塾大学総合政策学部、環境情報学部)受験生は小熊英二の著作に触れておくこと。

(5)問題・京都産業大学外国語学部フランス語専攻(AO入試)


【幻想としての国民性】

次の文章は石井洋二郎『フランス的思考野生の思考者たちの系譜』(中公新書、2010年)の冒頭部分です。これを読んで考えたことを自由に論じなさいただし、わかりやすい文章で、論理的に、千字以上千六百字以内で自分の考えをまとめること。

① 「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走りだす。そしてスペイン人は、走ってしまった後で考える」―こんなフレーズをどこかで耳にした覚えはないだろうか。これは朝日新聞ヨーロッパ特派員であった笠(りゅう)信太郎(一九〇〇―六七)の著書、『ものの見方について」(一九五〇)の冒頭に引かれている文章で、著者によれば、誰が最初にいいだしたのかはわからないが、国際連盟事務局長も務めたスペインの外交官、マドリヤーガが書いた言葉として紹介されている。

②一時期、人口に膾炙(かいしゃ)したこの警句は、ほとんど流行語にもなったせいか、いつのまにかひとり歩きして、さまざまなヴァリエーションを生み出してきた。笠信太郎自身も先の言葉に続けて、「ドイツ人もどこかフランス人に似ていて、考えた後で歩きだす」という一文を付け加えているし、このはかにも引用のヴァージョンによっては「イタリア人は走りながら考える」という一句が加わっていたり、「日本人は誰かが走っていると、その後について走る」というおまけがついていたりすることもある。

③ 最後の例についていえば、確かに「日本人には付和雷同(ふわらいどう)型の人間が多い」という通念はかなり定着しているようで、火災に見舞われた豪華客船の乗客を海に飛び込ませるには「皆さん飛び込んでいますよ」といえばいいという有名なジョークがあることは、知っている人も多かろう。これを聞くと、同じ状況に置かれたら自分もそうするかもしれないとつい納得させられ、思わず苦笑を誘われたりもするのだから、なるほど言い得て妙というべきか。

④ しかし考えてみるまでもなく、この種の類型化にはべつに統計的な裏付けや学問的な根拠があるわけではないし、当然ながらみずから進んで海に飛び込む日本人だっているだろうから、とりあえずは少しばかり誇張しておもしろおかしく味付けをした諷刺程度に受けとめておくのが無難というものだろう。

⑤ ちなみにイギリス人には「紳士は飛び込むものです」、フランス人には「飛び込んではいけません」、ドイツ人には「命令だから飛び込みなさい」、イタリア人には「さっき美女が飛び込んだぞ」といえばいいとされていて、じつによくできたジョークだと感心させられるが、実際にどの言葉に反応して飛び込むか(あるいは飛び込まないか)は、国籍を問わず十人十色にちがいない。そもそも「イギリス人は……」「フランス人は……」のように総称名詞を主語にたてて語られる国民性論議は、漠然とした実感や推測から作られた印象主義的一般論にすぎない場合が大半であり、これを口にする当人たちもそのことを知らないはずはないのだが、にもかかわらずなんとなく事の本質がわかったような気にさせる効果をもつという意味で、くれぐれも注意を要する物言いである。

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(6)考え方

ヒント:「イギリス人は◇◇◇である」「フランス人は〇〇〇である」e.t.c‥‥という言い方はステレオタイプ※的な思考である。

※ステレオタイプ:性別・職業・人種など、特定の対象について社会のなかで広く受容されている,単純で固定的な(判で押したような)観念・イメージのこと。

イギリスを例にとると、イギリスは「イングランド」「ウェールズ」「スコットランド」「北アイルランド」の4つの国によって成り立っている。4つの国はそれぞれ文化や伝統を異にしている。

したがって「イングランド」「ウェールズ」「スコットランド」「北アイルランド」の差異を無視して「イギリス人」という国民性でひとくくりにして考えるのは、まさにステレオタイプ的な思考である。

このような意味で「イギリス人」という実態があるような言説はいわば幻想といっていい。

イギリスの国旗(ユニオンフラッグ)はこの4か国の国旗が合わさって作られたものであることはよく知られている。

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4つの国を統合する象徴として国王(現エリザベス女王)が存在しているのは、日本の天皇制を考える上でも興味深い。

この問題を考える際に、以下の記事を参考にしてください。

問題の解答例はオンライン個別授業を受講された方にお配りしています。

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