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「情報民主主義時代の対話のあり方」大阪市立大学法学部2020年

(1)問題



①  私たちが民主主義を語る場合に,古代ギリシャを参照したくなるのは,それが,ただ民主主義だけではなく,その対として哲学を生み出したからです。面白さは,政治と哲学のその両方を生み出した点にある。ソフィストによって言論の道具にされたギリシャの民主主義は,またソクラテスやプラトンのような哲学者(愛知者=フイロソファー)を生み出したということです。同じ言論のなかから,一方では,言論競技が生み出され,他方では問答法が生み出された。一方は民主政治へと向かい,他方は民主政治への批判へと向かった。

②  ソフィストの,つまり民主主義の基本的な立場は,プロタゴラスのいう「人間中心主義」と,その帰結である「相対主義」です。絶対的な「真理」も絶対的な「善」も存在しない。すると,政治の基準になるのは,人々の欲望であり,利益であり,快楽である,ということになる。それを公共的な場で表明し,相互に自説を述べ,討議を戦わせるのが民主主義だということになります。

③  これに対して,ソクラテスのような批判者は,絶対的な「真理」や「善」を想定しないと,民主政治はどんどん堕落していく,と言った。人々の「欲望」や「快楽」より上に「善」というものを想定しておかないと,政治は,人々の欲望や快楽の奴隷になってしまうだろう。これでは本当に「善い」社会など実現できないだろう,というわけです。

④  私は,「ソフィスト」というものが全面的に悪いものだ,というつもりはありません。絶対的なものを知りえない,という人間の宿命から出発している限り,私たちは多かれ少なかれ,ソフィストたらざるをえません。「人間中心主義」も「相対主義」も私たちの宿命だともいえるでしょう。

⑤  しかし,だからといって,「人間中心主義」と「相対主義」に居直ってしまったソフィストに与するわけにはいきません。「真なるもの」も「善き社会」も,どうせこの世にそんなものはないのだから,デマでも何でも述べて,みんながとりあえず喜びそうなことをいって,権力を握るのが政治というものだ。力こそが政治であり,力を持つことこそが幸福だ。そういうことになってはどうにもなりません。

⑥  ところが,日本をはじめ今日の世界は,まさにソフィストの時代になってしまいました。ギリシャのポリスから,ソクラテスとプラトンを除いた世界が,現代の民主主義です。かつてのギリシャには,この両方があったのです。しかし,私たちは,現に目の前にあるものしか考えず,それを超えた何かを想像できなくなってしまっています。現に自分が経験したもの,現にここで実現する自分の利益,現にここにあるルサンチマン(注1)的感情,そういうものにしか反応しなくなっています。

  この状況は恐ろしいことです。ロゴス,つまり,理性的なものに支えられた言葉とは,この「現にここにあるもの」「現に目に見え,感覚で感じるもの」を超えたものなのです。それを超えたところに,多少は絶対に近いものを想像する手段がロゴスであり,私たちがロゴスを持っているとは,目の前の経験に惑わされない,ということなのです。

  しかし,現実には,私たちは,この意味でのロゴスからますます遠ざかり,目に見える現実しか見なくなっています。しかも今日の実証主義や成果主義がますますその方向に拍車をかけている。

  20世紀の科学は,仮説を事実と照合する,一種の実証科学になってしまったがゆえに,目の前に見えるものしか信じられなくなってしまった。事実の向こうにある真理を,現代の科学は問題にできなくなってしまいました。21世紀までくると,この実証主義の精神は,もはやそれ自体が絶対化されてしまい。統計数字になるように測定でき,目に見えてわかりやすいものだけが信じられ,それが政治を動かすようになりました。

⑩  たとえば,GDPが上がった下がった,経済成長率が目標通り達成されたかどうか,犯罪率が上昇した,あるいは学力の国際順位が上昇した……といった,きわめて単純化され,わかりやすく提示される統計数字だけが政治の目標になりつつある。

⑪  これも「相対主義」の結果なのです。「相対主義」にたてば,価値観は人によって違っていて相対的ですから,みんなを納得させようとするとわかりやすい統計数字に頼るほかなくなってしまうでしょう。そしてひとたび相対主義を徹底すれば,わかりやすい統計数字を掲げて,その数値を改善するという成果主義だけが「公共的」になってしまうのです。20世紀以来の実証主義がこうさせてしまったのです。

⑫  (1)科学と政治という一見,無関係なもののようですが,実は,実証主義と民主主義の間には切っても切れない深い関係があるのです。確かに,現代では,真実や真理を容易には想定できなくなってしまいました。だからこそ,今日必要なことは。ある種の謙虚さを持つことでしょう。ギリシャ人が神の前にもっとも恐れたのは人間の驕(おご)りでした。人間の限界に対する謙虚さや反省を失ってしまえば,民主主義もリベラルな言説(表現の自由)も急速に混乱し,その混沌からは簡単には抜け出せなくなってしまうのです。

⑬  私が民主主義というものに対して,強い違和感をもつのは,それがあまりに「参加」を強調するからです。「公共的な討議」などというものがあまりに強調されるからです。

⑭  戦後日本は民主化され,民主主義は戦後教育の大きな課題になりました。戦後の小学校ではいわゆる「学級民主主義」などといわれるものが行われました。先生が「クラスはみんなのものですね。みんなで物事を決めましょう。学級委員もみんなで選挙で選びましょう。何か意見のある人は自由に発言してください。これが民主主義ですよ」という。

⑮  こういう話を聞くと,特別に天邪鬼(あまのじゃく)というわけではない私でさえも,ついこう思ってしまいます。よくいうよ。みんなで物事を決めましょう,なんていいながら,実際には,授業科目も授業時間もみんな決まっているじゃあないか。そんなことをいうのなら,みんなの決定で算数は廃止にできるのですか。それに,自由に発言してくださいといったって,発言するだけでほとんど無視されてしまうだけじゃないの? だいたい,みんなで,みんなで,というのが何だかインチキ臭いなぁ――というような次第です。

⑯  要するに,さして参加もしたくない学級会や討論会などというものに,無理やり参加させられているようなものなのです。おまけに,そういう場では,いかにももっともらしいことをいう者や,いかにも賢くて何でも知っていそうな者や,あるいは,口からでまかせにうまいことをベラベラしゃべる者の意見がいつも通るのです。

⑰  ということは。そもそも,こういう「公共的空間」に参加したくない者の意思は最初から無視されていることになります。そして,「ボクはこんな議論に参加したくない」などというわけにはいきません。これでは「民主主義」が成り立ちません。この「参加拒否」は反・民主主義なのです。

⑱  しかし,いくら自由に発言してくださいといわれても,「今度,学級委員になったあいつはアホと違うのか」などと,まさか公共の場で「本心」をしゃべるわけにはいかないのです。別に「あいつはアホだ」ということが「哲学的真理」だなどというつもりはありませんが,もしかしたら,ささやかな「真理」かもしれません。しかし,「そもそも学級委員とは何なのか,どういう人物がその任務にふさわしいのか。そしてアホとはどういうことか」といった話は公共の討議の場ではできません。しかし,もう少し私的な空間では可能です。こういう空間では,このささやかな「真理」を検討することは可能なのです。

⑲  学級会民主主義はいささか素朴過ぎる例でしょうが,これは民主政治の本質を示しているともいえる。もう少し一般的にいえば,(2)哲学的な真理を求めるような空間の存在が,相対主義の存在を乗り越える一つの方法である。ということなのです。これこそ私がずっと述べてきたことです。ではそれは具体的にはどんなことを言っているのでしょうか。

⑳  かつては,学校がそういう場だと思われていました。特に大学は,です。しかし,今日,大学にそれを期待するのは難しい。とすればやはり,ソクラテスが言ったように,対話を通じて,お互いを理解していくことが可能なような場を意図的に確保しておくしかないでしょう。人間は,少人数の対話を通じてこそ,初めて自分の言いたいことが言え,相手の言葉を理解できます。しかし,それは非常に時間のかかることです。相互の信頼がなければ,人は本当のことを話せません。少人数で対話を重ね,それを地道に積み重ねていくしかありません。対話は相手を説得するためにあるのではなく,自分をよりよく了解し,自分自身も変えていくためにある。こうしたプロセスが,人間を多少は真理へと近づけていくだろうということです。

21  対話自体に意味があると思えることが大事なのです。だから,この意味での対話は,必ずしも「理性的」というものではありません。それよりも「倫理的」といった方がよいかもしれません。「対話のエートス(注2)」とでもいいたいものです。対話によって,人格的に少しはましになってゆく,昨日よりは少しはましな人間になれるという思いを共有した対話ということなのです。

22  ところが,実は,まともな対話が成立するためには,他者も必要ですが,「孤独」も必要なのです。対話には他者とともにすごす時間が必要です。しかし,人間は一人にならないと,ものを考えません。

23  ところが,個人主義の時代などといいながら,実は,現代社会において,人間が孤独になることはものすごく難しいのです。テレビ,インターネット・スマートフォンなどによって,つねにわれわれは情報のなかにおかれ,情報は常に,われわれを社会につなげ,誰かとつないでしまっている。情報機器や情報の渦から自由であることはたいへんに難しい。このなかで本当に一人になることはたいへんに難しい。だけれど不可欠なことです。

24  ところが,あろうことか,今日の民主主義は「情報民主主義」になってしまっていて,可能な限り情報に接し,情報的に社会や他人とつながっていることが要求されるのです。中には,ツイッターなどのSNSこそが,今日の社会で民主主義を実現するなどというトンデモナイことをいう人もでてきます。情報機器を通せば,「みんなが参加」が可能となるからです。テレビの報道番組なども,ニュースと同時進行的にツイッターの書き込みなどが紹介されて,いかにも「参加」している風情になっていますが,本当に必要なのは,この種の「参加」から一度身を引く「脱参加」の方ではないでしょうか。

(出典:佐伯啓思「さらば,民主主義―憲法と日本社会を問いなおす』朝日新聞出版,2017年。ただし,引用にあたって一部の表記を省略し,一部を変更した。

※以下の注は,出題に際して付加したものである。
(注1)ルサンチマン:怨恨・憎悪・嫉妬などの感情が反復され内攻して心に積もっている状態。
(注2)エートス:ある民族や社会集団にゆきわたっている道徳的な慣習・行動の規範。
 
問1     太字(1)に「科学と政治という一見,無関係なもののようですが,実は,実証主義と民主主義の間には切っても切れない深い関係があるのです。」とあるが,筆者はなぜそう考えるのか,300字程度で述べよ。

問2     太字(2)に「哲学的な真理を求めるような空間の存在が,相対主義の政治を乗り越える一つの方法である」とあるが,このような見方に対するあなた自身の考えを500字 程度で述べよ。
 

(2)考え方


問1

以下、重要な論点ごとに見出しをつけて参考文の論旨をまとめる。


 ●民主主義の基本的な立場

・「人間中心主義」と,その帰結である「相対主義」②

・人々の欲望であり,利益であり,快楽が政治の基準になる。それを公共的な場で表明し,相互に自説を述べ,討議を戦わせるのが民主主義だということになる。②

●民主主義の批判者としての哲学

・古代ギリシャにはソクラテスのような哲学者が絶対的な「真理」や「善」を想定しない

と民主政治はどんどん堕落していくと批判した。人々の「欲望」や「快楽」より上に「善」というものを想定しておかないと,政治は,人々の欲望や快楽の奴隷になり,「善い」社会は実現できないだろう,と言った。③

●今日の政治

・日本をはじめ今日の世界は,批判者としての哲学を欠き,目の前にある自分の利益やルサンチマン的感情にしか反応しなくなる民主主義だけになった。⑥

●ロゴスとは

・理性的なものに支えられた言葉は,「現にここにあるもの」「現に目に見え,感覚で感じるもの」を超えたもので、そこに,多少は絶対に近いものを想像する手段がロゴスであり,ロゴスを持っているとは,目の前の経験に惑わされない,ということ。⑦

●ロゴスの欠如の結果としての実証主義や成果主義

・しかし,現実にはロゴスから遠ざかり,目に見える現実しか見なくなっている。⑧

・しかも今日の実証主義や成果主義がますますその方向に拍車をかけている。⑧

・20世紀の科学は,仮説を事実と照合する,実証科学になってしまったがゆえに,目の前に見えるものしか信じられなくなった。事実の向こうにある真理を,現代の科学は問題にできなくなった。⑨

●実証主義と政治

・21世紀には実証主義自体が絶対化されてしまい,統計数字になるように測定でき,目に見えてわかりやすいものだけが信じられ,それが政治を動かすようになった。⑨

・「相対主義」の下で人々を納得させようとするとわかりやすい統計数字に頼るほかなくなる。そして相対主義を徹底すれば,わかりやすい統計数字を掲げて,その数値を改善するという成果主義だけが「公共的」になってしまう。20世紀以来の実証主義がこうさせてしまった。⑪

問2

対話と孤独がキーワード。

対話と孤独を確保する手段として読書を挙げて考える。

(3)解答例


問1

日本をはじめ今日の世界はロゴスに基づく批判者として絶対的な「真理」や「善」を想定する哲学を欠き、目に見える自分の利益やルサンチマン的感情にしか反応しなくなる相対主義の民主主義だけになった。一方、20世紀の科学は事実の向こうにある真理を問題にできず、仮説を事実と照合する実証科学が絶対化された結果、統計数字になるように測定でき目に見えてわかりやすいものだけが信じられるようになった。相対主義の下で人々を納得させようとすると、目に見えてわかりやすい統計数字を掲げてその数値を改善するという成果主義だけが「公共的」になり、こうした20世紀以来の実証主義が民主主義の政治を支える基本的な考え方になった。(295字)
 
問2

 現代はS N Sの発達により人々は常に誰かと繋がっていなければ安心できないようになった。S N Sには人々の言葉が多く行き交っているが、そこには独り言であるか、承認欲求を満たすための「映える」写真やキャッチ―で過激なフレーズが溢れている。ロゴスを極めて真理を追究する対話はそこには存在しない。

 対話の前提として孤独になって物事を突き詰めて考える場が必要である。この空間は読書において他にない。読書は読みながら自問自答し読者と著者の間でロゴスの応答を繰り返す。こうした意味で対話の基礎力を高める。

 現代の政治は人々の感情や利権を中心に動いている。その結果、理性的な判断は遠ざけられ、少数意見は押さえつけられている。多数決が民主主義、とばかりに数の横暴が幅を利かせ、絶対的な「真理」や「善」は冷笑の彼方に葬り去られている。

 政治の基礎には、きちんと理性でものを考え、感情や欲得に惑わされずに公共の利益を実現する自立した個人が要請される。このような主体を涵養するためには、読書を通して自分の頭でものを考える姿勢を身に着けることから始まる。以上の論考から、現代社会における読書の重要性を指摘したい。(496字)

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「情報民主主義時代の対話のあり方」大阪市立大学法学部2020年 解答例
 
問1
日本をはじめ今日の世界はロゴスに基づく批判者として絶対的な「真理」や「善」を想定する哲学を欠き、目に見える自分の利益やルサンチマン的感情にしか反応しなくなる相対主義の民主主義だけになった。一方、20世紀の科学は事実の向こうにある真理を問題にできず、仮説を事実と照合する実証科学が絶対化された結果、統計数字になるように測定でき目に見えてわかりやすいものだけが信じられるようになった。相対主義の下で人々を納得させようとすると、目に見えてわかりやすい統計数字を掲げてその数値を改善するという成果主義だけが「公共的」になり、こうした20世紀以来の実証主義が民主主義の政治を支える基本的な考え方になった。(295字)
 
問2
現代はS N Sの発達により人々は常に誰かと繋がっていなければ安心できないようになった。S N Sには人々の言葉が多く行き交っているが、そこには独り言であるか、承認欲求を満たすための「映える」写真やキャッチ―で過激なフレーズが溢れている。ロゴスを極めて真理を追究する対話はそこには存在しない。
対話の前提として孤独になって物事を突き詰めて考える場が必要である。この空間は読書において他にない。読書は読みながら自問自答し読者と著者の間でロゴスの応答を繰り返す。こうした意味で対話の基礎力を高める。
現代の政治は人々の感情や利権を中心に動いている。その結果、理性的な判断は遠ざけられ、少数意見は押さえつけられている。多数決が民主主義、とばかりに数の横暴が幅を利かせ、絶対的な「真理」や「善」は冷笑の彼方に葬り去られている。
政治の基礎には、きちんと理性でものを考え、感情や欲得に惑わされずに公共の利益を実現する自立した個人が要請される。このような主体を涵養するためには、読書を通して自分の頭でものを考える姿勢を身に着けることから始まる。以上の論考から、現代社会における読書の重要性を指摘したい。(496字)
 

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