「努力」について考える
学校の先生は生徒に次のような言葉で教え諭す。
「何事も努力は必要だ、努力しなければいけない」
「努力しなければ成果が得られない」
「努力は裏切らない」
この言説自体は決して間違いではない。
進捗の芳しくない生徒に対して、私はこの言葉を吐きそうになるが、その前にグイと飲み込む。
「努力しなければいけない」は反論しようのない正論に聞こえる。
だが、この言葉には息苦しさを覚える。
言われた側に立ってみると、「努力すること」を「正義」のように教師に振り回されると、反発したくもなる。
だから、私はあえて「努力しなければいけない」を口にしない。
自分のことを書く。
私は昔から文章を書くのが好きで、詩や小説などを書いて受験雑誌の「蛍雪時代」や「現代詩手帳」に投稿し、掲載されもした。
「小説すばる」に投稿して一次選考を通過したこともある。
こうした経験が現在の仕事につながっている。
私は小論文の授業教材は市販の参考書や勤務している予備校で作成したものに頼らずに、ほとんど自前で作成している。
そして、私が受け持った生徒の多くが第一志望校に合格している。
数えたことはないが、合格率は50%を優に超えている。
これは世間で言うところの「努力」に当たるものになるかもしれない。
しかし、意識の上では、私はこれまで努力していると感じたことはない。
小論文の解答例にしても何にしても、私は題材に向かうときには、ただひたすら夢中になって、労力を惜しまずに文章を書いている。
「努力」とは、あとになって成果が表れ結実したときに、「あの人は努力したから(入試に合格するなど)成功した」と後付けで語られるものだ。
初めから興味のないもの、嫌いなものを無理に強制して「努力」し、猛勉強で克服しようとしても、うまくいかない。
親や教師が子どもたちに向き合うときに大切なことは、子どもが興味を持てるものを一緒に見つける、初めは子どもが興味や関心のないことでも、面白いと思える何かにぶつかるきっかけ作りを供にすることではないだろうか。
いったん興味を持ち始め夢中になれれば、成果はメキメキをついてくる。
小論文の授業も同じだ。
決して努力を強制しない。
生徒にいろいろと話題を振って、自ら興味を持って考えさせるとっかかりを模索する。
私の授業はそのための対話重視を特徴としている。
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