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「キャラかぶりと自分の居場所」(新潟大学・教育人間科学)

(1)問題

次の文章を読み、後の問に答えなさい。

①今年度から、大阪府下のある公立高校で「哲学」の授業を始めた。わたしの所属する大学の臨床哲学研究室のスタッフや大学院生がリレーでおこなうもので、そのはじめの二回をわたしが担当した。

②「哲学」の授業といっても、かつての「倫社」のように、古今東西の思想の歴史を教えるわけではない。ふだんなにげなくやっていることにはたしてどんな意味があるかをあらためて考えてみる、くらいののりで、毎回じっくり議論したいとおもっており、まず最初は「挨拶」と「着る」を取りあげた。議論の内容はここではさておいて 、授業のあと、「なんか『しゃべり場』みたいやなあ」という苦笑いが生徒たちのひとりから漏れた。どきっとした。それはじつはわたしの苦手な番組だったからだ。

③「朝まで生テレビ」をはじめとする識者の討論番組のほかに 、最近は視聴者主体の討論番組がよく話題になる。討論番組とは言いにくいが明石家さんまが主宰する「恋の空騒ぎ(NTV)のほかに、全国の中高生が 集う「しゃべり場」(NHK教育 、同世代のひととともに中高年もよく観ているらしい。最近は「道場破り」も音楽とともに途中入場して、い よいよ「フードファィター 」のようにショー化している。それとともに、わたしのまわりでは「しゃべり場」はなんか不快で、すぐに他のチャンネルに変えるという人も増えている。わたし自身もはじめの頃はじぶんの身のまわりにいない世代の声がなまで聞けるとどきど き観ていたのだが、最近は胸苦しくてすぐにチャンネルを変える。

④いつ頃からか、「キャラ」という言葉をしばしば耳にするようになった。言うまでもなくキャラクターの略で、たとえば人を指して「キャラが薄い」 というような言い方をする。存在感に乏しいという意味らしいのだが、ひとつ気になる言い回しがあって、それは「キャラがかぶる」というものである。テレビのショー 番組であれ、実際の人間関係においてで あれ、ひとつの場に同じタイプの人物が二人いるときにそう言う。

⑤これはあきらかにディレクターの眼である。ディレクターの眼で、周囲を見回し、そして 他人のキャラクターとのバランスで、じぶんのあるべきキャラクターを確認する。かぶれば下りる……。この種の判断力にはかなり微細なところ、鋭いところがあり、キャラクターの 配置がまずいと、とくにキャラがかぶったりすると、あるいはそのキャラに演技性が透いて 見えたりすると、番組はすぐにそっぽを向かれる。そういうところから「天然ボケ」が重宝されるわけで、ボケはもはやかつてのようにクリティカルな攻撃性を潜ませた高度な「芸」ではなくなる。享受者であるはずの視聴者がディレクター 的な視線でスタジオでくりひろげられる光景を見つめ、その視聴者自身がスタジオに入ればまずじぶんの占めるべき 位置をキャラとして意識する。プロフェッショナルとアマチュアの水準差がほとんどなくなってきたともいえる。

⑥そしてそのディレクター 的感覚がそのまま日常の人間関係のなかにも差し込まれる。人びとはよく「居場所を探す」とか「じぶんの居場所がない」という言い方をするが、そのばあいの「居場所」とは、じつはこの、キャラのかぶってない場所というものなのかもしれない。かぶらないキャラというかたちでじぶんの居るべき場所を探す、言ってみれば椅子取りゲーム、そういうものに日常の人間関係じたいがなっている。

⑦(1)「居場所を探す」というのは、どこか痛ましい表現である。ひとはそこでじぶんの存在を「ただある」というだけでは認めることができず、全体の配置のなかで他人に認めてもらえるようななにか意味のある場所を探さざるをえないからだ。それを手に入れなければ、ムシられて( =存在が無視されて)しまうからだ。こういうゲームが、スタジオだけでなく、会社でも学校でも、そしてときに家庭においても残酷にくりかえされている。その意味で「居場所」というのは自立の場所ではない。かつて「いじめ」が問題化したときに、学校という場所に浸透している※「同調圧力」が病根として指摘されたことがあったが、そういう場の強迫、裏返せば場への依存を、一見強そうにみえる「恋の空騒ぎ」や「しゃべり場」の主人公もまた、見るからに明敏であるからこそより深く引きずっているとは言えないだろうか。他との差異を過剰に意識し、キャラのすきまをうかがう。意識することなくキャラが際立っている「天然ボケ」にはしかし、だれもかなわない。が、その「天然」も、そこにわずかでも演技性が見えてしまうと退場を命じられる。じっさい、そういうかたちで姿を見なくなったタレントは数えきれない。

⑧これは各人にとって、文字どおり生き死にの問題である。死ぬまでわたしたちにつきまとう問題である。「かわいいお年寄り」をやむをえず演ずる高齢者の人たち、介護施設でスタッフのお手伝い(たとえば洗濯済みのタオルをたたむ作業)をすることでかろうじて「じぶんはここにいていいのだろうか」という問いを免れる要介護者の人たち。これは人がその ままで、つまりその人がそこにいるというただそれだけの理由で、存在を認められるということとはちがう。わたしにはそれがとても寂しい光景にみえる。ここにほんとうに必要なのは、人びとがいちばん心を砕いている「キャラ」のバランス、そういう強迫の場を壊すような、あるいは成り立たなくさせるようなコミュニケーションなのではないのか。

⑨日本人はよく、たがいに気心知れている人とのコミュニケーションには繊細で長けているが、気心知れない人とのコミュニケーションは苦手だと言われる。「しゃべり場」 というのはほんとうは気心知れない人とのコミュニケーションの典型のようなものであるはずなのに、そこでもキャラの配置からじぶんの場所を意識するという、コミュニケーションの場の閉鎖が起こっている。

⑩ ディスコミュニケーションという言葉がある。文字どおり、コミュニケーションの断絶、つまり伝達不能という意味である。ファクシミリ、携帯電話、インターネット、iモード……とコミュニケーションの媒体が進化すればするほど、じつはコミュニケーションではなくディスコミュニケーションがこの社会を象徴する現象になってきている。そのひとつに、コミュニケーション圏の縮小という現象がある。コミュニケーションの媒体が進化することで逆に世界が縮小してゆくという、なんとも皮肉な現象である。たとえば新幹線から降りたとたん、多くの乗客が携帯電話を耳に当て、 受信をチェックする、あるいは通話する。人とぶつかっても、話し中だから「失敬」や「ごめんなさい」のひとつも出ない。ふと思い出すのがテレビのニュースキャスターの顔。画面のなかからこちらに向かって話しかけるあの顔はほんとうは像であって顔ではない。そこには対面する顔がつくりだす磁場というものがない。射るまなざし、撥ねつける まなざし、吸い寄せるまなざし、貼りつくまなざし……。そうしたまなざしの交換はそこには存在しない。人びとの顔はそういう磁力をもたずに、ただ像としてたがいにたまたま横にあるだけだ。頭部に顔のかわりに受像機をつけた人間がうろついている、かつての未来映画で見たような都市の光景が、ふと浮かぶ。

⑪他人となにかを共有する場のなかではとても親密で濃やかな気配りや気遣いをするのに、 その場の外にいる人はその存在すら意識しない……。 たとえば車中で携帯電話をする人に同乗者がしばしば強いいらだちを覚えるのは、うるさいというより、プライヴェートな会話をむりやり聞かされるというより、じぶんがその人に他者としてすら認められていないという侮辱を感じてしまうからだろう。また、あるCDが六百万枚売れていても他方にその曲も歌手の名も知らない人がそれ以上にいるという事実も、ひとつのコミュニケーション圏と別のコミュニケーション圏がまったく無関係に存在しているという、そういうディスコミュニケーションを表している。

⑫いまわたしたちの社会で必要なのは、たがいに接触もなくばらばらに存立する異なるコミュニケーション圏のあいだのコミュニケーションというものではないだろうか。同じ病院にいても医師と患者とでは文化かちがう。同じまちづくりに関わっていても行政職と住民とでは言葉がちがう。同じ遺伝子作物を問題にしても専門科学者と消費者とでは思いがちがう。そのほかにも障害者と健常者、外国人と自国民、教師と生徒、大人と子どもといったさまざまの異文化を接触させ、交差させるようなコミュニケーションのしくみこそが、断片的な言葉だけでじゅうぶんに意が通じあうような閉じられたコミュニケーションのしく みとは別に、構築される必要があるようにおもう。

⑬それぞれの事柄にはコミュニケーションの形式というものがある。地方自治体での政策決定や原子力発電の是非、病院でのインフォームドコンセントや家裁での調停、ゴミ処理 をめぐる 住民の話しあい……。それぞれの事柄にふさわしい多様なコミュニケーションの方式があるはずだ。公立高校で「哲学」の授業試みているわたしたちは、同時に地域のコミュニティ・センターなどで「哲学カフェ」も開いている。「自己決定とは何か」「他人を理解するというのはどういうことか」といったテーマで異なる世代がディスカッションをする場を設定するのだが、そのときは、年齢や職業、地域といった人としての帰属をぜんぶ括弧に入れて、へんな話だが、たがいに気心が知れないよう工夫している。大はコンセンサス会議から小は哲学カフェまで、みなが「キャラ」によってではなく(2)ひとりの「人」としで言棄を交換できるような場が、もっともっと構想されていい。

※同調圧力…集国内の多数意見や行動基準に従わせようとする力。

問1  太字(1)で、著者は「『居場所』を探す」というのは、どこか痛ましい表現である」 と述べている。本文をふまえて、その理由を400字以内で述べなさい。
問2  あなたは、太字(2)の「ひとりの『人』として言葉を交換できるような場」について、どう考えるか。あなたの意見を400字以内で述べなさい。

(2)考え方


問2

異文化理解や多文化共生と関連させて考える。その際、多様化(ダイバーシティ)の尊重は重要な観点となる。

さらに、個性やアイデンティティの問題も視野に入れて考える方法もある。

キャラは真の個性とは言えない。

アイデンティティの問題を掘り下げる場合、パーソナリティとどのように関連付けるかがキーポイントとなる。

パーソナリティ(personality)の語源はギリシャ語のペルソナ(Προσωπογραφία)で、本来「仮面」を意味する言葉である。

このことから、人間は良好な社会関係を構築するために、役割分担をする。見方を変えれば、人はみな仮面をつけて、教師や親、兄弟、友人・知人や恋人の前で演技をしていると解釈することもできる。

参考文の筆者の意見を批判的に書くなら、キャラをペルソナ(仮面)として考え、社会人になって複雑な人間関係をさばくためのひとつの練習の場、として位置付けるという意義がある、というようにまとめることもできるだろう。

解答例では、筆者に賛同する立場から書いた。

筆者の鷲田清一は哲学者であり、自分の立場に固執しないで、より普遍的で客観的な視野に立ってものごとの本質を省察する哲学的議論の重要性を強調する方向で書くのが、一番オーソドックな攻め方と言えるかもしれない。



(3)解答例


問1
 
「ただある」というだけでじぶんの存在を周囲から認められることは難しい。ひとは会社や学校、家庭といった日常の人間関係のなかで周囲を見回して、他人のキャラクターとのバランスでじぶんのあるべきキャラクターを確認し、キャラがかぶれば下りるといった、鋭く繊細な判断力を必要とする。このように、『居場所』というのは、全体の配置のなかで他人に認めてもらえるような、なにか意味のある自分の立ち位置のことで、これを常に探さなければならない。これを手に入れなければ、存在が無視されてしまう。だから、他人との差異を過剰に意識することになり、「天然ボケ」といったキャラのすきまをうかがう戦略をとることもある。しかし、そこにわずかでも演技性が見えてしまうとその場にいることが許されない。こうした各人にとって、「居場所をさがす」ことは、文字どおり生き死にの問題が死ぬまでわたしたちにつきまとうから「痛ましい」と筆者は呼んでいる。(399字)
 
問2

 全体の配置の中の自分の立ち位置を定める、すなわち社会のなかで一定の役割を担うというのは、分業が進んだ現在、やむをえないのかもしれない。しかし経済的な関係を離れて学校や家庭でも自分のキャラを演じ続けなければならないのは筆者の言うように空しい。


 世界ではいま多様化が進展している。人種、性別、性的指向、言語、宗教、政治、障がいの有無などの違いを起因として、様々な衝突を生む可能性をはらんでいる。こうした多様性を受け入れて共生社会の構築が目指されているが、すんなりといくとは思えない。

 いきなり共生を唱えるのではなく、むしろこうした自己の立場や嗜好の違いを堂々と主張し、ぶつけ合う場が必要である。はじめは諍いや激しい衝突を生むかもしれない。暴力的な対立は避けなければならないが、言論による議論は活発に為されるべきだ。真の異文化理解は火花が散るような、こうしたぶつかり合いを契機にしてしか生まれない。

(394字)

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