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【法学部小論文】書き方

(1)市販の参考書を信じるな

 よく、市販の参考書には、小論文はこう書きなさい、と判を押したように書かれている。

 誤解を恐れずに言えば、これは嘘だ。

 表現を柔らかくすれば、売らんがための方策と言っていい。

 大学入試小論文は、大学や学部によって書き方は異なる。

 推薦入試か一般入試かによっても違う。

 ましてや、400字、600字、800字といった指定字数によっても書き方や構成を変えなければ話にならない。

 だから、このブログでは、それぞれの書き方について、これから丁寧に解説してゆくつもりだ。

(2)法学部の構成は双括法で書く

 法学部の入試小論文の出題意図はズバリ判決文だ。

 法曹関係者は判決文を読み書きする機会が多い。

 特に裁判官の仕事は文章作成と切り離せない。

 端的に言えば、判決文を意識して小論文を書くこと。

 判決文では、初めに有罪か無罪かの結論を示す。

 したがって、第一段落では結論から入るのが筋となる。

 そして、最後にも念を押すように結論や要旨をまとめて書くとよい(判決文ではこのような書き方は通常とらない)。

 その方が読者に論旨をわかりやすく伝えることができる。

(3)文章表現について

 文章は凝った表現や内容にする必要はない。

 とにかく、一文一文が曖昧なとことなく、文意が明確で、多義的な解釈を残さない、クリアーな文章がよい。

 したがって比喩表現はあまり使わないほうがよい。

 文体は当然、常体を用いる。

(4)書く上での注意点①

 法学部は特に論理的な文章を書くようにすること。

 したがって、文と文、段落間のつながりに意識を向けて書く。

 「論理の飛躍」は減点になる。

 一文や語句が抜けていると、読み手に文意が伝わらず、「論理の飛躍」と受け取られる。だから、くどいぐらいに緻密な文章を書くことが必要だ。

 この「OK小論文」では接続詞はあまり使わないほうがよい、と書いた。

 しかし、法学部入試の場合、むしろ接続詞は積極的に使うようにする。

 接続詞は、文意を明確にする効果があるからだ。

 無味乾燥で固い文章になってもいい。とにかく論理的な文章を書くことだけを心掛ければ合格点がつくはずだ。

(5)書く上での注意点②

 参考文型の問題の場合には、筆者の主張に対する賛否を明確にすること。

 したがって、「私は筆者の主張に賛成(反対)である」という一文から書き始めてもよい。

 「どちらとも言える」「賛否の判断が難しい」「両者のバランスを取る」などという結論は大幅減点を食らう。

 実際問題として、複雑で微妙な問題は「両者のバランスを取」って落としどころを探るというのが、現実的な方策だが、結論をバランス云々でまとめることは不可だ。

 必ず白黒をつけること。これは裁判の判決と同じ。

 ただ、実際の裁判では、両者のバランスを取ることを最大限に重視する(特に民事裁判)。

 したがって、結論ではないところで、両者の言い分をそれぞれ認め合ったうえで、賛成派と反対派のそれぞれに配慮した内容を盛り込む分にはよい。

(6)法学部小論文の勉強

 日本国憲法は必ず読むようにしよう。主な条文は暗記をし、小論文の中に引用して使えればなおよい。

 慶應義塾大学法学部受験生は、大日本帝国憲法や現行の諸法規、たとえば教育基本法などにも目を通しておくこと。

 憲法を前提に考える習慣をつけること。

 法学部は特別のオリジナリティを発揮する必要はない。

 あくまでも憲法と法律と良心に基づいて考え、書くことだけに専念すること。

(7)問題と解答例

〇練習問題

「教育の機会均等」についてあなたの考えを600字以内で書きなさい。

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 〇解答例

 教育の機会均等の原則では親の経済的条件などによって差別を受けないとされる。しかし、資本主義経済では市場競争の優勝劣敗による格差が生まれる。親の失業や障害、疾病などで最低生活の維持が困難な世帯が現実には存在する。このような家庭では子どもが就学困難となる場合が生じる。これは憲法の法の下の平等に反する。教育の機会均等が保障されなければ、子どもの就業機会も限定され、貧困の再生産が繰り返される。子どもがこのような悪循環から解放される必要から義務教育の無償化が憲法では謳われている。
 前近代の日本において子どもは家庭の重要な労働力として期待された。明治5年に学制が発布されて公教育制度が開始した。しかし上記の理由で学制反対一揆が発生した。これは民衆の教育に対する無理解も背景にある。
 福沢諭吉は「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉を残した。この言葉には続きがある。生まれつき人間は平等に生まれたけれど、実社会では賢愚、貧富、貴賤の相違がある。この格差はひとえに教育によって生じたものであると述べている。明治期の親の教育に対する無知や無理解によって最大の被害者となったのは、子どもである。子どもは生まれてくる親を選べない。こうした不公平を無くすために、憲法では国民の三大義務のひとつとして義務教育が定められている。福沢の説く『学問のすすめ』は明治政府が構築して以来の義務教育に収斂した。(599字)

(8)解説

 今回の練習問題は参考文型の問題ではないので、双括型の文章構成にはしなかった。

 解答例を書く際に、以下の諸法規を参考にした。

●日本国憲法
第3条 (教育の機会均等)
すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。
第13条(幸福追求権)
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第14条(法の下の平等)
すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
第26条(教育を受ける権利)
すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

●教育基本法第4条 
すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

(9)入試過去問/慶應義塾大学法学部2021年

次の文章は、評論家・福田恒存が一九四七年に発表した「一匹と九十九匹と」と題する作品からの抜粋である。著者の議論を四〇〇字程度に要約した上で、個人と社会の緊張と対立について、あなたの考えを具体的に論じなさい。

① ぼくはぼく自身の内部において政治と文学とを截然(せつぜん)と区別するやうにつとめてきた。その十年あまりのあひだ、かうしたぼくの心をつね
に領してゐたひとつのことばがある。「なんぢらのうちたれか、百匹の羊をもたんに、もしその一匹を失はば、九十九匹を野におき、失せたるものを見いだすまではたづねざらんや」。(ルカ伝第十五章)はじめてこのイエスのことばにぶつかつたとき、ぼくはその比喩の意味を正当に解釈しえずして、しかもその深さを直観した。もちろん正統派の解釈は蕩児の帰宅と同様に、一度も罪を犯したことのないものよりも罪を犯してふたたび神のもとにもどつてきたものに、より大きな愛情をもつて対するクリスト者の態度を説いたものとしてゐる。たしかにルカ伝第十五章はなほそのあとにかう綴つてある――「つひに見いださば、喜びてこれをおのが肩にかけ、家に帰りてその友と隣人とを呼びあつめていはん、『われとともに喜べ、失せたるわが羊を見いだせり』われなんぢらに告ぐ、かくのごとく、悔い改むるひとりの罪人のためには、悔い改めの必要なき九十九人の正しきものにもまさりて天に喜びあるべし。」
② が、天の存在を信じることのできぬぼくはこの比喩をぼくなりに現代ふうに解釈してゐたのである。このことばこそ政治と文学との差異
をおそらく人類最初に,感取した精神のそれであると、ぼくはさうおもひこんでしまつたのだ。かれは政治の意図が「九十九人の正しきもの」のうへにあることを知つてゐたのに相違ない。かれはそこに政治の力を信ずるとともにその限界をも見てゐた。なぜならかれの眼は執拗に「ひとりの罪人」のうへに注がれてゐたからにほかならぬ。九十九匹を救へても、残りの一匹においてその無力を暴露するならば、政治とはいつたいなにものであるか――イエスはさう反問してゐる。かれの比喩をとほして、ぼくはぼく自身のおもひのどこにあるか、やうやくにしてその所在をたしかめえたのである。ぼくもまた「九十九匹を野におき、失せたるもの」にかかづらはざるをえない人間のひとりである。もし文学も――いや、文学にしてなほこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいつたいなにによつて救はれようか。
③ 善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する。が、悪しき政治は文学を動員しておのれにつかへしめ、文
学者にもまた一匹の無視を強要する。しかもこの犠牲は大多数と進歩との名分のもとにおこなはれるのである。くりかへしていふが、ぼくは文学の名において政治の罪悪を摘発しようとするものではない。ぼくは政治の限界を承知のうへでその意図をみとめる。現実が政治を必要としてゐるのである。が、それはあくまで必要とする範囲内で必要としてゐるにすぎない。革命を意図する政治はそのかぎりにおいて正しい。また国民を戦争にかりやる政治も、ときにそのかぎりにおいて正しい。しかし善き政治であれ悪しき政治であれ、それが政治である以上、そこにはかならず失せたる一匹が残存する。文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛と迷ひとを体感してゐなければならない。
④ この一匹の救ひにかれは一切か無かを賭けてゐるのである。なぜなら政治の見のがした一匹を救ひとることができたならば、かれはすべ
てを救ふことができるのである。ここに「ひとりの罪人」はかれにとつてたんなるひとりではない,かれはこのひとりをとほして全人間をみつめてゐる。善き文学と悪しき文学との別は、この一匹をどこに見いだすかによつてきまるのである。一流の文学はつねにそれを九十九匹のそとに見てきた。が、三流の文学はこの一匹をたづねて九十九匹のあひだをうろついてゐる。なるほど政治の頽廃期においては、その悪しき政治によつて救はれるのは十匹か二十匹の少数にすぎない。それゆゑに迷へる最後の一匹もまた残余の八十匹か九十匹のうちにまぎれてゐる。ひとびとは悪しき政治に見すてられた九十匹に目くらみ、真に迷へる一匹の所在を見うしなふ。これをよく識別しうるものはすぐれた精神のみである。なぜなら、かれは自分自身のうちにその一匹の所在を感じてゐるがゆゑに、これを他のもののうちに見うしなふはずがない。
(中略)
⑤ ぼくの知りうるかぎり、ぼくたちの文学の薄弱さは、失せたる一匹を自己のうちの最後のぎりぎりのところで見てゐなかつた――いや、
そこまで純粋におひこまれることを知らなかつた国民の悲しさであつた。しかもぼくたちの作家のひとりびとりはそれぞれ自己の最後の地点でたたかつてゐたのである。その意味において近代日本の文学は世界のどこに出しても恥しくない一流の作家の手によつてなつた。が、かれらの下降しえた自己のうちの最後の地点は、彼等に関するかぎり最後のものでありながら、なほよく人間性の底をついてはゐなかつた。なぜであるか――いふまでもない、悪しき政治がそれ自身の負ふべき負荷を文学に負はせてゐたからである。政治が十匹の責任しか負ひえぬとすれば、文学は残りの九十匹を背負ひこまねばならず、しかもぼくたちの先達はこれを最後の一匹としてあつかはざるをえなかつた。その一匹が不純なものたらざるをえず、この意味においてぼくたちの近代はそのほとんどことごとくを抹殺しても惜しくはない五流の文学しかもちえなかつたのである。
(中略)
⑥ ぼくがいままで述べてきた文学と政治との対立の底には、じつは個人と社会との対立がひそんでゐるのである。ここでもひとびとはもの
ごとを一元的に考へたがり、個人の側にか社会の側にか軍配をあげようとこころみてきた。そして現代の風潮は、その左翼と右翼とのいづれを問はず、社会の名において個人を抹殺しようともくるんでゐる。ゆゑに個人の名において社会に抗議するものは、反動か時代錯誤のレッテルをはられる。ここにぼくの反時代的考察がなりたつ。が、それは反時代的、反語的ではあつても、けつして反動ではありえない。もし反動といふことばのそのやうな使ひかたが許されるならば、むしろそれは反対の立場にかぶせられるべきものであらう。ぼくは相手を否定せんと企ててゐるのではなく、ただおのれの扼殺される危険を感じてゐるのにすぎない。
⑦ 失せたる一匹の無視せられることはなにも現代にかぎつたことではない。が、それはつねにやむをえざる悪としてみとめられてきたので
あつて、今日のごとく大義名分をもつてその抹殺を正当化した時代は他になかつた。それは一時の便法ではなく、永遠の真理として肯定されようとしてゐる。いや、現代はその一匹の失はれることすらみとめようとはしない。社会はその框(かまち)のそとに一匹の残余すらもつはずのないものとして規定せられる。個人は社会的なものをとほして以外に、それ自身の価値を、それ自身の世界をもつことを許されない。社会は個人をその残余としてみとめず、矛盾対立するものとして拒否するのである。だが、矛盾対立するものはなぜ存在してはいけないのか。いや、そのことよりも、個人はこのみづからの危機に際会してなぜ抗議しないのか。
(中略)
⑧ ひとびとはあらゆる個人的価値の底にエゴイズムを見、それゆゑに個人は社会のまへに羞恥する。が、現実を見るがいい――社会正義と
いふ観念の流行にもかかはらず、現実は醜悪な自我の赤裸々な闘争の場となつてゐるではないか、いや、なほ悪いことに、あらゆる社会正義の裏口からエゴイズムがそつとひとしれずしのびこんでゐる。当然である――いかに抑圧しようとしてもけつして消滅しきれぬ自我であり、それゆゑに大通りの通行禁止にあつてみれば、裏口にまはるよりほかに手はなかつたといふわけである。ぼくがもつともおそれるのはそのことにほかならない。社会正義の名によりひとびとが蛇蝎(だかつ)のごとく忌み恨んだエゴイズムとは、かくして社会正義それ自身の専横のもちきたらした当然の帰結にほかならぬのである。現代のオプティミズムは政治意識と社会意識とを強調してゐるが――それはそのかぎりにおいて正当な主張であるとしても――このさいひとびとの脳裡にある図式は、いささかの私心も野望もなき個人といふものの集合のうへに成りたつてゐる。たしかにかれらの世界観は知性の科学によつて空想的ユートピアに堕することをまぬかれてはゐよう。が、個人の秘密を看過したことにおいて、個人が小宇宙であるといふ古めかしい箴言(しんげん)を一片の反故として葬りさつたことにおいて、さらに社会意識といふものによつて個人を完全に包摂しうると考へたことにおいて、まさに空想的、観念的なユートピアの域をいでぬものであらう。
(中略)
⑨ ふたたび誤解をさけるためにことわつておくが、ぼくは文学者が政治意識をもたなくてはならぬとかなんとか、さういふ場でものをいつ
てゐるのではない。政治と文化との一致、社会と個人との融合といふことがぼくたちの理想であること――そのことはあたかも水を得るために水素と酸素との化合を必要とするといふことほど、すでに懐疑の余地のない厳然たる事実である。問題はその方法である。その理想を招来するための政治や文学の在りかた、社会や個人の在りかたが問題なのである。ぼくは両者の完全な一致を夢見るがゆゑに、その截然たる区別を主張する。乖離でもなく、相互否定でもない。両者がそれぞれ他の存在と方法とを是認し尊重してのうへで、それぞれの場にゐることをねがふのである。それをぼくはただ文学者として、文学の立場からいつたにすぎず、また今日のさかんな政治季節を考慮にいれていつたのにすぎない。
(中略)
⑩ 政治のその目的達成をまへにして――そしてぼくはそれがますます九十九匹のためにその善意を働かさんことを祈つてやまず、ぼくの日
常生活においてもその夢をわすれたくないものであるが――それがさうであればあるほど、ぼくたちは見うしなはれたる一匹のゆくへをたづねて歩かねばならぬであらう。いや、その一匹はどこにでもゐる――永遠に支配されることしか知らぬ民衆がそれである。さらにもつと身近に――あらゆる人間の心のうちに。そしてみづからがその一匹であり、みづからのうちにその一匹を所有するもののみが、文学者の名にあたひするのである。
福田橿存「一匹と九十九匹と――ひとつの反時代的考察」『福田恒存全集』第一巻(文藝春秋、一九八七年)。試験問題として使用するために、文章を一部省略・変更し、漢字を新宇体に改めた。


(10)ヒント

 この問題はズバリ、日本国憲法のある条文を意識して出題されたものだ。

 第何条と関係があるか、考えてみてください。

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