見出し画像

「教育と市場原理」青山学院大学文学部2015年

(1)問題

次の文章を読み、以下の問に答えなさい。

問1 本文中の空欄( A )から( D )に入れるのに最も適切な語を、次の選択肢(ア)~(オ)から選び、解答欄に記入しなさい。ただし同じものは二度使えない。

(ア) 功利的 (イ)社会的 (ウ)道徳的 (エ)理論的 (オ)歴史的

問2 本文中の空欄( 1 )から( 5 )に入れるのに最も適切な語を、次の選択肢(ア)~(オ)から選び、解答欄に記入しなさい。ただし同じものは二度使えない。

a起源 b結託 c兆候 d分離 e蔓延 f目的

問3 太字(a)について、筆者はどのような点で今の子どもたちが「消費者」と同じ構えで教育の場に臨んでいると述べているのか。本文の内容に即して120字以内で説明しなさい。

問4 太字(b)について、筆者の教育観を簡潔にまとめた上で、それについてのあなた自身の考えを800字以内で述べなさい

① 2006年に富山の県立高校で発覚した履修単位不足問題はその後全国に飛び火して、少なくとも二万人の高校三年生が単位不足であることがわかった。各校は冬休みなどを利用して補習を行い、単位を確保する予定だが、数十回の補習をこれから卒業までに行わなければ間に合わないケースも出て、現場は混乱の極にあるしこの種の架空履修はすでに90年代から行われており、すでに卒業してしまった生徒については遡っての卒業取り消しはしないそうである。
② この問題については多くの識者がその問題点を洗い出しているが、私はこれまであまり論じられていない点にこだわってみたい。
③ それは未履修では必修の世界史をネグレクトしたケースが多いという事実である。世界史は覚えなければいけないことが多い、というのがその理由として繰り返しメディアでは報じられた。
④ 私はこの説明を読んで、いささか考え込んでしまった。というのは、「覚えなければいけないことが多い教科なので勉強しない」という言明にそれなりの説得力があると、この言葉を発している当人は信じているように思えたからである。どうして「そんなこと」が信じられているのか、私にはその理由がよくわからなかったのである。
⑤ というのも、「覚えなければならないことが多い教科よりも、覚えなければならないことが少ない教科を学習する方が有利である」という判断はいつでもどこでも成り立つ話ではないからだ。例えば、「できるだけ多くの知識を身につける」という目的に照らした場合、この判断は成立しない。「できるだけ多くの時間を学習に割いて学習習慣を身につける」という目的に照らしても成立しない。「判断力や情操の涵養」については、「覚えなければならないこと」の多寡は直接関与しないはずだが、少なくとも「覚えなければならないことが少ない方」が判断力や情操の涵養に「有利」という判断は導かれない。つまり、「覚えなければならないことが少ないことの方が有利」というのは受験についてのみ言えることであり、それ以外の教育一般については妥当しない言明だということである。
⑥ こういう事況を言い表す適切な術語がある。「費用対効果」というのがそれである。覚えなければならないことが多い教科と覚えなければならないことが少ない教科では、後者を選択する方が受験勉強としての費用対効果がよい。
⑦ 私が未履修問題でいちばん胸を衝かれたのは、学習指導要領の不適切でもないし、教育委員会や学校のコンプライアンスの低さでもない。そうではなくて、高校生たちも現場の先生たちも文科省もメディアも含めて、総じて日本人の全員が教育を費用対効果というタームで語ることを当然のように思っているという精神の荒廃に対してである。
⑧ 費用対効果というのはビジネスの用語である。教育をビジネスの用語で語る風潮が取り返しがつかないほど人心に深く浸透したことの、これは一つの( 1 )であると私は思う。
⑨ 最初に大切なことを申し上げておきたいが、教育は本来ビジネスタームで語るべきことではない。これは一教師として、どんなことがあっても譲ることのできないぎりぎりの防衛線である。だが、この平明な真実を踏まえて発言している人は、少なくとも教育行政の中枢にはいない。
⑩ 今の日本で教育について大きな声を上げて語っている人のほとんどは、「教育はビジネスだ」ということを自明の前提にしている。教育施策を巡る議論でも、論者たちのほとんどは「どちらの提言する施策の方がより費用対効果がよく、より多くの経済効果をもたらすか」を競うという「ゲームのルール」そのものには疑念を差し挟まない。
⑪ 例えば、「大学洵汰」ということが言われている。これについて、「市場がそれを要請している以上、競争力のない大学は粛々と市場から撤送すべきである」という説明を人々は何の抵抗もなく丸呑みしている。この説明が丸呑みできる人々はすでに無意識のうちに教育機関を資本主義企業と同定している。だが、学校はそもそも利潤を上げ、株主に配当をし、市場での競争に勝ち残ることを目的にして発生した機関ではない。
⑫ 「学校は国家須用の人材を育成すべきである」というような言い方をする人も同断である。彼らは教育機関は工場であり、そこから送り出される卒業生たちは「製品」であるという考え方に深くなじんでいる。だから、彼らが教員評価とか教育の「質保証」ということを論じるとき、念頭にあるのはISOや生産工程管理のことであり、彼らが「学士号の国際共通性」というときに要求しているのは、「乾電池」のように世界のどこでも同じやり方で使える互換性のことである。
⑬だが、そんなふうに「市場経済の常識」を学校教育に適用することは果たして適切なのだろうか?
⑭ というような自問は教育グローバリストや教育ビジネスマンの脳裏には決して去来しない。学校教育が資本主義市場経済よりも( A )に早く登場した社会制度なのである以上、その存在理由や存在しなくてもいい理由を市場経済の用語で説明しようとすることには原理的に無理がある。その当たり前のことがどうやら彼らには理解できないようである。
⑮学校教育、とりわけ公教育は市場原理を貫徹させるために生まれたものではない。むしろ市場原理が人間生活の全場面に貫徹することを阻上し、親と企業による収奪から子供たちを保護するために誕生したものである。
⑮ マルクスが『資本論」に書いているとおり、19世紀末のイギリスにおいて、公教育が推進されたのは子どもを誰にもましてまず親から守る必要があったからである。当時の下級階層の子どもたちは6~8歳から(早いものは4歳から)労働に従事した。貧しい親たちはためらうことなく子どもたちを工場や炭坑での労働に追い立て、時には大人たちより長時間にわたって、過酷な業務に就労させたのである。この非人間的な児童労働がもたらす身体的および( B )な荒廃から少年少女を守ることが学校教育の義務化の、そして最初の( 2 )であった。「教育を受けさせる義務」は保護者の子どもに対する権力規制したものであり、子どもたちに学校に通うことを義務づけたのではない。そういうことを私たちはもう忘れている。たまには思い出した方がよいと私は思う。だからこそ、国民は「その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ」と定めた憲法26条には「児童は、これを酷使してはならない」という27条の文言が続くのである。
⑯近代の憲法が定める教育にかかわる国民の義務規定は端的には、子どもを資本主義の市場原理にさらすなと命じているのである。
⑰ 教育史的な事実として、もう一つだけ覚えておいて欲しいことがある。それは教育と市場経済の( 3 )がどこで始まったのか、その始点をマークするためである。
⑱アメリカにおける公教育の導入はヨーロッパに先んじて19世紀に進められた。理論的にはヨーロッパの方が公教育論は進んでいたが、それを実践してみせたのはアメリカの方が早かった。ところが、アメリカにおける公教育制度の導入は思わぬ妨害に遭遇した。資本家たちが学校を公費で運営するというアイデアに頑強に抵抗したのである。どうしてわれわれの刻苦勉励の成果として収めた税金を貧乏人の子女の教育のために投じなければならないのか、と彼らは反問した。この勘定高い資本家たちを説得するために、公教育推進論者たちは苦し紛れに次のようなロジックに訴えた。
⑲ 適切な学校教育を受けて育った「人材」はいずれ資本家たちの経営する企業の労働者となり、教育を受けていない労働者よりもはるかに多くの利潤を企業にもたらすだろう、と。教育の有用性をブルジョアたちに納得させるために、リベラルな教育学者たちは公教育の費用対効果を力説したのである。公教育で育てられた労働者たちが「州にもたらしている知性と美徳とがいったい何ドルぐらいの価値になるのかを自問してみるがよい」と彼らは資本家たちに訴えた。
⑳ 教育は自己責任で行うべき自己投資であり、自己陶冶において他人の懐を当てにすべきではないという資本家たちの理説には一理ある。これを突き崩すのは容易なことではなかった。理想論ではこれを論破することが難しいと考えたからこそ、公教育論者たちは「公教育は費用対効果のよい投資である」という説明に訴えたのである。だが、彼らがこのような危険なロジックを弄したのは、あくまで子どもたちを過酷な児童労働から救い出し、彼らに基本的人権と( C )上昇のチャンスを担保するための緊急避難としてであったのだ。私が19世紀のアメリカに生まれても、たぶん同じロジックで公教育への税金の投入を合理化しただろう。けれども、これが納税者の抵抗を乗り切るための説明として言い出されたという( 4 )の事実は忘れるべきではないと思う。
㉑原理的なことをもう一度確認するが、学校は営利企業ではないし、教育事業は経済効果を求めてなされるものではない。教育とは第一義的には子どもたちを親と市場による奪取から守るためのものである。
㉒だから、仮に費用対効果で学校教育を語る口吻がひろく日本社会に定着していたとしても、それは「そうでもいわないと」強引な親たちや利己的な資本家たちが子どもを「人材」として( Ⅾ )に育成し、消費することを防げないからである。もっと平たく言えば、私たちが現代社会の学校教育で「費用対効果」ということが目にされるのを黙許しているのは、人間を深く損なう「本態的な邪悪さ」を制御するためなのである。「毒をもって毒を制する」以上、自分が扱っているのが「毒薬」であるという自覚だけは忘れてほしくない。
㉓だが、今この「毒薬」は教師にも子どもたちにも保護者たちにも教育を論じるメディアにも、それと気づかれぬまま深く浸潤している。人々はビジネスタームで学校教育を論じ、学校教育にかかわる。その端的な例が子どもたちの「これを勉強することが何の役に立つんですか?」という屈託のない質問である。教師として私はさまざまな場面でこの質問を初学者から向けられる。そのつど私は絶句する。すると質問した子どもたちは私を見つめて、「なんだ、自分が教えていることの社会的有用性も経済効果も説明できないのか」と勝ち誇った表情を浮かべる。彼らは私の説明を聞いて「役に立つ」と判断したら、勉強するし、「役に立たない」と判断したら、勉強しない判定の権利が自分にあると信じている。だが。このような有用無用の判定を子どもに許したら、遠からず私たちは小学校一年生の教室で「ひらがなを学ぶことにどんな意味があるんですか?」という質問に遭遇するようになるだろう。もし、そのときに教師がひらがなの有用性について6歳児にでも分かるような説明ができなかった場合に子どもが「じゃあ勉強しない」と「自己決定」することを許せば、学校教育はもう成立しない。
㉔だから、有用性についての問いに対して教師は絶句して、「いいから黙って勉強しなさい」と応じるしかないのである。もし、そうせずに6歳児にもわかる有用性を、「にんじん」に疑して学習を動機づければ、子どもは死ぬまで6歳児の価値観に固着することになるだろう。
㉕現に、今の子どもたちは「自分が知らないこと」についても自分には有用無用の判断ができると確信している。子どもの頭でも「有用」であることがわかるもの以外は、「無用」のカテゴリーに投じられる。彼らは決して「いいから黙って勉強しなさい」という言葉には従わない。あくまで説明責任を求める。
㉖ a これは彼らの社会的構えの基本が「消費者」としてのそれだからである。
㉗消費者は自分が購入する商品についての、有用性や意義についてあらかじめ熟知している(ことになっている)。スペックを熟知しており、他社の同種商品と比較考量して、「お買い得」であると判断したからこそ、その商品を購入しようとしているのである。「その商品は何の役に立つのか?」という問いに答えられないような売り手から商品を買うはずがない。
㉘学校というのは原理的に言えば、「それが何の役に立つのか?」を子どもたちがまだ知らないし、それを表現する語彙も持っていないことを教わる場である。というより、「それが何の役に立つのか?」を子どもたちがまだ知らず、言葉で表現もできないからこそ、子どもたちは学校に通わなければならないのである。学びとは、学び終わったあとになってはじめて、自分が学んだことの有用性や意味について知ることができるという順序の転倒したかたちで構造化されている。しかし、ビジネスの用語で教育を理解しようとする子どもたちにはこの「順序の転倒」を理解することができない。彼らはまるでバザールで「絨毯売り」から、絨毯を買うときのように登場する。彼らは差し出される商品に対して、まず「ぜんぜん興味がない」という態度を誇示してみせる。「絨毯売り」はそれでも「ねえ、買ってくださいよ」とまとわりついてくる。そのときになってようやく彼らは物憂げな目を向けて「どうせろくな品物じゃないんだろう。こっちには全部わかっているんだよ」というメッセージを売り手に送るこというのは、「お前が売ろうとしているものの有用性(というより無用性)と価値(というより無価値)について、私は熟知している」というポーズを示すことが商品を値切り、もっとも安い対価で商品を手に入れる術だということを、消費者としての子どもたちは就学前にすでに体得しているからである。
㉙それと同じことを彼らは学校で現に演じて見せている。いかに自分が教科に興味がないか、学校が提供する教育サービスがいかに有用性に乏しく無意味なものであると思っているかを全身を使って誇示することで「取引は有利に進められる」と彼らは信じているからである。
㉚どうやら日本の教育は瀕死の状態にあるらしい(だから「再生」が求められているのであろう)。けれども、日本の教育を「殺した」ものがあるとすれば、それは市場原理の( 5 )である。
㉛消費者は自分がその有用性と価値を知っているものしか買わない。しかし、教育は b その本義からして、子どもたにはその有用性も価値も理解できないものを子どもたちに理解させるための動的なプロセスである。学校を通じてしか、人はおのれが学びつつあることの意味について語ることができない。だから、「賢い消費者」たらんとして教育の場に臨み、費用対効果で教育の意義について考量する生徒たちは、そのマインドプロセスそのものによって「学び」から構造的に疎外されることになるのである。
㉜私は別にだから市場経済を止めて物々交換に戻せなどという野暮を言うつもりはない。けれども、それが教育を破壊しつつあるという現実については、痛切な自覚を持った方がいいと思う。
㉝市場原理からどのようにして学校を守るか。それが教育再生の真の課題であると私は考えるが、私に同意してくれる人は絶望的なまでに少ない。
(内田樹『昭和のエートス』による。原文の字句を一部改変、省略した。

(2)要旨

参考文の論点を以下、箇条書きにした。

・日本人の全員が教育を費用対効果というタームで語ることを当然のように思っているという精神の荒廃。
・教育は本来ビジネスタームで語るべきことではない。
・今の日本で教育について大きな声を上げて語っている人のほとんどは、「教育はビジネスだ」ということを自明の前提にしている。
・学校はそもそも利潤を上げ、株主に配当をし、市場での競争に勝ち残ることを目的にして発生した機関ではない。
・「市場経済の常識」を学校教育に適用することは果たして適切なのだろうか?
・学校教育、とりわけ公教育は市場原理を貫徹させるために生まれたものではない。むしろ市場原理が人間生活の全場面に貫徹することを阻上し、親と企業による収奪から子供たちを保護するために誕生したものである。
・近代の憲法が定める教育にかかわる国民の義務規定は端的には、子どもを資本主義の市場原理にさらすなと命じているのである。
・学校は営利企業ではないし、教育事業は経済効果を求めてなされるものではない。教育とは第一義的には子どもたちを親と市場による奪取から守るためのものである。
・子どもたちの「これを勉強することが何の役に立つんですか?」という屈託のない質問である。
・彼らは私の説明を聞いて「役に立つ」と判断したら、勉強するし、「役に立たない」と判断したら、勉強しない判定の権利が自分にあると信じている。
・学びとは、学び終わったあとになってはじめて、自分が学んだことの有用性や意味について知ることができるという順序の転倒したかたちで構造化されている。
・しかし、ビジネスの用語で教育を理解しようとする子どもたちにはこの「順序の転倒」を理解することができない。
・教育はその本義からして、子どもたにはその有用性も価値も理解できないものを子どもたちに理解させるための動的なプロセスである。学校を通じてしか、人はおのれが学びつつあることの意味について語ることができない。
・市場経済が教育を破壊しつつあるという現実については、痛切な自覚を持った方がいいと思う。
・市場原理からどのようにして学校を守るか。それが教育再生の真の課題であると私は考えるが、私に同意してくれる人は絶望的なまでに少ない。

(3)問4/考え方

筆者の意見に賛成、反対の両方の立場からそれぞれ2種類の答案を書けるようにすること。

実際の入試では、自分の書きやすい側から書けばよい。今回の問題は反対の方が書きやすいだろう。

筆者の内田樹は、特に反骨精神が豊かな人で、「私たちの常識」に逆らってものを考えて書く。レトリックや文章の上手さによって、強引に結論に落とし込む特徴を持っており、やや我田引水の傾向にある。

今回の文章では、教育が市場原理にそぐわないという主張はよいとして、子どもたちは、予め学ぶものの価値がわからない、という決めつけは、上から目線である。教えを乞う者は、価値がわかる教師にただ盲目的についてくればよい、という愚民観が見え隠れする。

九九の暗記や漢字などは、価値を説くよりも、半ば強引に覚え込ませなければならないので、小学生までは、この理屈で通用する部分はある。

この文章では、筆者の本意ではないにせよ、高校生に対しても小学生と同じような態度で接するべき、という誤解を生んでしまう。

というわけで、後半部分の「子どもは教育の有用性をわからない」「役に立つ、立たないで教育の価値を決めない」の2点については、十分に反論する余地がある。

特にプラグマティズム※の立場からの批判は有効だろう。

※プラグマティズム‥‥アメリカを中心に展開された哲学思想.デカルト以来の意識中心の立場を批判して、行動を重視し,思考・観念が真理であるかどうかは環境に対する行動の効果や結果の(有用性)[社会や個人にとって役に立つかどうか]から判断されるとする、現実重視の立場をとる。

スクリーンショット (676)

(4)解答例/問4

問1

A:(オ)歴史的 B:(ウ)道徳的 C:(イ)社会的 D:(ア)功利的 
問2
1:(b)兆候 2:(f)目的 3:(b)結託 4:(a)起源 5:(e)蔓延
問3
消費者は購入する商品の有用性について熟知していて、売り手が有用性を答えられない、役に立たない商品は買わない。初めは興味がない態度を示してみせて商品を値切ることが最も安い対価で入手する手段であるという消費者の術を子どもたちは体得している点。
(120字)
問4
 現代の教育は市場経済の原理に晒されていて、教育を商品と考えその有用性や費用対効果という言葉で語られている。子どもたちも消費者の観点から「役に立つ、立たない」で勉強を考えている。学びとは、学んだことの有用性や意味について事後的に知ることができるかたちで構造化されているが、ビジネスの用語で教育を理解しようとする子どもたちにはこれを理解することができない。教育は有用性も価値も理解できないものを子どもたちに理解させるための動的なプロセスである。学校を通じてしか、人は学びの意味について語ることができない。
 このような筆者の意見に反対である。学びは「何のために学ぶが」という目的が最も重要である。戦前の軍国主義教育は天皇の下、国民が一丸となって戦争に勝つためという目的の下、戦場で自分の命を捧げる教育を施した。その行きつく先は神風特別攻撃隊の悲劇である。彼らは為政者の設定した間違った目的遂行のために犠牲になり、若く尊い命を洋上で散らした。目的もなし学ぶことは、このように人を盲目にし、支配者に従順に従わせるロボットにすることである。
 グローバリズムやテクノロジーの進展で世界はめまぐるしく激変している。こうした激動の時代にあって、自分を取り巻く状況のなかで自ら課題を発見し、これを解決する能力が求められている。学びの目的はこのような、問う力を育てることにある。戦前のファシズムにつながらないためにも、「なぜ学ぶのか」の問いを教師が封印してはならない。
 従来の教育では、決められた公式に問題をあてはめれば答えが出る、という固定化したマニュアルを教師が一方的に生徒に押し付ける形式であった。計算能力において速度や精度で人間はAIに叶わない。AIに勝つためには問いを元に公式を立てる能力が求められている。教師に必要なのは子どもたちの問いかけに対して謙虚に耳を傾ける姿勢である。(800字)

👇オンライン個別授業(1回60分)【添削指導付き】


いいなと思ったら応援しよう!