「コロナ禍における<フーコー>の生権力」明治大学情報コミュニケーション学部2020年編入試験
(1)問題
以下の問題文では、新型コロナウイルスの世界的(パンデ)流行(ミック)が私たちの社会において引き起こした問題について語られている。この文章の内容を要約し、具体的な例を挙げながら自分の意見及び論拠を論述しなさい。(800字以上1200字以内)
2020年春から、ウイルスと接触する機会を減らすために、「動く」自由が強制ないし自制という仕方で大幅に制約されてきた。H.アーレントによれば、他者との「間(in―between)」を導き、言葉や行為において人々が相互に出会う公共的空間を成り立たせるのは、人々の「動く」自由である。この自由がなければ、私たちは他者との「間」を失い、互いから切り離された孤立の状況を強いられる(拙稿「自由論-複数性のもとで「動く」自由」、『アーレント読本』法政大学出版局、2020年、参照)。たしかに、急速に発展を遂げつつある情報通信技術は、私たちがオンラインで「動く」ことを可能にしたし、物理的な距離を克服して新しい「間」をつくりだしてもいる。「ツイッターデモ」にも見られるように、人々が連携して「動く」という異議申し立ての形も現れた。
しかし、コロナ禍は、リアルな「社会的(ソーシャル)な隔たり(ディスタンス)」があることも明るみにだした。遠隔での仕事が可能かどうかはそもそもそうした働き方ができるかに依存し、教育を受ける機会も端末、接続環境あるいは操作スキルによって左右される。同じ都市に住んでいても子どもたちに開かれている人生の展望は深い溝によって隔てられている(たとえば、R・パットナム『われらの子ども』創元社、2017年、参照)。人種をはじめとして、いまだに埋められずにいる隔たりも、また新たな抗争の火種となっている。電子メディア空間でも、公共圏と公共圏は相互に媒介のない分極化の様相を呈している。〔中略〕
パンデミックの脅威にさらされることによって、私たちの問題関心は否応なく生命の安全や健康に向けられてきた。この感染症は、私たちの身体が、制御しきれない微細なものの交換をつうじてつねに外に開かれている事実をあらためて認識させた。一人ひとりの健康はまさしく公衆衛生 ( pubic health ) のうえに成り立っていること、健康への過剰ともいえる関心の影で、この公共的な健康がいかにおろそかに扱われてきたかも明らかになった。この認識は、軍事や治安を含めてセキュリティを構築するための社会的資源の分配のあり方を問い直す機会をもたらしている。
公衆衛生は、M・フーコーのいう生権力-「群れ」(集合的な生)を対象として、それを調整・管理する「生政治」―の核心を占めるテーマである。今世紀に入ってからの新興感染症の相次ぐ登場、そして温暖化の昂進による熱帯性感染症の拡大のリスクは、人口減少への対応と並んで、防疫という古来のテーマを間違いなく今後の生権力の主題としていくだろう。
生権力は「群れ」を対象とするけれども、人口=住民に対して一律に行使されるわけではない。たとえば、どの地域を隔離(ロックダウン)の対象とするか、どの年齢層を優先的に治療するかをめぐっては、感染リスクや症状の客観的な評価だけではなく、治安管理やある種の優生思想が入り込む余地がある。誰を誰からまもるべきか、誰の犠牲をやむなしとするかの判断が実際にどうなされているかは、世界各地での対応にもうかがい知ることができる。その一方で、健康を損なうリスクに日常的にさらされている人々にも注目が喚起されてきた。栄養の摂取、ライフラインや医療ヘのアクセスにおいてすでに危機的な状況に直面してきた人々への関心である。きわめて非対称的な生活条件への関心を一時のものに終わらせずに、セキュリティの制度や政策の再編にいかにつなげていくことができるかが問われる。
生権力については、情報通信技術との結びつきにも関心が寄せられている。いくつかの国は、感染経路を特定する技術を用い、感染拡大を防ぐうえでそれが実効的であることを示して見せた。今後、個人別の生体識別や罹患歴等のデータが利用されるようになれば、まさに「群れ」の一匹一匹に注目し、それらが良好な状態にあるように予防的に管理する生権力(フーコーは「司牧権力」とも呼んだ)は、完成の域に近づいていくかもしれない。とはいえ、個人毎に収集・蓄積された情報がどのように利用されるかについては、まだ有効な制御の回路を見出しえていないように思われる。個人が提供する情報が明確に限定された目的のためにのみ用いられる保証がない以上、生権力による監視や管理を警戒すべき理由は解消しない。GAFA※に代表される情報産業はすでに各人それぞれにきわめて選択的な情報環境を提供している。私たちは制御しがたいものによって制御されていることを日々薄々とは感じながらも、その「プラットフォーム」から降りられずにいる。
リモートワークが一方で拡がるなか、生命や健康の維持にとって欠かせない仕事に就く人々が、エッセンシャル・ワーカーとして再評価されつつある。なかでも医療・看護・介護(介助)・保育など身体接触をともなう関係においてケアを提供する活動の重要性が認識されたのは望ましいことである。ケア提供者自身に対する社会的ケアの必要は繰り返し指摘されてきたが、そうした指摘を受けても過酷な労働条件や低い報酬はほとんど改善されてこなかった。そして、そもそもケアの提供を誰が担うべきなのかという問題は、真剣に論じられることもなく、家族や外国人労働者に依存する仕方で先送りされてきた。移動の制約がこの問題を真剣に受けとめる機会になるかどうかもまだ分からない。いずれにしても、生の必要や困難に応じてくれる具体的な他者との間に持続的な関係をもつことがさらに得がたいものになってきているのはたしかである。
GAFA※アメリカのIT関連企業を代表する、グーグル(Google)、アマゾン(Amazon)、フェイスブック(Facebook)、アップル(Apple)の頭文字を並べたもの。(齋藤純一『政治と複数性』岩波書店、2020年。文章は一部変更してある。
(2)考え方
フーコーの生の権力はこの問題のキーワードとなる。
フーコーは権力を分析するなかで、前近代の暴力による直接的な民衆支配ではなく、教育や啓蒙・啓発によって、民衆が自発的に権力に従うように仕向けるように制度やシステムを整えていった。
その際、監視が重要な民衆統治の方法となる。
近代が生み出した、刑務所の囚人監視システムをパノプティコンという。
監視塔に1人の看守がいて、すべての監房を一瞥(いちべつ)で目視できるようになっている。
ポイントは、看守には囚人を見ることができるが、囚人には監視する人間を見ることができないという特徴にある。
監視される者は絶えず監視者の見えない視線を気にすることで、自省的な行動をとることを自ら強いられる。
極端に言えば、監視塔には誰もいなくても、このパノプティコンはうまく機能する。
この仕組みは現代の街頭や公共施設に設置された監視カメラに応用されている。
刑務所と違うのは、監視の目的は「(悪人の)脱獄や暴動などの逸脱行為を抑止する」ものではなく、「(善男善女であるところの)民衆の安全と安心を守る」ことにある。
だが、これは表向きの理由で、実際の権力者の意図としては、すべての人が権力からの逸脱や権力に対する反抗を企て、実行することを(民衆の自制心や「公共心」に訴える形で)未然に防ぐことにある。
一見、善意の下で置かれた監視カメラであるが、その本質は刑務所と同じように、最小限度の力で最大限に民衆を支配するパノプティコンの思想で完徹されている。
こうした露骨な権力の仕組みは、今回の新型コロナウイルス感染拡大期のような非常時に顕在する。
そして、実はこの問題は、監視カメラのような即物的なものだけでなく、私たちが日常用いているSNSなどのネット空間にも顕著に見られる特徴である。このことも看過してはならない。
ここまで補助線を引いたので、この先は受験生の皆さんで考えてください。
(3)解答例
「動く」自由は他者との「間」を導き、公共的空間を成り立たせる。コロナ禍で自由が制約された結果、人々は「社会的な隔たり」の下で孤立した。この感染症は公衆衛生の軽視を明らかにし、セキュリティを構築するための社会的資源の分配のあり方を問い直すときに、フーコーのいう生権力の核心となるテーマを顕在化した。生権力は、情報通信技術と結びつき、人々を個別に管理するようになる。リモートワークが一方で拡がるなか、ケアを提供するエッセンシャル・ワーカーの活動と他者と持続的な関係をもつことの重要性が認識されたのは望ましい。
精神の自由、とりわけ言論の自由は民主主義を成り立たせる上で基礎となる人権であり、この権利の保障が戦後の最大課題とされた。しかし、コロナ禍で行われたロックダウンや外出規制、旅行や会食などの制限などは移動の自由は、すなわち身体の自由とかかわるものであり、精神の自由は身体の自由と分けて考えられるものではない。移動の自由が対面的な公共空間を形成し、この空間での対話が私たちの生を形作り、開かれた民主主義のあり方を規定する上で必要不可欠であることが今回のパンデミックで再認識されたからである。
ネット空間では、同じ趣味や価値観、志向の人同士が集まり、閉鎖的な島宇宙が散在して、その結果、集団間は互いに隔絶する。一方、身体性を伴った物理空間では、私たちは移動を通してさまざまな他者と出会い、互いの存在価値を確認しあうことで開かれた公共空間を形成する。ところが、コロナ禍でつくられたステイホームや黙食・黙浴といった、人々の行動変容を促す規制は人々のこうした結びつきに干渉し、制限を加える。感染拡大防止という非常時のマナーが、平時のルールに拡大されたとき、私たちの人権はおろか生の基盤までもが脅かされ、民主主義は大きく後退する。さらには、自粛警察に代表される相互監視は、市民の間に警戒と不信の広がりを生み、国民の間に亀裂と分断をもたらす。
新型感染症に対する人命尊重を理由にすれば新しいルールやマナーによって人々のつながりに軛を入れることが許される。こうした、「人の命を盾に取る」風潮に屈してはならない。サウナ(ウイルスは湿度や高熱に弱い)での黙浴が妥当なのか。営業自粛要請に応じないパチンコ店がバッシングを受けたが、これまでパチンコ店でクラスターが発生したことがあるのか。こういった検証がなされることなく、雰囲気やイメージでメディアは(叩きやすい)パチンコ店を悪者にし、過剰にソーシャルディスタンスや新しいルール・マナーを強要してきた。私たちはこうしたプロパガンダに流されるのではなく、しっかりとしたエビデンスをもとにリスクを定量化することで、ルールや休業要請の妥当性を開かれた場で議論する。こうした手続きこそが民主主義の後退を食い止める唯一の手立てである。
(1200字)
※今回の問題は明治大学の編入試験から採ったものですが、大学入試では、早慶上智の推薦入試や慶應義塾大学、特にSFCの入試小論文で出題される可能性があるものです。
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