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「立憲主義の原則~公と私」慶応義塾大学法学部2017年

(1)問題

次の文章を読み、著者が立憲主義をどのような原則として理解しているかを明らかにしつつ、それに対するあなたの考えを述べなさい。

① 公と私の区分は、決して人間の本性にもとづいた自然なものではない。人間の本性からすれば、自分が心から大切だと思う価値観は、それを社会全体に押し及ぼしたいと思うものである。しかし、そうした人間の本性を放置すれば、究極の価値観をめぐって「敵」と「友」に分かれる血みどろの争いが発生する。それを防いで、社会全体の利益にかかわる冷静な討議と判断の場を設けようとすれば、人為的に公と私とを区分することが必要となる。

② 立憲主義的な憲法典で保障されている「人権」のかなりの部分は、比較不能な価値観を奉ずる人々が公平に社会生活を送る枠組みを構築するために、公と私の人為的な区分を線引きし、警備するためのものである。プライバシーの権利、思想・良心の自由、信教の自由は、その典型である。

③ たとえば、社会の多数派が支持する宗教の信者が、自分たちの宗教を支援するために、税金の一部を使うというかたちで政治権力を利用することがありうる。そうした制度は、その宗教を支持しない人間にとっては、自分たちの財産を強制的に自分の支持しない宗教のために没収されることを意味するだろう。その制度が、当該宗教が正しい宗教であることを根拠としないで、公の場で根拠づけられることは、想像しがたい。

④ そうした制度を提案する人々は、別の論拠を公の場で持ち出すかもしれない。たとえば、宗教施設が文化財としての意義を持つとか、宗教団体が学校教育に関して重要な役割を果たしているとか。しかし、そうした根拠を持ち出すからには、同じように文化財としての意義を持つ他の宗教施設にも財政支援をすべきだろうし、学校教育にかかわっているからには、他の宗教団体にも財政支援を行うべきことになるだろう。

⑤ したがって、文化の保護や教育への助成といった別のもっともらしい根拠を持ち出して、外形上、特定の宗教を支援する財政措置がとられるときは、実際にとられている措置が、持ち出されている根拠と厳密に見合っているか否かを審査しなければならない。目的と手段とが厳密に見合っていなければ、やはり、当該措置の裏側には、特定の宗教を支援しようとする社会の多数派の意図があるといわざるをえない。そして、そうした措置は、当該宗教を支持しない人々を、その宗教上の信念のゆえに、社会のなかの二級市民として位置づけていることになる。それは、信教の自由を明らかに侵害する。

⑥ 憲法学のジャーゴン(専門語)で、違憲審査の場面において「厳格な審査基準」が適用されるべきだとされる一群の問題がある。思想・信条や表現活動に対する政府の規制が行われることがあるが、そうした規制が、思想・信条や表現の「内容にもとづく規制」、つまりどんな思想や表現が提示され、標榜されているかに即して規制をする場合には、裁判所は厳格な審査基準をあてはめて、そうした規制を行うべき真にやむをえない理由があるかを審査すると同時に、そうした理由づけと、実際に採用されている規制手段とが厳密に見合っているか否かをも審査すべきだとされている。

⑦ そうした「内容にもとづく規制」は、表向きはもっともらしい理由によって正当化されていても、実際には、特定の思想や表現を抑圧したり、あるいは助長したりするために行われている危険性が高いという想定にもとづく審査手法である。表向きのもっともらしい理由と、実際に採用されている規制手段とが充分に見合っていない場合には、実は、そうした規制を設けた政治的多数派は、別の隠された意図をもってその規制を設けていると推定されることになる。究極的な価値観のせめぎ合いが社会生活の枠組みを破壊することのないよう、裁判所が公と私の境界線を警備する活動の一環である。

⑧ 個人が私的な領域でいかに生きるかに干渉しようとする政策も、やはり、公と私の区分を損なうおそれが強い。二○○二年六月に、アメリカ連邦最高裁判所は、同性同士の合意にもとづく性的交渉を犯罪として罰するテキサス州法を、プライバシーの権利を侵す違憲の法律と判断した(Lawrence v. Texas)。

⑨ 合意した大人の人間の性行動を、それが性道徳に関する社会の多数派の観念に反するからといって、国家権力をもって禁止しようとすることは、人生をいかに生きるべきかは一人ひとりが判断すべきことがらだという、公私区分論の大前提に反する。それは、個々人の生き方を自律的に判断する点であらゆる人の平等を認める立憲主義の前提と衝突する。

⑩ こうした論点を、憲法が明文で認めていない権利――同性同士の性的交渉の自由――を裁判所が新たに創設し、保護することができるか否かという問題として設定し、議論しようとする人々がいる。しかしながら、問題は、同性同士の性的交渉の自由が憲法上保障されているか否かという矮小化されたレベルのものではない。具体的なあれこれの自由が憲法によって保障されているか否かは、二次的な問題であり、核心的な問題を解決した結果を後から振り返ったとき、たまたま現れる帰結である。

⑪ 立憲主義から見たときの本当の問題は、人生はいかに生きるべきか、何がそれぞれの人生に意味を与える価値なのかを自ら判断する能力を特定の人間に対して否定することが、許されるか否かである。そうした能力を特定の人々についてのみ否定することは、彼らを社会生活を共に送る、同等の存在としてみなさないと宣言していることになる。そしてその理由は、彼らが心の底から大切にしている生き方が、社会の他のメンバーにとっては「気持ちの悪い」、あるいは既存の「社会道徳」に反するものと思われるからというものである。立憲主義はそうした扱いを許さない。

⑫ 二○○三年の二月、文部科学大臣の諮問機関である中央教育審議会は、教育基本法の見直しを提言し、その中で「国を愛する心」の涵養を、法改正にあたって原則の一つとして掲げている。この提言が論争を呼ぶのは、それが政党間の対立協調関係と複雑にからみあっているというだけの理由からではない。一つの問題は、「国を愛する心」つまり「愛国心」の内容がはなはだ不分明であるという点にある。

⑬ 漢字の読み方や算数の九九の計算法を教える、あるいは世界の主要国の首都の名前を教えるというのは、わかりやすい。テストをして答えを見れば、生徒が理解したか否かを見分けることは容易である。これに対して、「国を愛する心」が身についたか否かは、どうすれば見分けることができるだろうか。

⑭ 危ぶまれるのは、国旗や国歌といったシンボルを通して、「国を愛する心」が目に見える態度として現れているか否かが、見分ける方法として用いられるという事態である。「君が代」をココロを込めて歌ったり、「日の丸」の掲揚を見て、ジーンときたりするココロが育つことで「国を愛する心」が身についたのだとすると、単に訓練された犬と同様の反射的態度が身についたというだけのことである。シンボルに対して犬のように反応する生徒と、そうしない生徒とが現れたとき、両者で成績を異ならせることは何を意味することになるだろうか。

⑮ 「国を愛する心」という標語で、中央教育審議会が真に目指しているのが、社会公共の利益の実現に力を合わせようとする心なのだとすれば、それを育てるのは、たとえば、身近な環境問題や差別問題がどうすれば解決できるかを、理性的に分析する指導であろう。過去の歴史のゆえに、それへの反感をも含めてさまざまな反応を呼び起こしがちなシンボルを正面に掲げて、それへ示された態度いかんで成績を定めることは、むしろ、社会公共の問題に対するそうした冷静な分析をさまたげ、かえって、学校のなかに、正体のはっきりしないモヤモヤした感情をめぐる亀裂をもたらしかねない。

⑯ シンボルはあくまでシンボルであり、実体の代用品である。日本という社会、各自の生き方や価値観をそれぞれ大切にし、その反面、社会公共の問題については、各人の人生観や世界観が直接に露出しないような、つまり、異なる人生観や世界観を抱く人にも受け入れられるような議論を通じて、何がみんなのためになるかについて合意を得ようとする冷静な社会であれば、自然と人々は、その社会のシンボルにも敬意を示すようになるであろう。

⑰ 国旗や国歌に対する人々の態度は、実際の日本社会に対する人々の態度を鏡のように示しているだけのことである。鏡に映る自分の姿が気に入らないからといって、鏡の像を無理やり加工しようとしても、得られるものは多くないだろう。

⑱ 公教育の場における「愛国心」教育は、思想・良心の自由を侵害するがゆえに問題だといわれる。もっとも、問題なのは、憲法典の文言と教育基本法の文書とが矛盾するか否かという法令同士の関係にはとどまらない。そこで問われているのは、日本という社会のあり方である。
長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす」(ちくま新書、二〇〇四年)。試験問題として使用するために、文章を一部省縮・変更した。

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(2)解答例

 公権力が宗教や愛国心、社会道徳などといった究極の価値観を押し付けるためにもっともらしい理由をつけて思想・信条や表現活動の規制が行われたり、公金を不正に使用したりするといった行為は、さまざまな価値観の下に社会生活を送っている国民の私的領域に踏み込み、人権を侵害することになる。したがって立憲主義は公と私の人為的な区分を線引きし、比較不能な価値観を奉ずる人々が公平に社会生活を送ることができるような枠組みを構築している。また、裁判所は違憲立法審査制によりこのような枠組みをプライバシーの権利、思想・良心の自由、信教の自由といった人権尊重の立場から守るための活動をしている。

 2019年8月1日、国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」の企画展「表現の不自由展・その後」が開催された。同企画展では、全国の美術館で表現内容の問題から開催中止となったり作品解説を書き換えられたりした美術作品を展示し、公的施設での「表現の自由」を考える契機となることが目的とされた。しかし、慰安婦を表現した少女像や、昭和天皇の肖像群が燃える映像作品などに対して抗議や脅迫がなされ、3日間で展示が中止となった。その際、河村たかし名古屋市長が企画展の作品について「日本国民の心を踏みにじるものである」と批判し、大村知事に対して少女像などの撤去を求める要請をしたことが憲法で禁じる検閲にあたるものではないかと問題になった。
戦前、治安維持法によって集会結社の自由が制限を受け、政府に反対する出版物は検閲によって徹底的に弾圧され、軍国主義とこれに結果する太平洋戦争の惨禍を招いた。憲法で規定する表現の自由は戦前の誤りを繰り返さず、国民が国家権力から距離を置いて自由な言論活動ができることを保障する立憲主義の根幹である。芸術活動は国家権力に対する風刺や揶揄、常識や慣習に対する挑発的な表現によって私たちの固定観念を揺さぶり、問い直しを迫り、新たな視点や価値を再発見させるための仕掛けという一面を持つ。こうした作品に対して一部の人は不快や疑念を持つこともある。芸術作品の価値は快・不快や肯定・否定の二分法では測れないところにある。

 このような芸術活動に代表される表現の自由を守り、公権力の介入を食い止める立憲主義の立場からは市長の発言はとうてい許されるものではない。近年、豊かさの源としてダイバーシティに焦点が当てられている。多様性の確保のためにも、比較不能な価値観を持つ人々が公平に社会生活を送ることができる枠組みを維持する必要がある。

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