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「能力主義の意義とその批判」埼玉大学経済学部後期2023年

(1)問題

 

①  社会の分断が進み,民主主義が行き詰まりを見せている現代のアメリカ社会において「能力主義」の意義を批判的に問い直した次の文章を読んで,後の問いに答えなさい。

 

②  野球史に残る名選手ヘンリー・ハンク・アーロンは,人種隔離時代のアメリカ南部で育った。彼の伝記の著者ハワード・ブライアントの描写によれば,幼少期,「ヘンリーは,雑貨店で列に並ぶ父親が,後から入ってきた白人に否応なく順番を譲らされるのをいつも見ていた」。ジャッキー・ロビンソン(注1)が野球界の人種の壁を壊したとき,13歳だったヘンリーは大いに勇気づけられ,自分もいつかメジャーリーグでプレーできるはずだという希望を抱く。バットもボールもなかったため,あり合わせの物で練習し,兄弟が投げる瓶のキャップを棒で打っていた。彼はやがて,白人のベイブ・ルースが有していた通算本塁打記録を破ることになる。

③  ブライアントは胸に迫るこんな一節を書いている。「ヒットを打つことは,ヘンリーが人生で初めて知った能力主義の世界だったと言える」このくだりを読めば,能力主義を愛さずにはいられないし,能力主義こそ不正義への最終回答――才能は偏見にも,人種差別にも,機会の不平等にも打ち勝つという証明――だと思わずにはいられない。そして,その考えからは,正義にかなう社会とは能力主義的な社会であり,自分の才能と努力の許すかぎり出世できる平等な機会が誰にでもある社会だ,という結論に至るまで,ほんの一歩である。

④  (1)だが,それは間違っている。ヘンリー・アーロンの物語が示す道徳は,能力主義を愛するべきだというものではない。本塁打を打つことでしか乗り越えられない正義にもとる人種差別制度を憎むべきだというものだ。機会の平等は,不正義を正すために道徳的に必要な手段である。とはいえ,それはあくまでも救済のための原則であり,善き社会にふさわしい理想だというわけではない。

 

機会の平等を超えて

⑤  こうした区別を堅持するのは容易ではない。われわれは少数の人びとの英雄的な立身出世に触発され,ほかの人たちもまた足枷(あしかせ)となる状況を脱するにはどうすればいいかと問う。人びとが逃れたいと思うその状況自体を改善するのではなく,移動可能性をもって不平等の解決策とするような政治をつくりあげているのだ。

⑥  たしかに,障壁を破壊するのはいいことだ。どんな人も,貧困や偏見によって抑圧されてはならない。だが,善き社会の土台となるのは,難局を乗り越えられるという約束だけではない。もっばら(あるいは主として)出世だけを目指していると,民主主義に必要な社会的絆と市民的愛着を培うのが難しくなってしまう。われわれの社会よりも出世の機会に恵まれた社会でさえ,出世できない人もしかるべき場所で活躍し,自らを共同作業の参加者と見なせるようにする方法を探る必要がある。それができていないせいで,能力主義的な資格を持たない人は生きづらく,居場所がないように感じてしまうのだ。

⑦  機会の平等に代わる唯―の選択肢は,不毛かつ抑圧的な,結果の平等だと考えられがちだ。しかし,選択肢はほかにもある。広い意味での条件の平等である。それによって,巨万の富や栄誉ある地位には無縁な人でも,まともで尊厳ある暮らしができるようにするのだ――社会的に評価される仕事の能力を身につけて発揮し,広く行き渡った学びの文化を共有し,仲間の市民と公共の問題について熟議することによって。

 

民主主義と謙虚さ

⑧  こんにちの社会には,条件の平等があまりない。階級,人種,民族,信仰を超えて人びとが集う公共の場はきわめてまれだ。40年に及ぶ市場主導のグローバリゼーションが所得と富のきわめて顕著な不平等を生んだため,われわれは別々の暮らし方をするようになってしまった。裕福な人と,資力の乏しい人は,日々の生活で交わることがほとんどない。それぞれが別々の場所で暮らし,働き,買い物をし,遊ぶ。子供たちは別々の学校へ行く。そして,能力主義の選別装置が作動したあと,最上層にいる人は,自分は自らの成功に値し,最下層の人たちもその階層に値するという考えにあらがえなくなる。その考えが政治に悪意を吹き込み,党派色をいっそう強めたため,いまでは多くの人が,派閥の境界を超えた結びつきは異教徒との結婚よりもやっかいだと見なしている。われわれが大きな公共の問題についてともに考える力を失い,互いの言い分を聞く力さえ失ってしまったのも,無理はない。

⑨  能力主義は当初,労働と信仰を通じて神の恩寵を自分に都合よく曲げられるという前向きな考え方として登場した。そこから宗教色が取り除かれると,個人の自由が晴れやかに約束され,こう考えられるようになった。道命を握っているのは自分自身だ。やればできる,と。

⑩  しかし,そうした自由の理念は,共有された民主的プロジェクトの義務からわれわれの関心をそらすものだ。ここで,第7章で考察した共通善(common good)に関する二つの考え方,すなわち消費者的共通善と市民的共通善を思い出してほしい。共通善が消費者の幸福の最大化にすぎないなら,結局のところ,条件の平等の達成はどうでもよいことになる。民主主義が手段の異なる経済,つまり個人の利害と嗜好の総計の問題にすぎないなら,その運命が市民の道徳的絆に依存することはない。われわれが活気ある共同生活を共有しようが,同類ばかりが集まる私有化された飛び地に暮らそうが,消費者的な民主主義概念はそのごく限られた役割を果たすことができる。

⑪  だが,共通善に到達する唯一の手段が,われわれの政治共同体にふさわしい目的と目標をめぐる仲間の市民との熟議だとすれば,民主主義は共同生活の性格と無縁であるはずがない。完璧な平等が必要というわけではない。それでも,多様な職業や地位の市民が共通の空間や公共の場で出会うことは必要だ。なぜなら,それが互いについて折り合いをつけ,差異を受容することを学ぶ方法だからだ。また,共通善を尊重することを知る方法でもある。

⑫  人はその才能に市場が与えるどんな富にも値する,という能力主義的な信念は,連帯をほとんど不可能なプロジェクトにしてしまう。いったいなぜ,成功者が社会の恵まれないメンバーに負うものがあるというのだろうか? その問いに答えるためには,われわれはどれほど頑張ったにしても,自分だけの力で身を立て,生きているのではないこと,才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで,自分の手柄ではないことを認めなくてはならない。自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じれば,ある種の謙虚さが生まれ,こんなふうに思うのではないだろうか。「神の恩寵か,出自の偶然か,運命の神秘がなかったら,私もああなっていた」。そのような謙虚さが,われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を超えて,怨嵯(おんさ)の少ない,より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。

(マイケル・サンデル(鬼沢忍訳)『実力も通のうち―能力主義は正義か?』(早川書房,2021年)の終章「能力と共通善」より。一部省略,改変してある)

(注])ジャッキー・ロビンソン(JacheRobinson,1919~1972年)…20世紀の米メジャーリーグ初の黒人選手で,1947年にデビューした。相手チームの選手から対戦を拒否されたり,ファンからは心無い野次を浴びせられるなど,激しい人種差別を経験しながらも,優れた成績で様々なタイトルや賞を獲得し,有色人種のメジャーリーグ参加の道を開いた。

(注2)消費者的共通善と市民的共通善…「消費者的共通善」とは,個々の消費者の幸福の最大化によって共通善が達成されるという考え方を指す。「市民的共通善」はこの考え方を排し,共通善を考えるうえで,市民的美徳ないし価値のある充実した人生を送ることを重視する。そこでは,正義にかなう善良な社会の実現方法および政治共同体の目的に関して,市民が互いに熟議を交わすことの意義が強調される。

 

問1    太字1について,「それ」が指す内容を明らかにしたうえで,筆者がそれを「間違っている」と述べるのはなぜか,本文の内容に即して400字以内で説明しなさい。

問2    能力主義的な社会の代替案として,筆者はどのようなものを提示しているか,それに対するあなた自身の考えもあわせて400宇以内で述べなさい。


(2)解答例

問1

才能は偏見や人種差別,機会の不平等にも打ち勝つという考えの下に立ち,能力主義的な社会が正義にかなう社会であり,個人の才能と努力の許すかぎり出世できる平等な機会が誰にでもある社会だ,という結論は間違っている。機会の平等は不正義を正すために道徳的に必要な手段であるが,それはあくまでも救済のための原則であり,善き社会にふさわしい理想ではない。能力主義は,民主主義に必要な社会的絆と市民的愛着を培うことを困難にする。出世できない人もしかるべき場所で活躍し自らを共同作業の参加者と見なせるようにする方法を探る必要がある。機会の平等に代わる唯―の選択肢は,広い意味での条件の平等である。社会的に評価される仕事の能力を身につけて発揮し,広く行き渡った学びの文化を共有し,仲間の市民と公共の問題について熟議することによって巨万の富や栄誉ある地位には無縁な人でも,まともで尊厳ある暮らしができるようになるからである。(400字)

 

問2

善き社会を実現するために社会的に評価される仕事の能力を身につけて発揮し広く行き渡った学びの文化を共有し,仲間の市民と公共の問題について熟議する市民的共通善が重要であると筆者は主張する。しかし,このような潜在能力を十分に発揮できずにいる人も大勢いる。その結果,人々は学びの文化から社会的に排除され公共の場で熟議する機会を与えられずに,社会から孤立し差別され尊厳ある暮らしを送ることが困難な状況にある。その理由は恵まれない家庭環境に生まれついたせいで十分な教育機会や就業機会を奪われているからである。これが差別や貧困などの不正義の温床になっている。こうした不正義を正すには潜在能力を発揮できる前提となるウェルビーイング,つまり肉体・精神・社会的に全てが満たされた状態を人々に提供することで可能となる。これを実現するには医療・衛生に加えて教育等の公共サービスへの包摂的なアクセスをデザインすることが帰結される。(400字)

 

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