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【過激に考える/英語の受験勉強の大半は間違っている】

今年、慶應義塾大学総合政策学部に一般受験で合格した教え子が、とにかくユニークだった。

仮にO君としておく。

英語と小論文以外はいわゆる受験勉強は一切せず、本ばかり読んでいた。

読むペースがハンパない。

1週間に2冊も3冊も読む。

面白い本は学校の授業中にも読んでいたという。

教師に注意されても、どこ吹く風。学校のお勉強の大半はつまらない。

教師が知的でないから、馬鹿にしている感じである。

そんなところは、私と似ている。

そのくせO君はべらぼうに英語ができる。

ガリガリやらなくても、自然とわかるそうだ。

つい最近まで5文型を知らなかった。

(私も受験は宅浪で、5文型がわからなかった。)

英文法が馬鹿馬鹿しいという感想もO君と一緒。

だいたい、私たち日本人は日本語文法を習わなくても、日本語の読み書きは自然と身に付いた。

社会人になって、英語の教師にでもならない限り英文法の知識がなくても不便ではない。

(だから、英文法はまったく不要、と言いたいのではない。大学に入ってから、言語学を学んだり、英語を他の言語と比較したりする際には英文法の知識は必要になる)

英文法は英語を教える側の便宜で用いるもので、英文法そのものが入試問題になること自体、ナンセンスだ。

英語を学ぶ目的は2つ。

外国人の彼氏彼女をつくったり、喧嘩したりするときに、ことをうまく運ぶためだ。

外国人と仲良くなったり、ビシッ英語で啖呵を切るのは、ビジネスの現場や国の外交でも最重要課題だろう。

ちょっとした観光旅行で使いたいなら、そんなに英語をガッツリ勉強しなくても、カタコト英語でたいていはうまくいく。

英語に対するこんな見解も私とO君とでは一致した。

英語をつまらなくしているのは、文法ばかり教えている教師のせいだ。

でも、英文法が入試で出題されるのは、客観的な評価をつけやすいからでもある。

つまりは、大学側の出題と採点の便宜のためだ。

ここは英語学習の本質ではない。

こういうことも考えずに、ただひたすら英文法を一生懸命教えている大半の教師に対して、内心軽蔑している。

(こんなことを書くと、読者が減るだろうなあ)

ともあれ、それでもO君は難しい慶應義塾大学総合政策学部の英語の試験を突破して、無事合格を果たした。

この文章を読んでいる受験生に伝えたい。

なぜ、いま、その勉強をしているのか。

親や教師に言われるままだったら、改めて自分の頭で考えてほしい。

「なぜ学ぶのか」

英語に限らず、この問いかけをせずに、ただ苦行でしかない勉強をするのは、人生の徒労にしかすぎない。

学びのその先にあるもの。

O君と私は、こうした意識を持ちながらともに半年間、小論文を通して、いま日本が、世界が直面する問題を考えてきた。

慶應義塾大学総合政策学部に合格するには、「これでいいのか、受験勉強」という問題意識を深く持って、その延長線上に「これでいいのか、日本」と、自分を取り巻く環境や社会に対して真摯に向き合う姿勢が何より求められる。

事実、SFCの小論文はこうした問題意識の下に課題を発見、解決する内容が問われている。

近視眼的な学校や塾の教師の言うことなど聞いてはいけない。

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英語教師が英文法を教えたがるのは、取りあえず文法だけ教えておけば「間違えない」からだ。

奴らは「間違えることを恐れる」。

そのあまり、深くて難しい問題については考えること、教えることを避ける。

そして、確実に「正しい」文法的な知識を中心に教える。

これでは、慶應義塾大学総合政策学部クラスの問題は解けない。

間違えてもいい。

英文が問いかけている、現代社会が直面する問題を英語を通してもっと考えよう。

O君担当の英語の個別指導教師(S師)はそういうタイプの人だ。

今回の合格は、O君と私とS師の3人のトロイカで勝ち取ったものだ。

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