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「ナショナリズムによるスポーツの『真剣化』」早稲田大学スポーツ科学部2016年

(1)問題


次の文章を読み,考えることを801宇以上1000字以内で述べなさい。


① これまでわたしは, スポーツ参加がますます真剣になっていく傾向についての形態的

説明を概略的に提示した。それに関連した発展,つまりその過程でスポーツの社会的意義が発生した発展についてはさらに議論の余地がある。これは複雑な問題であり,目下の状況に おいてはただ簡単に触れられるだけである。実際的にもイデオロギー的にも,労働と余暇のバランスが変わりつつあるということ,余暇活動一般の社会的な意義を増大させてきた過程は別にしても,出現しつつある近代の社会的形態の少なくとも三つの相互に関連する側面の集合は,スポーツの社会的意義の増大に寄与したとして特筆される。それはつまり,(1)スポーツは楽しい興奮を生み出す主な手段のひとつとして発展してきたという事実,(2)スポーツは集団的一体感の,主な手段のひとつとして機能するようになったという事実,(3)スポーツは多くの人々の生活のなかで重要な意味の根源をなすようになったという事実である。(中略)


② そのような状態,つまり,スポーツがふたつもしくはそれ以上のチーム,ふたりもしくはそれ以上の人間の間の勝利をめぐる戦いであり,スポーツが集団的一体感の中心として際立った位置を占めているという事実は,おそらくスポーツに元来備わっている対抗的な性格なのであろう。これはスポーツが集団の一体感,もっと正確にいえば,都市,州,国,のレベルのようなさまざまなレベルで「内集団」や「外集団,あるいは「われわれ集団」や「かれら集団」の形成に役立っていることを意味する。その対抗的な要素は重要である。というのは,対抗が内集団の一体感の強化に役立つからである。つまり, 集団の「われわれ性」という感覚や協同性が,「かれら」とみなされる集団である相手チーム―それが地方的であれ国家的であれ―とその支持者の存在によって強められるのである。実際,国内の和平が達成されている民族国家という状況においては,つまり,国家が物理的力を行使する権利を効果的に独占した社会では,スポーツは,都市のように大きくて,複雑で,非個人的な社会単位が結合する唯一の機会を与える。同様に,国際的なレベルでは,国際オリンピック大会やワールド・カップのようなスポーツ大会が,すべての民族国家が整然と,そして明らかに手を結ぶことのできる唯一の平時の機会を与える。スポーツの国際的な普及は,国際的な相互依存の発展,および,いくつかの顕著な例外を含みながら,脆くて,不安定な世界平和の存在に基づいてきた。オリンピックのような競技大会は,異なった国々の代表がお互いに殺し合うことなく競争することを可能にさせる。もっとも,そのような競技大会が模擬戦から「本当の」戦いに変容する度合いは, とりわけ,競技に参加している特定の民族国家の間に前から存在していた緊張のレベルの作用であるのだが。そして,もちろん,この最も高度なスポーツの競争に効果的に参加するために,最も高度なレベルの持続的な業績の動機づけ, 自制,克己が選手の側に要求されることになる。


③ これによってわたしは自分の最後の要点に到達することになる。それはつまり,国際的な競争で成功を求めて戦っている世界中の国々の男女のスポーツ選手に加えられる社会的圧力が,スポーツにおける遊びの要素の破壊をさらに推し進める原因になっているということである。さらに,そのような圧力と,国際的なスポーツにおける成功によってもたらされる国家的名誉の増大こそ,ホイジンガー(注)が嘆いたあの国家のスポーツヘの介入という傾向を主に促してきたのである。スポーツは戦争の実行可能な代用であるということが主張されてきた。しかし,そのような考えは,スポーツをある抽象的なも の,スポーツに参加する相互依存的な人間の形態とは無縁の何かと見なすことを意味する。それは重要な問題である。つまりそれは,スポーツや他の領域での相互依存的な人 間によってかたち作られる形態は協調と友好的な競争意識に資するものなのか,ある いはそれは絶え間なく真剣な戦いを生み出すのかという問題である。

(注)オランダの歴史家

(2)解答例

 安倍政権は働き方改革を掲げ、長時間労働の是正によってワーク・ライフ・バランスを改善させることを目標にしている。こうした動きは余暇活動の社会的な意義が増大し、特にスポーツが今後とも重要な役割を果たすものと予測される。

 若者の余暇活動や中高年が健康増進の目的も兼ねて行なうスポーツは、真剣な競技というよりも遊びとしての性格を色濃く持つ。カイヨワは、人類の遊びをアゴン(競争)、アレア(運)、ミミクリ(模擬)、イリンクス(眩暈)に類型化した。彼の定義では競技スポーツはアゴン(競争)に分類されるが、競技のさなかの眩暈に似た興奮はイリンクスを想像させ、ときには気象条件やゲームの流れが勝敗を左右する点はアレア(運)の要素を併せ持ち、筆者の言うように戦争を模擬した性格はミミクリに合致する。そして何より、スポーツは遊び仲間との一体感を生みだし、遊びとしてのスポーツは市場経済の真剣な競争を忘れさせる。その「ゆるやかな競争」は生活にゆとりとやすらぎを与える重要な根源をなす。

 一方真剣なスポーツを志向すると事態は緊迫感を増す。「われわれ集団」は対戦相手の「かれら集団」に対して敵対関係を生み人々を分断する。これが国際大会ともなれば、紛争国どうしのカードは国益をかけたぶつかり合いとなり、国家間の対立をさらにエスカレートさせる危険性を伴う。大会に出場する選手は、勝つこと、メダルを取ることだけが至上命題とされ、国民の期待は過大なプレッシャーとなって選手個人にのしかかり、過度なトレーニングもあいまって選手の心身に選手生命を奪う致命的なダメージを与えることになることも少なくない。このようなスポーツの持つ負の側面を解消する方策はないものか。

 それはラグビーのノーサイドに象徴されるパートナーシップに解決の糸口が見いだされる。競技スポーツであってもゲームが終了すれば対戦相手は一緒にプレーを楽しんだ仲間として再確認され、互いに健闘を称え合うことが求められる。このノーサイドの精神の中に、スポーツが本来持っている仲間と遊ぶという要素を見出すことができる。競技スポーツは相手がいなければ成立しない。こうした相互依存的な関係は国際協調や民族、宗教などの属性を越えた友好的な関係を構築することに資する。スポーツの持つ遊びの本質には、現代社会が直面する分断と対立の問題を解決する手掛かりがあると確信する。

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