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「人生における時間の価値」九州大学文学部後期2014年

(1)問題


設問 次の文章を読み,筆者は現代社会における時間の使い方の何が問題であるとしているのか,あなた自身の言葉で要約しなさい。それをふまえ,人生における時間の価値について,あなたの考えを論じなさい。字数は全体で1600字以内とする。
 
①  「今はそれどころじゃない」と大人が言う。すると子どもが「じゃあ,どれどころなの?」。
「こうしてはいられない」と大人。「じゃあ,ああしたら?」と子ども。ぼくたち大人は確かによく「こんなことをしている場合じゃない」と思い,またそれを口にする。では,どんなことをしている場合なのだろう。

②  「今はそれどころじゃない」と言われて,「それ」は否定される。外される。しまい込まれて,やがて忘れられる。「それどころじゃない」と一度言われた「それ」が,もう一度呼び戻されて「今こそそれを」となることはほとんどない。

③  「今はそれどころじゃない」と言われて,「今」はどうなるのか。「今」もまた「それ」を外されて空っぽになる。宙ぶらりんになる。「今はそれどころじゃない」は,一見,「今」を重く見た言い方のようでもある。つまり「大事な今」には「それ」よりもっと大事な何かがふさわしい,というわけだ。しかし,「今」が「それ」に代わる,よりふさわしい何かによって満たされることはなかなかない。だから大人たちの「今」はいつまでも空っぽのまま。子どもの目にはそれがよく見えるのだろう。

④  初めてヨーロッパを訪ねたサモアの原住民ツイアビは次のように語ったという。

⑤  「かりに白人が,何かやりたいという欲望を持つとする。……日光の中へ出て行くとか,川でカヌーに乗るとか,娘を愛するとか。しかしそのとき彼は,「いや,楽しんでなどいられない。おれにはひまがないのだ」という考えにとり憑かれる。だからたいてい欲望はしぼんでしまう。時間はそこにある。あってもまったく見ようとはしない。彼は自分の時間をうばう無数のものの名まえをあげ,楽しみも喜びも持てない仕事の前へ,ぶつくさ不平を言いながらしゃがんでしまう。だが,その仕事を強いたのは,ほかのだれでもない。彼自身なのである。」(『パパラギ』(注1))

⑥  ナマケモノ倶楽部の世話人の一人で,“スロー・ビジネス"を実践する中村隆市から聞いた話。ある団体が若者を対象にアンケート調査をやったところ,多くの若者が「将来のために今を犠牲にするのはバカげている」と考えていることがわかった。この結果について,これは現代の若者が刹那(せつな)的になっていることを意味しており深刻な問題だ,と新聞で論じているそうだ。

⑦  中村に言わせれば,「将来のために今を犠牲にするのはバカげている」という感性の方こそがまともなのだ。将来のために今を犠牲にし続けてきた大人たちの世界に,若者たちはもう見切りをつけようとしている。「もう,今を犠牲にするのはやめよう」という彼らの感覚は,必ずしも「今さえよければそれでいい」という投げやりな刹那主義と同じではないはずだ。

⑧  中村によると我々の現代社会は「準備社会」だ。そこでは,大人がいつも将来のための準備に忙しい。胎児は生まれた後のために胎教を施される。幼児はいい幼稚園に行くために準備し,幼稚園児はいい学校に行くために準備する。小学校ではいい中学を,中学ではいい高校を,高校ではいい大学を目指して準備に忙しい。いい大学はいい就職をするためのものだし,いい職場は自分たちのいい老後と,子どもたちのいい教育を確保するためのもの。そのいい教育はもちろん彼らのいい就職を準備し,そのいい就職は親の老後がよりよいものになるのを助けてくれるだろう。

⑨  「今」はまるで,いつ行っても予約でふさがっている歯科医みたいだ。

⑩  このことは現代社会が「保険社会」であることと深く関係しているだろう。年金や積み立て貯金をはじめ,広い意味での保険によって,我々は「今」を削り,切り縮めては「将来」を賄(まかな)おうとしているのだ。自分の命が終わることで家族の未来が確保される生命保険というしかけ。傷害保険や火災保険をはじめ,ありとあらゆる災難を想定し,それに対処しうる自分を準備するはずの保険の数々。「腕のない」とか「命のない」未来に備えて,そこでは,からだの部位のひとつひとつに,そして,命そのものに値がつけられている。

⑪  ミヒャエル・エンデの『モモ』(注2)では灰色の男たちが時間貯蓄銀行を営んでいた。そして大人は将来のために時間を節約し貯蓄すればするほど,「今」を奪われ,忙しく時に追われて不幸せになっていく。そんな大人たちの姿を見てバカバカしいと思っていた子どもたちも結局,「子どもの家」という名の矯正施設に収容されてしまう。そこではもう今までのように「貴重な時間のほとんどを役にも立たない遊びに浪費」することは許されない。そして未来の社会のために役立つようなことだけを覚え込まされた子どもたちは次第に「小さな時間貯蓄家といった顔つき」になっていくのだった。

⑫  若者の凶悪犯罪が増えていることについての議論が盛んだ。よく耳にするのは,今の若者が目標をもっていないことについての懸念で,彼らの生きがいとなるような目標を与えることが社会に求められているとする。しかし,そうだろうか。社会はこれまで子どもたちに目標を押しつけて,そのために今を犠牲にすることを強いてきた。そのことが多くの不幸せな若者たちをつくり出したのだと,ぼくには思えるのだが。メディアで「先行き不透明」という表現が頻繁に使われている。しかし本当に不透明なのは今,暗いのはすぐ足元ではないだろうか。

⑬  相変わらず,エリート大学を卒業する若者が金融業や保険業に職を求めて群がるというのも現代日本の現実。だが,その一方には「保険や年金や貯金なんてバカバカしい」という若者が増えているという現実もある。評論家の言うように,金融危機や高齢化などの不安材料の増加で,将来への投資が得策と思えなくなったという計算も確かにあるだろう。しかし,それと同時に,「今を取り戻したい」,そして「充実した今を生きたい」という思いが,大人の心の中で切実なものになりつつあるのではないか。ぼくにはそんな気がするのだ。
 
 
⑭  去年の夏,オーストラリアから来ている環境団体の代表ふたりを連れて,奈良県の川口由一を訪ねた。海外にも徐々に知られ始めている川口の「自然農」による田畑をこの目で見てみたいというたっての願いだった。川口は例によって田畑のひとつひとつを丁寧に案内してくれた。無農薬,無肥料,そして不耕。水田というにはほとんど水の見えない,「森」のように雑然とした畑に育つ稲は,これが稲かと見まがうほどに太く逞(たくま)しい。

⑮  見学が終わると,これも例によって,離れの客間でおいしい夕食となる。機械に頼らない人間の手作業に助けられてゆっくりと“自分らしく“育った穀物と野菜たちが,やがて収穫され,火にかけられ,漬け込まれ,調味されて食卓に並ぶ。ファスト・フードの対極,スロー・フードとはまさにこのことだ。

⑯  その食卓で,遠来の環境活動家たちを前に,川口は「答えを生きる」ことについて語ってくれた。「本来私たち人間はみな答えを生きるものだと思います。しかしそれがいつの間にか,問いをたてて,答えを生きるかわりに,その問いを生きるようになっていないでしょうか」

⑰  例えば,環境運動。在来種の種子を絶滅から守ること。絶滅危惧種の生息する生態系を守ること,二酸化炭素の排出を規制する法律をつくること。代替エネルギーを促進すること。原生林を破壊から守ること。それらひとつひとつはどれをとっても深刻な問題であり,重要な課題だ。またどれもがなくてはならない対策であり,立派な運動であるといえる。しかし,と川口は問う。それらの問題をたててその解決に取り組むことが,いつの間にか,「生きる」ということのかわりをするようになってはいないか。問題を追いかけることに忙しく,肝心の「生きる」ことがおろそかになってはいないか。

⑱  「現代の農民というのもそうですわねえ。かつては農民の生き方そのものであった農が,いつの間にか,解決すべき問題としての農業になってしまった。目指す収量,年収という目標に向けて,さまざまな手段を講じる。設計図にとらわれているんです。だから,今の農業では,種蒔きや田植えの時には不安がいっぱいですわねえ。果たして計画通りに芽が出るか,虫が発生しやしないか。未来についての不安が渦巻くんです。しかし本来農民が畑に種を蒔く時にはなんら不安はないのです。大安心があるから,楽しいんです。未来にとらわれていない。今を生きている。今の中には過去も未来も切り離されずに入っている。答えを生きるとは,そういうことだと思います」

⑲  川口によれば,いのちはおおもとのところでは無目的で,無方向だ。人類だけが自分を特殊な生き物だと思いなして,あたかも生きることに目的があり,方向があるかに思い描く。だが,さまざまな生命が生かし合い,殺し合ういのちのコミュニテイでは,めぐりながら,しかしどこに向かうというのでもない。そこにただあって,今を生き,目的なく営み続けるのみだ。そこには終わりも始まりもない。過去,現在,未来の区別もない。

(辻信一『スロー・イズ・ビューティフルー 遅さとしての文化」平凡社,二〇〇四年より。なお出題の都合により小見出しと文中注を省略した。)(

(注1)『パパラギ』はじめて文明を見た南海の商長ツイアビの演説集』岡崎照男訳,立風書房。

(注2)ミヒャエル・エンデ『モモ』大島かおり訳,岩波書店。


(2)解答例


 本来いのちは無目的で無方向であるのに,人類だけがあたかも生きることに目的や方向があるように考え,現代社会では大人がいつも将来のための準備のために今を犠牲にしている。未来に向けて問題をたててその解決に取り組むことが,いつの間にか,「生きる」ということにすり替えられている。

 未来は「未だ来たらず」と書く。未来は現前にない,いわばフィクショナルのものであって,未来は私たちの期待や願望の中にしかない。私たちは常に現在の中でしか生きられない。それなのに,このような架空の未来のために今を犠牲にするのは生を宙吊りにする行為である。

 現代社会の市場経済における時間は,たとえば同じ1時間の労働時間を考えてみれば,生産性を同じくする2人の労働者の間の1時間は等価として考えられる。2人の労働者にはそれぞれの人生における固有の時間が流れているはずであるが,市場経済における時間は均質でそれゆえ計測可能でそれゆえ取り換えが利くものとして扱われる。労働の現場には交換可能な時間が流れ,その中で生きる労働者も交換可能な商品とみなされる。

 しかし,本来,人間が生きる時間は均質でもなければ等価としても捉えることができない。ましてや一人ひとりの人生が交換可能なものであろうはずがない。私たちが自分の好きなことに夢中になっているときには,嫌いな勉強や仕事をしているときに比べて時間は速く流れる。熱中して心身を使い果たしたとしても心地よい疲労感が漂う一方で,嫌々ながらの作業の後では泥沼に浸かったように疲労感は抜けない。

 このように全ての時間を等価とみなす考え方は一見,経済や物理の客観法則に合致するように見えるが,私たちが生きる時間には当てはまらない。時間は各人の人生に内在し,各々の意識上、主観的に表れるものである。それはまた各人の寿命も異なり人間の時間は有限であることからも裏付けられる。

 そうである以上,私たちの時間は同質で均質なものとは言えない。未だやって来ない未来のためにいまを犠牲にするうちに私たちの寿命が尽きてしまい,将来に向けて準備した投資は空手形に終わってしまうことになるかもしれない。そんなことにならないためにも,かけがえのない今を大切に生きよう。愛する人とともにいるとき,大海の中に燃える太陽が没する夕景を前にしたとき,不朽の文学作品に接してその世界に没入するとき。私たちはいまのこの時間を永遠に留めておきたいと願う。時間の価値とは,このような一瞬一瞬を記憶のなかに刻印することによって生じる。私たちは永遠に生きることはできない。だが,有限な生をいまのひとときのなかに焼尽させることで,そこから再生する火の鳥の姿をふと目にすることができる。その可能性に賭けたい。

(1180字)

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