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工房から望む渡来の地

うちの工房から見て正面の山々の奥にある、#豊臣秀吉が築いた#肥前名護屋城。二度の朝鮮征伐から戻った際に大名たちと一緒に渡ってきたとされる#朝鮮王朝#李氏朝鮮からの#渡来人#陶工たち。

彼らが白磁の原料を求め肥前名護屋城から最終的に有田町泉山へ辿り着く肥前磁器創業最初期の道程を辿る中で、なぜ良質な原料が採掘される#泉山から離れた三代橋駅付近を中心にいくつも開窯されたのか。

その謎を解く答えのひとつに泉山が発見されたのは1630年代とされていて、有田焼創業は1616年となっている矛盾点があると考えられる。
それは有田焼創業に関わったとされる重要人物の金ケ江氏,家永氏,高原氏がほぼ同時期に三代橋(乱れ橋)付近(南原地区)へ移住したという記録と、産業としての有田焼を成立させるのに重要な意味を持つとされる#小溝窯#小物成窯 #天神森窯 #原明窯の最初期4つの窯が開窯された場所がこの南原地区だという事実を元に考えるとすれば
泉山陶石ではない別の原料が発見・使用されていた事を物語っているのではないだろうか。

当時は今ほど物流が整備されている訳もなく

「そこに原料があったから」

という考えが最も自然でシンプルだからである。


文責:ワタシ。。

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