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道草(12)「ミニコミ新聞にハマルの巻」その6

 ミニコミ新聞『みたかきいたか』に「みたかの顔」というコーナーがある。三鷹に関わる有名無名の人を紹介するコーナーで、創刊準備号から休刊になるまで75名が登場した。
 
 そのトップバッターは、創刊準備号の0号(1979年〈昭和54〉11月20日)に登場したおでん屋「三恵」の店主今聡子さんである。「三恵」は三鷹の連雀通りとむらさき橋通りが交差する南浦交差点から西へ50m先の路地を右(北)に20mほど入った所にあった8坪ほどの店である。今聡子さんは1907年(明治40年)青森県の津軽生まれで、高等女学校を出たあと結婚。一女をもうけたが40歳のとき夫が心臓病で急逝し、生きていくためにと慣れない居酒屋「三恵」を三鷹で開店した。当初は「やきとり」にも挑戦したが、結局「おでん」を中心とした店になり1954年(昭和29年)から1977年(昭和52年)までの23年間営業を続けた。

 おでん屋「三恵」は、1960年代から77年まで三鷹の青年教育受講生や講師の夜のたまり場となった。当時の三鷹市青年実務学校、後の三鷹市勤労青年学級の青年たちが学級の終わった後、食事や一杯やるために集まったのだ。その青年教育を支えた社会教育主事や講師も合流し夜の青年学級第二幕となったのである。その中心に店主の今聡子さんがいた。今さんは「おばちゃん」と呼ばれ、三恵は「おばちゃんち」となった。

 そしてもう一人の中心人物は三鷹市社会教育主事の小川正美さんである。種子島出身の小川さんは、地方から東京に働きに出てきた青年たちの教育に心血を注ぎ、「おばちゃんち」での濃密な時間も含め「三鷹の社会教育は酒会(しゅかい)教育だ」と言った。

 その小川さんも1995年(平成7年)8月に亡くなった。翌年から小川さんを偲ぶ会を「きずな祭」と命名して開催し、以来毎年全国各地に巣立った青年たちが集まった。今年は没後29年、当時の青年の多くは70代後半となり、この30回忌を区切りに「きずな祭」の最終回を9月に行うことを決めた。
 『みたかきいたか』の「みたかの顔」は、そんな人たちを紹介したいと企画されたのであった。



メールマガジン『ぶんしん出版+ことこと舎便り』Vol.35 2024/4/17掲載

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