【本】「君の膵臓をたべたい」「創造の狂気 ウォルト・ディズニー」「消失グラデーション」

「心が叫びたがってるんだ。」という映画を観に行った。過去のトラウマから喋ることが出来なくなった女の子を中心に、高校での人間関係を描く青春ストーリーだ。境遇はまるで違うが、その喋れない女の子のことが自分と重なるように感じられて、僕にとっては非常にグッとくる映画だった。

その少女のような、わかりやすい歪さは、当然視界に入りやすい。しかし、ごくごく普通に見える人間の中にも、歪さは存在する。主人公の一人、ごくごく普通をまさに体現するような少年が、こんな風に語る場面がある。

『喋りはするけど、思ったこととか本音とか、そういうことを言わないクセがついちゃってた。そのうち自分には、本当に言いたいことなんてないんじゃないかって、そんな風に思えてきた』

僕らは常に、歪なモンスターになる可能性を持っている。見えやすいか見えにくいかの違いがあるだけだ。見えやすい歪なモンスターを主人公にした三作品をどうぞ。

住野よる「君の膵臓を食べたい」

『膵臓のこと隠さなくていいのって君だけだから、楽なんだよね』

近い将来死ぬことが確実な溌剌とした少女と、他人に関心を持たない少年が、瞬間的に奏でる音色。その美しさに、僕は虜になった。

高校生の主人公は、本を読むことだけで世界と関わっている人間だ。生身の人間とは積極的に関わろうとせず、だから友人もいない。一方の山内桜良は、明るくて元気で、『全てのポジティブなことにいちいち反応する』クラスメイト。クラスの人気者であり、当然主人公とは関わりを持つはずもない。しかしある日主人公は、桜良が家族以外の誰にも打ち明けていない秘密を知ってしまう。
膵臓の病気で、そう遠くない未来に死んでしまうということを。
主人公はもちろん動揺したが、しかし彼にとっては関係ない世界の話だった。たまたま知った秘密を言いふらすつもりもないし、彼女と関わりを持とうとも考えなかった。
しかし、主人公の予想を超えた展開が待っていた。なんと桜良は、主人公と積極的に仲良くするようになったのだ。それまで、人間と関わってきたことのない主人公には、あらゆることが初めての経験だった。桜良は主人公と同じ委員になり、放課後や休日を一緒に過ごし、あまつさえ旅行に一緒に行きさえする。
主人公には、彼女が何を考えているのか、まるで理解できない。自分のような、地味で面白くもない人間と、死期の迫っている今、一緒にいるだけの価値があるのだろうか…、と。

二人で作る世界は、とてもとても歪んでいる。桜良は、冴えないクラスメートを振り回して凄く楽しそうな笑顔を作り、主人公はそんな彼女にブンブン振り回されながら、もうすぐ死ぬという少女と平然と関わり続けている。

二人が作る世界は、「多数派の論理」では完全に異常だ。しかし二人にとっては完全だ。これほど、完全な世界はない。
彼らの関係には、名前が付かない。これが、僕が彼らの関係を「完全」だと考える理由の一つだ。友達でも親友でも恋人でも家族でもない。桜良もそう言っていた。キミとはそういう、名前が付くような関係じゃないからいいんだ、と。

僕は、それをとても羨ましいと懷う。どうしたって人間同士の関係には、名前が付いてしまうものだ。何故なら人間は、不安定さに耐えられないから。だから皆、名前を付けて、他者との関係を安定させたがる。
しかしこの二人の場合、桜良はもう先が長くないし、主人公には人間と深く関わろうという意思がない。だからこそこんな、「名前のない関係」が生まれる余地が出来た。そしてその「名前のない関係」を、実に絶妙に描いている。この「名前のない関係」こそが、本書の最大の魅力なのだと僕は思う。これは、二人がお互いに、お互いなりの努力をした結果生まれた、瞬間的な奇跡の関係性なのだ。

『君は、きっとただ一人、私に真実と日常を与えてくれる人なんじゃないかな。お医者さんは、真実しか与えてくれない。家族は、私の発言一つ一つに過剰反応して、日常を取り繕うのに必死になってる。友達もきっと、知ったらそうなると思う。君だけは真実を知りながら、私と日常をやってくれるから、私は君と遊ぶのが楽しいよ』

桜良の傍にいたのが、主人公で良かった。主人公は、桜良と関わることで、それはそれは多大な迷惑を被るが、それでも主人公が桜良と関わり続けてくれて良かったと思う。二人の世界は、歪で異常で、完全で、だからこそ、なんだかとても美しい。いずれ割れてしまうシャボン玉のように、永遠に続くわけがないと分かっているからこそ存在しうる関係性。その瞬間性を、見事に切り取っている。

主人公が号泣する場面がある。今まで知らなかったことを知ってしまった苦しみに。そして、今まで知らなかった楽しみが失われてしまった悲しみに。そう、主人公は、知ってしまった。知らされてしまった。
これがもし中途半端なものだったら、主人公は恐らく恨んだだろう。中途半端に自分をそういう世界に引きずり込んだ桜良を恨んだだろう。しかし、主人公は、桜良の本気を知る。桜良の考えていたことを知る。それは結果的に、主人公の世界を大きく変えていくことになる。

だからこそ、主人公の傍にいたのが、桜良で良かった。
二人の世界が「完全」で良かった。


ニール・ゲイブラー「創造の狂気 ウォルト・ディズニー」

「ウォルト・ディズニー」にどんなイメージを持っているだろうか?僕はなんとなく、良い人というイメージを持っていた。だから、「狂気」というタイトルに違和感を覚えた。しかしそれは、「創造」の時だけの「狂気」なのだろう、と解釈した。
しかし、読んでみたら、どうもそうではないようだった。

本書は、史上初めて、ディズニー側の全面協力を得て、かつディズニー側の検閲を受けずに書かれた、ウォルト・ディズニーの伝記だ。ディズニー社は予想通り厳しいらしく、通常であれば資料は見せてもらえず、また検閲も厳しい。しかし何故かこの著者はそれらをすべてパスし、これ以上のウォルトの伝記は今後現れることはないだろう、と言われるほどの作品を書き上げた。

父親に苦しめられた少年時代、愛着のあった田舎の風景、クリエーターになって素晴らしい作品を残すんだと絶対的な自信を持っていた青年時代。そんな時代を経てウォルトは、自らアニメ・スタジオを興す。
短編アニメを生み続け、そこでミッキーマウスというキャラクターを世に送り出す。カラー化や音声をつけたアニメなど様々に先駆的なことを始め、そして長編アニメを手掛けるようになる。「白雪姫」が高い評価を得て、一躍時代の寵児になるも、制作費に金を注ぎすぎるためにスタジオは常に資金難に苦しめられる。しかしウォルトは、予算をケチッてつまらないものを作るよりはと、採算が採れなくても制作費をつぎ込んでいく。
ウォルトは常に新しいことへとチャレンジし、やがてテーマパークの構想を得る。自分が過去に成し遂げたことには関心を持たず、常に新しい創造の対象を追い求め、死の間際まであらゆることに力を注いだ、まさに「創造の狂気」の生涯を描き出していく。

ウォルトの、クリエーターとしての猪突猛進ぶりはとてつもない。
一本のアニメの脚本に2年という歳月を平気で掛ける。アニメの細部に渡ってイメージがあり、それを自ら演じて伝えようとする。決して妥協せず、少しでも気に入らなければやり直しを命じる。お金や女性や名誉などには関心を持たず、お金は作品を生み出すことを保証するためのものと捉えるだけ。賞を授与したいからと呼ばれても忙しいからと断り、時計や車や服にも関心を持たない。テーマパーク建設の際には、夜遅くまで自ら作業し、作業員と一緒にテントでホットドックを食べる。ウォルトというのはそんな人間だった。とにかく、これだ!という対象が定まれば人生がそれ一色になってしまう、という没頭ぶりが凄まじい。

一方でウォルトは、人間的にはあまり好かれるタイプではなかったようだ。スタジオではとにかく横暴。イライラしていることが多く、自分の意見を絶対に譲らない。さらに、特別な理由もなく従業員を解雇する。スタジオを初期の頃から支えてくれたスタッフでさえあっさりと首を切られてしまう。今進行中のプロジェクトに役に立つか立たないかだけが重要だという判断であり、そういう非常な面も持ち合わせている。多かれ少なかれクリエーターというのはそういう側面を持っているのだろうけど(僕は本書を読んで、スティーヴ・ジョブズを連想した)、ウォルトにはそういうイメージがなかっただけに驚いた。

子供のように無邪気に想像し、貪欲にあらゆるものを創造し続けた、情熱の塊のような男の生涯。一人の人間の身体の中に収まり切らないほどの熱量を内包し続けることで、歪さを併せ持つことになった「創造の狂気」の生涯に気持ちが駆り立てられることだろう。「ウォルトは他人の天才を利用する天才だ」とも言われていた。ジョブズも含め、そういう人間こそが世界を変えてしまうのかもしれない。


長澤樹「消失グラデーション」

ミステリとして高く評価された作品だ。しかし僕は、ミステリ的な部分ももちろんだが、それ以上に、この作品で描かれる歪な学園・青春物語に惹きこまれてしまった。

藤野学院の女子バスケ部は、全国レベルの成績を残している実力校だ。その立役者が、去年まで在籍していたエースの伊達と、伊達と完璧なコンビを組んでいた網川だ。網川は、バスケ選手として中学時代から既に大きな注目を集めていて、また読者モデルとしても活躍している。女子バスケ部のコーチであり、かつて全日本メンバーでもあった坪谷があらゆる手段を使って藤野学院に引き込んだ逸材だ。
しかしその網川は今、バスケ部の中で孤立し始めている。椎名には、その理由はよくわからない。椎名はふとしたきっかけで、それまで遠目に見るだけの存在だった網川と関わることになる。網川は、一体何を抱え、何と闘っているのか…。

女子バスケ部の内紛を軸に、椎名と樋口という変人コンビが高校内を縦横に動き回り、精緻に組み上がった論理で謎解きを展開していく本格ミステリだ。しかしそれ以上に、椎名・樋口という二人のはみ出し者が、独自の価値観で立ち回り世の中と対峙していく有り様がとても好きだ。

本書では、高校という狭い空間の中に、様々な鬱屈や支配が隅々にまで散らばっている。普段それらは、別々に存在している。椎名はそれら鬱屈や支配に個別に関わっていくが、大抵の生徒はそのすべてに気づくわけではない。しかし、校内で様々な出来事や事件が起きることで、それらの鬱屈や支配が徐々に引き寄せられ、一箇所に固まっていく。その動きを阻止したい者もいるし、視界に入るけど無視する者もいる。もちろん敢えて首を突っ込む者もいて、そうやって少しずつ、それらの鬱屈や支配が解体され、あるいは露見されていくことになる。その過程が実に巧い。そしてそれらが、ミステリ的な部分と見事に絡み合っている。

そんな世界の中で、ひときわ異彩を放つのが椎名と樋口だ。この二人の存在が、本書の存在を異質にしている。二人は徹底的にねじ曲がっているし、行動原理が異質だ。しかしどちらとも、思考や行動が一貫している。そのブレないあり方も素晴らしい。
二人にとって、高校という日常さえ戦場なのであって、気を許せる瞬間はほとんどない。そういう、鬱屈を抱えたままでしか生きることが出来ない若者たちの、それでも日々どうにか前に進んでいく、というような部分が僕は本当に好きだ。

本格ミステリ作品には、「ただトリックやストーリーに都合がいいからという理由で高校を舞台にしている」と感じられる作品もある。しかし本書は、まさに高校という舞台だからこそ描くことが出来る様々な感情を丁寧に積み上げているという点が素晴らしい。学生時代、リア充ではなかった人には、特に共感度が高い作品ではないかと思う。

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