【本】「窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる」「ボクたちのBL論」「蒼穹のローレライ」

今回は、「BL」をテーマに書評を書く。
「BL」とは、「ボーイズラブ」の略であり、大雑把に言って「男同士の恋愛を描く物語」を指す。
さて、BLなんて俺には興味ないや、と思った男性諸君。本稿で紹介予定の「ボクたちのBL論」からの以下の引用を読んでからその判断をして欲しい。

『たしかに、ヒットするドラマとしないドラマ。「同じイケメン使ってても、なぜだ?」というときに、BL的な要素、無視できないものがあります。あるいは売れているもの、ヒットする商品、あるいはCMに起用される人、人気のあるコンビ、全てBL要素に支えられています。仕掛け手がこのことについて知らなすぎる。BLってものをもっと情報としてだけでも入れてほしい!そして感覚で理解している人を制作サイドにつけてごらんなさい!
言っとくけど、テレビ局の人、映画製作者、出版社の人、みんなBLに対する理解がなさすぎる。愚かです、これ。いや、もう一度言いますよ。「週刊少年ジャンプ」買ってるの誰ですか。女性ですよ。オードリーの人気は誰が支えていますか。腐女子です。ラーメンズのDVD買ってるの誰だ。腐女子です。今、お金を出すのはオタクなんです。なかでも腐女子。行動力だってあるすごい人たちなんです。その存在を無視してマーケティングだなんだと、ふざけたことを言ってるんです』

本稿では以下のことを明らかにするつもりだ。
「BL」は、「一部の女性の変質的な趣味」ではなく、「消費と創作と評論を同時に行う知的遊戯」だということ、そして、「その知的遊戯は男であっても楽しめるはずである」ということ。
もちろん、先の引用を読んだ上で、「ビジネスに活かせるかもしれないなら、情報としてかじってみるか」という興味で本稿を読んでいただいても一向に構わない。いずれにせよ、「BL」という言葉の響きだけで嫌悪感を持ったり拒否したりしないで欲しいと切に願う。

本稿で紹介する作品は、以下の3作品だ。

水城せとな「窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる」
サンキュータツオ×春日太一「ボクたちのBL論」
尾上与一「蒼穹のローレライ」

「ボクたちのBL論」は、男性二人による「BLの愉しみ方教授&BL評論本」であり、残りの2冊はコミックである。ここで触れておくが、「ボクたちのBL論」は、「BLを読みまくり、腐女子から“腐女子”認定されているサンキュータツオ氏」が、「BLに一度も触れたことがない春日太一氏」にBLを教授する、という内容である。BL初心者にオススメ出来る内容だ。

本稿の大枠の流れも先に書いておく。「窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる」では、「ゲイでもオタクでもない僕が、どのようにBLを読んだか」を語る。そして、「ボクたちのBL論」では、「僕とはまるで違う、腐女子(BLを愛する人達の総称)のBLの読み方」と「男もBLを読むべき理由」に触れる。さらに「蒼穹のローレライ」では、「BLの世界の広さ」を語るつもりだ。


それでは、水城せとな「窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる」について語ろう。これはシリーズ作であり、2作で完結する。

水城せとな、という漫画家を知らない方はいるかもしれないが、「失恋ショコラティエ」というドラマや「脳内ポイズンベリー」という映画のことを知っている人は多いだろう。その原作コミックを描いた方で、BLのフィールドでも活躍している漫画家だ。

この2作は、後で紹介する「ボクたちのBL論」でも絶賛されている。春日太一氏は『もう完全に純文学です』と評し(ちなみにこの作品は、春日太一氏が人生で初めて読んだBLである)、サンキュータツオ氏は『だから、この作品は男の人に勧めやすいんですよ』と書く。そして僕自身も、この作品に心を奪われた人間だ。「BLなんて…」と思っている人でも、この2作だけは読んで欲しいと思う。

恭一は妻帯者であるが、他人からの好意を拒めない男で、結婚後もフラフラと様々な女性と成り行きで関係を持っている。そんなある日、調査会社に勤めているという大学時代の後輩・今ヶ瀬が現れる。今ヶ瀬は恭一の奥さんから依頼を受け、恭一の浮気調査をしていた。もしキスさせてくれるなら、この調査結果を揉み消しますよ…。大学時代からずっと恭一が好きだったと明かした今ヶ瀬は、脅すようにして恭一との関係を迫る。“他人からの好意を拒めない”恭一は、男だと分かっていながら今ヶ瀬の好意を拒絶出来ず、今ヶ瀬に押し切られるまま半同棲のような生活に突入していく…。

僕はこれまで、小説・コミック合わせて十数冊BLを読んできた。読みはじめたきっかけは、前の職場に腐女子が多かった、ということに尽きる。彼女たちからBLの話を聞き、それなら自分でも読んでみるかと思って手を伸ばしてみた。「男同士のセックスの描写がある」という点を除けば特に違和感を抱くことなく読めた。

僕は同性愛者というわけではなく、そしてそもそもオタクでさえない。アニメやマンガやゲームとはほとんど無縁のまま人生を過ごしてきた。そんな、同性愛の知識も、オタクの文脈も持たない僕にとって、BLというのは他の小説やマンガと同じ、ただの物語の一つだった。

そして当然、腐女子の文脈も持ち合わせていない僕は、腐女子がどんな風にBLを読んでいるのかちゃんとは理解しないままBLを読むことになった。腐女子がどんな風にBLを読んでいるのか、僕がきちんと理解したのは、「ボクたちのBL論」を読んでからである。

では、そんな僕はBLをどんな風に読んでいるのか。

僕にとってBLは、「日常に絶望を持ち込むための装置」である。これは少し説明が必要だ。

僕は前の職場の腐女子にBLを勧めてもらう際、「性描写があまりキツくないものを」というリクエストをした。そこのハードルは下げようと思ったのだ。そして、「性描写が穏やかな作品」というのは必然的に、「男同士が結ばれるまでの過程がメインになる物語」であり、BLの中でそれを実現する最もポピュラーであろう設定が、「ノンケとゲイの恋」なのだと僕は理解している。

「ノンケ」というのは、同性愛者ではない、女性のことが好きな男性のことを指す。「ノンケとゲイの恋」というのは、ノンケのことを好きになったゲイが、女性を恋愛対象だと考えるノンケにどうにかアプローチして結ばれるまでを描く物語だ。そしてこの「ノンケとゲイの恋」という設定が、「日常に絶望を持ち込む装置」という機能をBLに与えると僕は解釈している。

男女の恋愛の場合、日常の中に物語を揺れ動かせる絶望を持ち込むことはなかなか難しい。だから、難病や大災害や身分の差など、日常ではない設定を持ち込んで物語を起伏させようとする。しかし、BLにおける「ノンケとゲイの恋」という設定は、ただそれだけで絶望となる。想像してもらえれば分かると思うが、ノンケがゲイの恋心を受け入れセックスに至るまでの過程にはお互いに相当のハードルがある。それは、他の一切の設定を排した日常を舞台にしても、物語として自立させるだけの強さを有する、ということだ。

僕はBLが持つこの「日常に絶望を持ち込む装置」という機能が、BL以外の物語の枠組みではなかなか実現できない魅力を生み出していると感じた。だからBLも抵抗なく受け入れることが出来たのだろう。「窮鼠はチーズの夢を見る/俎上の鯉は二度跳ねる」にしても、日常を逸脱するような設定はない。しかしそれにも関わらずこの物語は、読む者の心を抉るような心理描写に溢れている。「ノンケとゲイの恋」という設定が、それを生み出すのだ。

「ボクたちのBL論」の中で春日太一氏はこの作品を『内面地獄』と評しているが、まさにその通りだ。恭一も今ヶ瀬も、お互いと関わり合うことで、相手が何を考えているのかを推し量り、そして何よりも、自らのあり方・生き方に内省を加えていく。特に、これまでフラフラと流され続けて、主体らしい主体を持たずに生きてきた恭一が、今ヶ瀬との関わりの中で自分自身の性格やあり方を見つめ直し、一人の人間として成長していく過程は見事だ。また、恭一の心をどうにか手に入れようと、あの手この手で迫る今ヶ瀬は、しかし、いざ恭一が決心を固めると怖気づいてしまう。今ヶ瀬にとって恭一との恋は、「ゴールのない関係」のはずだったし、それでいいと割りきっていたはずだ。しかし、手に入るはずのないと思っていたものが手に入りそうになった時、今ヶ瀬はさらなる自分の弱さを知ることになる。男同士だからこその葛藤だ。

男女の恋では絶対に立ち現われない様々な問いや疑惑が両者の間に渦巻いていく。恭一も今ヶ瀬も、見えない刃で相手を、そして返す刀で自分自身をも切りつけながら、ボロボロの状態でお互いに関わりあっていく。その過程を丹念に描き出す本作は、素晴らしいとしか言いようがない。

この作品の特異な点は、「恋愛対象としての女性」が登場することだ。普通BLには、女性はほとんど登場しない(読んでいる冊数が少ないから断言は出来ないが)。特に「ノンケとゲイの恋」では、「ノンケにとって恋愛対象となる女性」を登場させることは難しい。何故なら、ノンケからすると、「男と女、どちらを選ぶか?」という選択になってしまい、その状態でノンケがゲイの気持ちを受け入れるリアルな物語を生み出すことは非常に難しいからだ。

しかしこの作品では、その高いハードルに挑み、そして成功している。恭一には、近づいてくる女性の存在が複数いるので、今ヶ瀬しか選択肢がないわけではない。しかしそれでも恭一は、今ヶ瀬を他の女性達と同列に並べ葛藤する。それを実にリアルな物語として提示して見せるのだから、水城せとな恐るべしである。

これまで十数冊BLを読んできた中で、この作品がダントツのトップである。本当に、凄い作品に出会ったな、と思う。こういう作品に出会いたくて僕は時々BLを読むのだろうと思う。


しかし、BLを「日常に絶望を持ち込む装置」と捉える僕の読み方は、一般的ではないようだ。

腐女子がどのようにBLを読んでいるのか、そしてそもそも「BLを読む」とはどんな行為なのかという、恐らく腐女子自身でさえ言語化出来ない人がいるだろう事柄を驚異的な理解力で説明してくれる「ボクたちのBL論」を読んで、僕はそのことを実感した。前の職場の腐女子から聞いた断片的な知識が一気に整理され、「そういうことだったのか!」と何度も膝を叩くことになった。ここ何年かで読んだ本の中でもトップクラスに僕の心をざわつかせた作品だ。

先ほども触れたが、この「ボクたちのBL論」という作品は、「BLを読みまくり、腐女子から“腐女子”認定されているサンキュータツオ氏」が、「BLに一度も触れたことがない春日太一氏」にBLを教授する内容だ。サンキュータツオ氏は、芸人でありながら一橋大学の非常勤講師を勤め、辞書を200冊コレクションし辞書の楽しみ方の本を出すという一面も持つ知識人である。一方の春日太一氏は、時代劇研究家だ。サンキュータツオ氏からBLの講義を受け、時代劇もBLの文脈から読み解くことが出来ると、新たな発見をするに至っている。玄人のサンキュータツオ氏と素人の春日太一氏が、お互いの恥ずかしい部分さえもさらけ出しながら、「BLを読む」とはどんな営みなのか、そして、何故男もBLを読むべきなのかについて、対談形式で進んでいく。

『このBLとかやおいといわれているものの根本にあるものっていうのは、「余白と補完」なんだと思うんですよね。
これは本当に「わびさび」とかを愛するすごく日本人的な発想だなとも思うんです。たとえば今まで語ってきたように、二つのものとそれに関して分かってる限られた情報の中から―たとえば表情一つ変わったところに―何があったのかを、つまり、まず余白を見つけますよね。で、それに対して自分なりの解釈で補完をするんですよね。その作業のおもしろさなんですよ』

本書の中で「BLを読む」という行為は、このように捉えられている(正確には本書では、「BL」と「やおい」を明確に区別しているが、ここでは無視する)。

この「余白と補完」を僕は、「関係の想像と創造」と捉えている。素材となるものから、二つのものを取り出す。そしてその取り出した二つのものの「関係」を「想像」し、さらに新しい「関係」を「創造」する。これが「BLを読む」という行為だと語るのだ。

具体的に書こう。
本書の表紙は、鉛筆と消しゴムの写真である。その意味は、冒頭で明らかになる。冒頭でサンキュータツオ氏が春日太一氏に、こういう問いを投げかけるのだ。

『鉛筆は消しゴムのことをどう思っていますか?』

「(素材の中の)二つのもの」として「鉛筆」と「消しゴム」を選び、その「二つのもの」の「関係」を「想像」し、「創造」する。「BLを読む」とはそういう行為なのですよ、という例題として提示されている問いなのだが、これだけではまだ少しわかりづらい。
本書の中盤で、再度こんな問いがなされる。

『2Bの鉛筆と、HBの鉛筆と、シャープペンがあります。2Bの鉛筆は、消しゴムのことをどう思っていますか?』

これなら答えられる人はいるかもしれない。春日太一氏は、『いつもごめんね』と即答している。何故そうなるのか?それは、「2Bの鉛筆の方がHBの鉛筆より濃い」からだ。「濃い線を消すのに労力を使わせちゃってごめん」という二者の関係を「想像」し「創造」するのだ。これが「余白と補完」である。

腐女子の方々は、地球上に存在するあらゆるもの(もちろん人それぞれ好みはあるが)を対象に、この「想像と創造」「余白と補完」を絶えず行っている人々なのだ。これは「与えられたお題から想像の羽根を広げ、短い言葉の中にその情景を創造する」という、俳句や短歌のあり方と非常に似ている。本書でも、俳句や宮中の歌会などとの対比が指摘されている。

ここで重要なことは、「BLの本質はエロではない」ということだ。外野は、「男同士のセックスを楽しむなんて気持ち悪い」と見るかもしれないが、腐女子にとってセックスはメインではないのだ。本書の記述を引用するとこうなる。

『「腐」は、すぐには性にいきつかない。「性行為」はむしろご褒美であり、おまけであり、クライマックス』

これは男でも理解できる感覚のはずだ。たとえばパチンコをやる人の多くは、「お金を稼ぐこと」が目的ではないだろう。ただお金を稼ぎたいだけなら、別の手段が様々に存在する。しかしそれでもパチンコに入れ込むのは、「お金に至る過程」に惹かれるからだろう。あくまでも「お金を稼ぐ」というのは「ご褒美であり、おまけであり、クライマックス」のはずだ。腐女子にとってのエロも、そういうものだと思えばいい。

腐女子にとってはあくまでも「関係の想像と創造」がメインなのだ。このことを理解すると、「何故男同士の恋愛でなければならないのか」という点もすっきりと理解できるようになる。

男女の恋愛の場合、少女マンガをイメージしてもらえば良いが、「女性側が受け入れる」という構図は決まっている。腐女子にとっては「関係の想像と創造」が大事なのだから、構図が決まってしまう男女の恋愛は、「想像と創造」のバリエーションが制限されることになる。その点、同性同士であれば、どんな役割も交換可能だ。「想像と創造」のバリエーションは豊かである。

さらにその上で、何故女性同士ではなく男同士なのかを、サンキュータツオ氏は、『「男は大丈夫だから安心」理論』と名付けて説明する。
女性同士の場合、殴ったり罵ったり傷つけたり泣かせたりという想像をするのは「可哀想」という感情が先に立って想像に制限が掛かる。しかし、女性からすると、「男は大丈夫だから安心」と思えるので、女性に対してはしにくいような想像も自由に出来る。そのため、さらに「想像と創造」のバリエーションが広がるのだ。

BL文化を育て上げてきた先人がこの辺りのことを意識していたわけではないだろうが、BLという文化は、「関係の想像と創造」という知的遊戯をより深いレベルで行うべく様々な取捨選択が行われてきたのだろうと本書を読んで強く感じた。「男同士」であることは、知的遊戯であるBLにとって必然なのだ。BLは、「わびさび」や「余白」に惹かれる文化を元々持つ日本人だからこそ到達しえた高尚な遊びと捉えていい。

BLをそういう知的遊戯と捉えた上で、では何故男もBLを読むべきなのかに触れる。

『男ってすぐ「口説く、口説かない」の話になるじゃないですか。「じゃあ口説いちゃいなよ」「やっちゃいなよ」みたいな。ホントつまんねえなって。突きつめると「勃つか勃たないか」「出すか出さないか」、そういうゲスな二元しかないわけですよ』

春日太一氏がそうぼやく場面があるが、僕もこれは理解できる。男同士がする「恋愛話」は、恐ろしくつまらない。「ヤるかヤらないか」みたいな話の出口しかない。もちろんそのレベルの話で十分満足できている、というのであればなんの問題もない。しかし、「BLを読む」ことで「関係の想像と創造」を常にしている腐女子の「恋愛話(現実の恋愛でなくても構わない)」の深さと面白さを体感して欲しいものだと思う。僕自身も前の職場で、色んな腐女子からそういう妄想話を散々聞いたが、本当に面白かった。男も腐女子の文脈で恋愛を語る面白さを知っていいと思うし、そのためにBLを読み、BL脳を訓練する機会を持ってもいいのではないかと思う。

『男が入って行くときの二重、三重の障壁があるっていうね、それを突破するための処方箋をこの本はいろいろと言っているはずなので、たぶん女性の書いたBL論とはちょっと違うのはそこだろうと。男が入っていくときにどうしても障壁がある。でも、その障壁を突破した先にはすごく輝かしい世界があるよっていう、そこは最低限、俺も見させてもらったとこだから。そこがこのテーマだと思っています』

BLの世界に足を踏み入れてみようと思う男にはうってつけの一冊である。僕にとっても、自分なりの読み方で満足していたBLを、また違った角度から読める方程式を手に入れられた作品だ。


そして最後に、BLの世界の広さを実感してもらえるだろう1冊を紹介しよう。

「蒼穹のローレライ」は、終戦後18年経ったある日、主人公・三上徹雄の元を一人の青年が訪れたことから始まる。その青年は、戦時中ラバウルで共に任務についた戦友である城戸勝平の息子だった。城戸が病死し、遺言を伝えに青年はやってきたのだ。青年は父から、くれぐれも詫びて欲しいと言われているという。しかし三上には心当たりがない。
通信科の通信長だった城戸と、飛行班の整備員だった三上を結びつけたのは、浅群塁という一人の戦闘機乗りだった。三上は、「塁の言葉を聞き取れるから」という理由で塁の専属整備士になる。塁はとある事情から喉が潰れており、言葉をうまく発することが出来ないが、何故か三上だけはきちんと聞き取ることが出来た。「ローレライ」という名で呼ばれる凄腕の戦闘機乗りであり、塁はその尊大な態度と潰れた声のせいで周囲とうまく馴染めずにいた。三上は塁と口論したりやり合ったりしながら、徐々に彼の内側に入り込んでいく。
やがて三上に心を開くようになった塁は、彼が背負ったとてつもない過去を三上に話すようになり…。

この作品は、「戦争」という非日常が舞台なので、僕が捉えていた「日常に絶望を持ち込む装置」というBLの機能が当てはまらない。この作品の場合むしろ、「戦争」という舞台こそがBLを成り立たせる要素となっている。「戦争」という非日常を設定しなければまず成立し得ない究極の関係性を描いているのだ。

この作品の凄まじさは、「ノンケとノンケの恋」が描かれている、という点だ。いや、究極的に言えば「恋」ですらない。「戦争」という非日常にBLという枠組みをはめ込むことで、この世に存在するどんな言葉であっても表現しきれない男同士の関係性が提示されるのだ。

三上も塁も同性愛者ではなく、しかも戦時中だから恋にうつつを抜かすでもない。彼らは、任務を忠実に遂行し、その中で「あいつを死なせたくない」という気持ちをお互いが抱くようになる。奇妙なきっかけから戦闘機乗りと整備士という形で濃密に関わるようになった二人は、恋ではなく、絆や信頼と言った気持ちがお互いに芽生えていく。そしてその絆や信頼が究極的に純化した形として二人が結ばれる、という展開が描かれるのだ。

この作品を読んで、BLという枠組みはこれほどまでに貪欲に人間の関係性を呑み込んでいくものなのかと凄みすら感じた。共に同性愛者ではない二人が、決して恋ではないが恋に非常に近い形で関係性を築く物語など、一般的な物語の枠組みではまず成立しえないだろう。BLという枠組み奥行きを感じさせる作品だ。

「ボクたちのBL論」の中に、何故「女性」が「男同士の恋愛」にのめり込むBLという文化を作り上げたかという説明として、「男同士の関係は女性同士にはないものが多く、女性には理解し難いその関係性を、恋愛という枠組みで捉え直してみるのがBLだ」という趣旨の記述がある。

『それで、女性が男性同士の「なんなのか分からない関係」を全て「恋愛という関係」に置き換える作業が「腐る」という知的遊戯なんだと考えました。「友情、ライバル、一目置いてる、気持ち悪い、気になる、憧れ、かわいい後輩」みたいな、このへんの意識っていうものが、異性同士だと、もう早くも恋愛の何らかの段階に入っちゃうんです。ですけど、同性同士だとそうじゃない。そうしたら、BLを愛する人からしたら、「これ恋愛って解釈したほうが分かりやすくね?」みたいな話になる』

この女性にとっての「なんなのか分からない関係」を、「恋愛」に置き換えることなく、分からないまま最後まで描き通したのが本書だと言えるかもしれない。絆や信頼というような関係性は、女性同士にはあまり存在せず理解し難い。その理解し難いものをそのまま突き詰めて純化させることで、「恋愛に置き換える」のとはまた違った形で究極的に恋にまで近づける。そういう知的遊戯を著者はやってのけたのではないか、と僕には感じられた。

この作品では、BLを成立させるために「戦争」という非日常が舞台として選ばれている、と書いた。しかし、そういう必然性のための舞台装置だからと言っておざなりに描かれているわけではない。僕は戦時中の様子を知っているわけではないが、ラバウル島での兵士たちの様子や整備士としての三上の仕事ぶりなど、著者はまるで見てきたかのように描き出す。実際戦地にいた方がそれらの描写をどう受け取るかは分からないが、戦争を直接知らない人間からすると、よくここまで活き活きとした描写が出来るものだと感心させられる。そういった丁寧な描写も、この世界観をリアルに見せる効果を生み出している。繰り返すが、BLという枠組みが持つその包容力を実感させてくれる物語だ。


BLというメガネを掛けて物事を捉え直してみるというこの知的遊戯は、僕らの日常を豊かにしてくれるだろう。また、そのメガネの性質を知ることは、ビジネスチャンスを掴むことでもある。何故山手線の駅の擬人化は成功したのか、何故最近の大河ドラマは弱いのか。それらも、BLという文脈から捉え直すことが出来るようになるだろう。ただ「オタクがエロい妄想をしている」と捉えるだけでは、BLは理解できない。もっと奥深いものなのだ。もちろん、それでもやはり興味が持てないという方は遠ざかったままの方がいい。でも、BLという知的遊戯に少しでも関心を持てた方、今こそ一歩を踏み出してみる時かもしれません。

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