【本】「古書カフェすみれ屋と本のソムリエ」「前世への冒険」「ソーシャルトラベル」

里見蘭「古書カフェすみれ屋と本のソムリエ」

僕は本屋で働いている。しかしだからと言って、本が他のものと比べて特別なものだと思っているわけではない。本は、様々にある娯楽の一つであり、知識の入り口でしかない。

しかし時々本は、魔法のような役割を果たすことがある。本書に登場する紙野君は、本を魔法に変える魔術師である。

玉川すみれがオーナーを務める「古書カフェすみれ屋」が舞台の物語だ。フードメニューを担当するすみれと、もう一人、古書スペースとドリンク担当である紙野頁の二人で切り盛りしている店だ。
紙野君とは、修行のためにアルバイトをしていたとある新刊書店で出会った。どんな本の問い合わせにも完璧に応える凄い書店員だった。すみれが古書カフェを開くつもりだと話すと、紙野君が突然、その古書部分を自分に任せてくれないか、と言ってきた。お互いの条件がぴったり一致し、二人は手を組むことになった。
飲食店は軌道に乗るまで時間が掛かると言われるが、幸い「古書カフェすみれ屋」は常連客もつき、経営的には比較的早くに安定した。すみれの料理の才ももちろん大きいが、紙野君の本を間に挟んだ接客もまた、お客さんの心を確実に掴んでいる。
店には時折、問題を抱えた様々な人がやってくる。彼らの話を店内で静かに聞いている紙野君は、唐突に店内のある本を差し出し、これを買ってください、と言う。今のあなたに必ず必要な本だから、と言って。すみれでさえ、紙野君のそんな行動に驚かされる。他人の問題に首を突っ込むような紙野君のやり方を指摘すべきだろうか、思い悩む場面もある。しかし、紙野君が提示するその一冊の本のお陰で、お客さんが抱えている問題が見事に解決してしまうのだ。
そんな古書カフェを舞台にした人間ドラマを描く連作短編集だ。

本を間に挟んだ関係と言われると、紙野君とお客さんとの関係だと思うだろう。確かにそこも重要だ。紙野君は、本を勧めるという意志がなければ積極的にお客さんと関わることはしないし、お客さんの側はその本の存在を知らなければ状況が悪い方向に転がっていたのだから、この両者の関係性は重要だ。

しかしそれ以上に重要な関係なのが、その本の著者とお客さんの関係だろうと僕は感じる。

本を介して、著者とお客さんが繋がる。著者は、そのお客さんの問題への処方箋としてその作品を残したわけではないが、しかし結果的に著者のその本がお客さんの問題を解決していく。この物語ではそういう部分が、物語的にドラマチックになるように演出されて描かれるので少しリアルさに欠くが、しかしこういうことは実際に起こっている。僕自身には経験はないが、一冊の本がその人の人生を変えたという話を見聞きすることはそれなりにある。本だけがそういう力を持つわけでは決してないが、インターネットがなくても何らかの機器がなくても読める本というメディアがその役割を担いやすいということはあるだろう。

人との関わり合いの中で本が繋ぐ優しさや想いみたいなものが伝わってくる作品だ。


森下典子「前世への冒険」

先に書いておくと、僕は前世などの超常現象の類の話は、基本的に一切信じていない。科学的に証明できないものは信じない、というほど強情ではないつもりだが、前世や占いなどは、それ以前の段階でアラが見えすぎているように思えて受け入れられない。別に否定するつもりはない。前世や占いにしても、そのお陰で救われたり気持ちが楽になったりする人がいるのだろう。プラシーボ効果みたいなもので、本物の薬じゃなくても、結果的に病気が治るならそれでいい、という考え方なら受け入れられる。

そういうスタンスの僕だが、本書は、前世というものをちょっと信じてみてもいいかもしれない、と思える内容だった。僕自身の、前世というものへの考え方を根こそぎ変えるほどの力は持っていないが、ちょっと検討してもいいぞ、と思えるほどには僕の心を動かす作品だった。それほど魅力的で、面白い作品だった。

フリーライターの著者は、ある時取材で前世が見えるという京都在住の女性に会うことになった。著者も僕と同様、その類の話を一切信じていない人だ。とはいえ、取材するだけならと行ってみることにした。
清水さん(仮名)という女性は、著者の前世について話し始めた。清水さんは、著者の前世は、ルネサンス期に活躍したデジデリオという美貌の青年彫刻家だ、と言う。そして、デジデリオの出生の秘密や、デジデリオに男の愛人がいたこと、そしてその愛人の愛称まで、非常に具体的に描写するのである。
早速著者は、清水さんの言っていることを調べてみることにした。しかし、日本にある資料ではほとんど分からない。そもそもデジデリオという彫刻家は、日本ではほとんど知られていないのである。
そこで著者は、イタリアに行くことに決める。そこで著者は、ドイツ語やポルトガル語で書かれている様々な資料に当たり、清水さんの具体的な記述を裏付ける証拠を発見してしまうことになる。
果たして清水さんは本当に著者の前世が見えているのか?前世などというものが、本当に存在するのか?

冷静に考えれば、清水さんが口にしたデジデリオに関する記述がすべて正しかったとしても、それが著者の前世であるという証明にはならない。何らかの理由で清水さんはデジデリオについて知った、ということが証明されるだけだ。しかし本書の記述を読んでいると、清水さんがデジデリオに関する情報を知ることはほとんど不可能だったと思えてしまう。とすれば、著者の前世がデジデリオであり、清水さんは何らかの方法で前世を見ることが出来るのだ、と信じてみたくもなるのだ。

本書では、著者も驚く様々な事実が色々出てくるが、一番驚かされたのは、著者が再度清水さんを訪れた時の話だ。その少し前著者は、イタリアから持ち帰ってきたポルトガル語の本のコピーの翻訳を依頼し、中身について概要を聞いていた。その本には、これまでどんな本にも書かれていないかったデジデリオに関する記述があった。清水さんはなんと、その本に書かれていた記述についても語ったのだが、翻訳家の話と清水さんの話は微妙に食い違っていた。そのことを指摘すると清水さんは、自分の方が正しい、と主張する。

その後、別のドイツ語で書かれていた本の記述から、なんと清水さんの主張が正しいことが証明されるのだ。ポルトガル語の翻訳者に聞くと、ちょっとした勘違いでそう思い込んでしまったのだ、という回答だった。

その記述は、日本語の資料には一切なく、またポルトガル語の本もドイツ語の本もともに絶版でほとんど入手不可能だった。そんな本にしか書かれていない記述を、どうして清水さんは知ることが出来たのか。前世、というものを抜きにして、どうやったら合理的な説明が出来るのか、考えてしまう。

前世という、あるんだかないんだか分からないものが、現代を生きる著者と、ルネサンス期のデジデリオを繋ぐ。前世を信じるか信じないか、その辺りのことは一旦脇に置いて、本書の面白さを是非体験して欲しいと思う。


本間勇輝+本間美和「ソーシャルトラベル 旅ときどき社会貢献 価値観をシフトする新しい旅のかたち」

僕は、東日本大震災の時、寄付をしなかった(その時はまだ僕は、岩手県に住んでいなかった)。熊本の地震の時も、寄付をしなかった。しようと思ってたけどタイミングを逃したというわけではない。僕は、意識的に寄付をしなかった。

一つには、自分の中で忘れないようにする、という理由がある。僕が寄付をしたとして、全体からすれば微々たる金額しか出せない。そして、その微々たる金額を出したことで、僕は、「自分が何かをしたような気になるだろう」と思った。そして、そういう自分にほんのり満足しながら、地震のことを忘れるような気がした。寄付をしなければ、寄付をしなかった、という記憶がずっと僕の中に残り、それによって地震のことを忘れないのではないかと思ったのだ。

もう一つの理由は、「お金を出すだけの行為に、なんとなく違和感がある」ということだ。別に、寄付をする人を否定したいわけではない。寄付はした方がいいと思う。でも、なんとなく僕は、自分の中から違和感を取り除けなかった。いいのかなそれで、と思ってしまった。

だから著者が「シャカイコウケン」に対して感じていた感覚も、すっと理解できた。

『振り返ると東京で働き出してから10年以上、いわゆる社会問題に対して行動したことはほとんどなかった。「飢餓に苦しむ子どもたちのために」と言われても、正直ピンとこなかったし、日本にも問題は山積みなのになんでアフリカ?とか、現地の政治を変えなきゃ意味ないでしょとか、日々さんざん浪費しておいて小銭を寄付するなんて偽善じゃんとか思う、冷めた自分がいた。』

『社会貢献に対して凝り固まったイメージがあったのだ。世の中には、美しい心と信念を持つ立派な人々がいて、彼らが自分のお金や時間や生活を捧げている、「献身」していると。素晴らしいのだけど、だからこそ自分のような人間が中途半端に関わっては失礼で、数千円の寄付金や半日のボランティアでやった気になっては恥ずかしいと。そう思っていたのだ。』

彼らは、バリバリ働いている自分たちの生き方に、そして東京での暮らしに違和感を覚え始め、2年間の世界旅行に飛び出した。そして結果的に彼らは、旅先で「シャカイコウケン」をする「ソーシャルトラベル」という旅の形を見出した。本書は、その記録である。

彼らは最初から「ソーシャルトラベル」をするつもりではなかった。きっかけになったのは、インドのブッダガヤの小学校での経験だった。子どもたちはみな床で勉強していた。そしてインド人は、外国人を見ると寄付を期待してしまうお国柄だ。しかし元々、お金を出すだけの「シャカイコウケン」に違和感を覚えていた彼らは、机と椅子を寄付することに決める。その決断は、「結局ジコマンなのではないか?」という新たな悩みを引き連れてくることになるが、彼らはそれをきっかけにして、様々な場所で体当たりで「シャカイコウケン」をしていく。自分たちに出来る範囲で、ちょっとおせっかいかもしれないけど、「お金を出すだけではない」そして「自分たちも一緒になって楽しむことができる」ような「社会貢献」に色々手を出していくことになるのだ。

「相手が喜ぶことを期待する」のでも、「相手のためになること」を望むのでもなく、「一緒になって楽しむこと」を一番に考える。そういう形の「社会貢献」があってもいいし、旅行の目的が勝手にそうなっていくのも面白い。旅は元々、予期せぬ人との出会いをもたらすものではあるが、「ソーシャルトラベル」という新しい旅の形が、より刺激的な人間関係をもたらすかもしれない、と思える一冊だ。

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