「『検察官の定年延長問題』に対する反対運動」について思うこと

検察官の定年延長が、大きな問題になっている。これについて色々書いていくが、大前提として僕は、「検察官の定年延長問題」そのものに触れるつもりはない。僕なりの感想はあるが、それも書かない。

では何について書くのか。それは、「『検察官の定年延長問題』に対する反対運動」についてだ。芸能人やアーティストを含む多くの著名人が、SNSなどを通じて抗議を行なっている、その現象について書いてみたい。

現状認識

まず、僕がどのような現状認識をしているかをまとめよう。

◯芸能人やアーティストなど、これまで政治的な発言をあまりしてこなかった人たちも、反対を表明している


◯それに対して、「ロクに政治のことも知らない癖に、雰囲気でこの流れに乗っているだけ」「条文をきちんと理解しないまま反対している」という批判が存在する


◯また、「芸能人やアーティストは、そもそも政治の問題に口を出すな」という批判さえある


以下で僕は、この現状認識に対してあれこれ書く。だから、そもそもこの現状認識が間違っている、ということであれば、以下の文章はすべて間違いだと思ってもらっていい。

情報収集

また、僕がどのように情報を得ているかについても触れておく。

◯SNSはほぼやっていない


◯ネットはヤフーニュース程度しか見ない(ネットから積極的に情報収集はしない)


◯テレビの報道番組やワイドショーは見る


◯新聞は読まない


情報の収集の仕方が偏っている、ということは自覚している。以下の文章でも、この情報収集の偏りによる間違い・誤解はあるかもしれない。

さて以下では、大きく2つに分けて話を進める。

①「『検察官の定年延長問題』に対する反対運動」がもたらしたこと
②「『検察官の定年延長問題』に対する反対運動」への批判が意味していること


①「『検察官の定年延長問題』に対する反対運動」がもたらしたこと

この反対運動がもたらしたことは、大きく2つあると思う。

◯理解の促進
◯政府への”感情的”反対の表明


◯理解の促進

僕は、芸能人やアーティストの人たちが反対を表明してくれたことは、とても良いことだと感じる。これは、仮に彼らが「雰囲気に流されて」、あるいは「法案を捉え間違って」そうしていたとしても意見は変わらない。

何故なら、それらの行動によって、多くの人が「事実を知る機会」を得ることが出来るからだ。

「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグが拡散することで、メディアには説明する「動機」が、そして政府には説明する「差し迫った責任」が生じた(政府には常に説明する「責任」はあると思うので「差し迫った」という表現を加えた)。

今テレビでは、この検察官の定年延長問題を詳しく解説している。またネット上にも恐らく、この問題を説明する文章や動画は急増しているだろう。たぶん、ネット上の盛り上がりがなければ、テレビでこれほど長い時間を掛けてこの法案の説明がなされることはなかっただろうし、ネット上にも情報は増えなかったはずだ。

もちろん、それらの「事実」の説明には、必ず説明する人の「意見」も付随してくる。「意見」には様々なバリエーションがあるので、その取捨選択は自分でしなければならない。しかしそもそも、「事実」を知らなければ議論もできない。

正直なところ、自力で法案を読んで正しく理解することはなかなか難しいだろう。僕も、自信はない。「反対するなら頑張って勉強しろ」という批判は正しいかもしれない。しかし一方で、「勉強することが得意でない人にだって意見を言う権利はある」とも思う。読解や学びの能力は誰しもが同じレベルにあるわけではない。誰もが同じ土俵に立って議論出来るためには、皆で「事実」を共有する必要があるし、そのためには、報道などを含めた「事実を知る機会」が増えることは望ましいことだと感じる。

この状況を作り出したのは、「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグ付きの拡散である。

また同じように、この拡散は、政府に「差し迫った責任」を与えることになった。やはりどんなことであれ、政府には説明する責任があると思う。民主主義というのはそういうものだろう。もちろん、通常は、国民の側が関心を持っていない。だからこそ政府も、政治に関して国民に説明責任を果たす必要はない、と考えがちだろうと思う。そのことに対する反省は、一方で国民の側もしなければならないだろう。普段からの無責任が招いている事態でもある。すべてを政府の責任には出来ない。

しかしやはり、国民が関心を示したのであれば、そこに対する明確な説明は求められる。大きく声を上げることによって、政府に説明責任を”思い出させる”ことができるということだ。

だから、仮にそれが、雰囲気に流されたものであっても、誤った理解によるものでも、意見を表明することそのものが、全体の利益に適っていると僕は考える。


◯政府への“感情的”反対の表明

今回の「『検察官の定年延長問題』に対する反対運動」に対して、「検察官の定年延長に関する議論」によって対抗しようとする人がいる。いや、これはもちろん当然のことである。今回、表立って見えている部分には、間違いなく「検察官の定年延長問題」があるし、これに対する直接的な抗議というのも当然多数存在するだろう。この本質的な議論はどんどん深められるべきだ。

しかし、今回のこの反対運動の背景には間違いなく、コロナ禍における政府の対応への批判が含まれているはずだ。歴史にも政治にも「if」は禁物かもしれないが、もし国民が、政府のコロナ対策に十分満足していたなら、今回の反対運動はここまで大きなものになっていなかったかもしれない。

また、「森友問題」「加計学園問題」「桜を見る会の問題」などにおいて、「政府は何か良からぬことをしているようだ」と国民が感じていることもベースになっているだろう。これも「if」の話だが、もしこれらの問題が無かったら、あるいは、これらの問題に対して、疑惑を完全に払拭したり、あるいは説明責任をきちんと果たしていると国民が納得していたら、同じように今回の反対運動はここまで盛り上がっていないかもしれない。

「検察官の定年延長問題」にかこつけて政府の批判をするな、「定年延長問題」と「政府への批判」は別個で考えて、それぞれ冷静に議論すべきだ、という意見も当然あるだろう。僕もまあ、そういう意見があるとすれば、一理あるとは思う。しかし一方で僕は、人間が感情に任せて行動してしまうことも、また正しいと感じる。そして、これは政治に限らずどんな組織でも同じだと思うが、人間を感情的な部分まで含めてうまくコントロール出来る人こそ、組織を上手く導くことが出来ると思う。

コロナ対策において、大阪府の吉村知事は非常に高い評価を得ている、と僕は感じるが、その大きな理由の一つは、「この人の言っていることは、なんか正しい気がする」という感情的な評価もあると思う。もちろん吉村知事は、実際に目に見える形で様々な対策をし、目に見える形で成果を上げていると思う。そういう成果が信頼感を押し上げているのだろう。しかし、仮に吉村知事が成果を出せていなくても、つまり、彼が行なった対策が実際にポジティブな数字に結びついていなかったとしても、それでも吉村知事は支持されるのではないか、というのが僕の印象だ。それはやはり、「正しい気がする」という感情的な評価を与えてくれる人だからだ。

一方で今の政府には、そういう「正しい気がする」という感情的な評価を与えてくれる人はあまりいない。というか、神経を逆なでしてくる人ばかり、という印象だ。理屈上、あるいは書類上は「正しい」かもしれない。しかし、仮にそうだとしても、「正しい気がする」という感情的な印象を与えられなければ、なかなか人は動かないし、納得しない。

と書くと、「政治を感情で判断するな」という批判はもちろん出てくるだろう。正しいことが、感情的な反対によって潰れてしまうという、悪い状況を生む可能性もあるだろう。しかし、良かれ悪しかれ民主主義である以上、国民の判断基準に合わせざるを得ないだろうし、僕を含め、多くの人が感情的に政治を判断してしまうのであれば、そういう国民に対してどう向き合うべきかを、政治は考えざるを得ないだろう。

今回の反対運動は、この状況を鮮明に浮き彫りにした、と僕は感じる。


②「『検察官の定年延長問題』に対する反対運動」への批判が意味していること

反対運動への批判が意味していることは、2つあると感じる。

◯「無知であること」への批判
◯「発言すること」への批判


◯「無知であること」への批判

先ほど触れた通り、「勉強することが得意でない人にだって意見を言う権利はある」というのが僕のスタンスだ。だから、それが仮に無知ゆえの発言だったとしても、批判されるいわれはないと考える。

「無知」であることは、たしかに本人の努力の問題でもあるかもしれない。しかし、それだけのはずがない。例えば、「人間努力すれば、世の中のありとあらゆる事柄について一定水準以上の知識を得られる」と主張する人であれば、理屈は通る。しかしどんな人間でも、そんなことは不可能だろう。世の中の知識量は膨大であり、時間は有限だ。学問だけに制約したって、すべての学問領域について一定水準以上の知識を得ることは、よほどの天才でもない限り無理なはずだ。

だから、誰だって何かの分野では「無知」なのだ。だからこそ、「無知であること」を理由に誰かを批判することは、常に自分に返ってくる可能性がある。

また、「誰かが無知であること」は、「既知である誰かの怠慢」と言ってもいいかもしれない。前述の通り、「無知」は本人の努力の問題という側面はあると思う。一方で、環境や教育の問題でもある。少なくとも、100%個人の努力のせいにはできないはずだ。であれば、「誰かが無知であること」は、既にそれを知っている人がなんらかの努力を怠ったという捉え方も出来るはずだ。そういう意味でも、「無知であること」の批判はブーメランになり得る。「既知である人」は、「誰かが無知であること」に対して若干なりとも責任を感じ、その責任を果たす意味で教え諭す、という態度を取るべきではないかと思う(当然、100%環境や教育のせいというわけでもないので、本人に努力する意志がまったく見られない場合にはこの限りではない)。

それに「既知であること」がマイナスに作用することだってある。政治の世界にはうまく当てはめられない話かもしれないが、技術開発や科学研究の分野においては、「既知であること」が発想の制約になり、新しい考え方に行き着けない、という状況は多々存在する。そういう時に、「無知」な人間がブレイクスルーを起こすことだってあるのだ。

「無知であること」を表明することは、恐いことだ。しかし、前述のような理由から、それは表明されるべきことだ、と僕は考えている。だからこそ社会全体として、「無知であること」を批判する流れを作ってはいけない、と考える。


◯「発言すること」への批判

今回の反対運動で驚かされたのが、「発言すること」そのものが批判されていたことだ。「歌手は歌だけ歌ってろ」というような批判があったという。いや、驚いた。もちろん、そんなことを言っているのは、ごく一部の過激な人だけだろう、と信じたい。信じたいが、ごく一部であってもそういう声が出てくることによって、「発言すること」への抵抗感が増す。もちろん、そんな言い方をしている人は、そうなることを狙っているのだろうけど。

僕はそもそも、「人の発言を肩書で判断する人に、意見の是非を判断されたくない」と感じる。肩書で判断する人が、意見の中身を正しく精査できるとは思いたくないからだ。肩書で判断する人は、例えば外国人から、「お前は日本人なんだから◯◯でもしてろ」みたいなことを言われたら、どう反応するのだろうか?それも、相手の肩書で判断するのだろうか?それはダサすぎないか?

肩書で判断するかどうかに関わらず、それが誹謗中傷の類でないのならば、誰のどんな発言だって許容されるべきだ。まして今回の定年延長は司法(検察)の問題であり、つまりそれは国民全体の問題だ。であれば、国民全体から意見が百出している状況は、むしろ喜ばしいものと捉えるべきだろう。

「芸能人は影響力が大きいのだから発言しないでほしい」という意見もあるようだが、そういう意味で正しい方向性ではないだろう。本来は、「芸能人は影響力が大きいのだから発言してほしい」という社会であるべきだろう。だから、多くの人に知ってほしいことがあるのなら、そういう影響力の大きい人に教え諭すという行動を取ればいい。なぜ一足飛びに、発言を封じるような方向に話が飛んでしまうのか分からない。

「発言すること」への批判は、そもそもそれ自体正しくないと感じるが、さらにその行動が、別の不信感を招くことにもなる。民主主義の原則であれば、様々な意見を取り入れた上で結論が出されるべきだろう。その原則下において、「発言を封じようとすること」は、「注目が集まったり、議論が盛り上がったりするとマズい」という印象を与える。そしてその印象は、「良からぬことをしようとしているのではないか」というイメージを形成するだろう。これは確かに感情的な判断かもしれないが、しかし、それが感情的であろうがなんだろうが、こういうイメージが形成されることは双方にとって益のないことだろう。そういう意味でも、「発言すること」への批判は逆効果であると感じる。


最後に

今回の定年延長の問題そのものについて是非を判断する力は僕にはない。反対運動が盛り上がったお陰で、様々な「事実」を知ることが出来るようになったが、同時に様々な「意見」も耳にすることになり、その幅の広さにどう判断すべきか難しさを感じている。

政府のコロナ対策を見ていて感じることは、もっともらしい理由をセットにしなければ誤りを認めることが出来ないというダサさだ。もちろん、永田町の理屈は色々あるのだろう。しかし、そんなこと言ってる場合じゃないだろう、と思う。誰も経験したことのないウイルスなのだから、すぐ行動をし、仮にそれが間違ってたら「すいません間違ってました」と認め、すぐ別の手を打つべきだろう。しかし、どうも日本の政治はそれが出来ないようだ。

政府のやり方を支持する人の中には、「大衆は間違える」というような考えの人もいるのかもしれない、と思う。しかし「政治だって間違える」はずだ。これまではもしかしたら、色んな理屈を連ねて、その間違いを「誤魔化しきれている風」のつもりでいられたかもしれない。しかし、今回のコロナ禍が、その「誤魔化しきれている風」を完全に吹き飛ばしたと言っていいだろう。

大衆も政治も間違えるのであれば、様々な制約の中で許される限りにおいて出来るだけ多くの人の意見を取り入れて、本当の意味での多数派の考えで進めるしかない。そしてその時には、声を上げる国民も同じように覚悟を持たなければならない。政治の間違いばかりをあげつらって、自分たち大衆の間違いをスルーしてはいけない。大衆であろうが政治であろうが、発言には責任が伴い、それは時に「間違ってました」と認める潔さが求められる。

そういう成熟した社会に生きたいと思う。

今回の検察官の定年延長問題で、そんなことを考えた。


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