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【本】レンタルなんもしない人「<レンタルなんもしない人>というサービスをはじめます。 スペックゼロでお金と仕事と人間関係をめぐって考えたこと」感想・レビュー・解説

メチャクチャ面白かった!

正直に言えば、ちょっとナメて本書を読み始めた。「レンタルなんもしない人」という存在は知っていたし(とはいえ、本書ではない、著者のデビュー作である『レンタルなんもしない人のなんもしなかった話』という本のタイトルで初めて知った)、面白い活動だなと思ってはいたが、しかし、その活動を通じて、割と深いところまで考えを掘り下げているんだということを本書で知って(もちろん、後付の理由だと本人も書いている箇所は多々あるが、大体の説明は後付だ)、非常に興味深いと思った。

まず書いておくと、本書は「あれ?俺が書いたんだっけ?」と思うような本だった。僕は別に「レンタルなんもしない人」というサービスをしているわけではない。ただ、僕がこれまでやろうとしてきたこと、やってきたこと、自分の見せ方、スタンス、行動基準なんかは、すべてこの「レンタルなんもしない人」という考え方にピタッとはまるなぁ、と感じた。本書には、「レンタルなんもしない人」の活動の「模倣者」に対して、

【(模倣者に対して)新鮮味を感じていたが、一方で違和感も抱いていた。それをあえて言語化するなら「なんか、いいことしようとしてない?」みたいな感情だ。別の言い方をすれば、若干の偽善的な感じ、どこか押し付けがましいのだ】

と書かれているので、こういうことを書くのは勇気がいるが、僕はマジで、「レンタルなんもしない人」というサービスを提供できる人間だと思う。それぐらい、著者の活動スタンスが理解できるし、自分も同じような理屈で似たような行動をしているな、と感じる箇所がメチャクチャあった。

まさにそれは、本書の副題にある通り、「お金」と「仕事」と「人間関係」の話であり、この「レンタルなんもしない人」という活動が様々な価値観を明らかにしていくことになる。

【「レンタルなんもしない人」を通して、僕はお金について、実にいろいろな価値観に触れた】

【再三にわたり断っている通り、僕はボランティア精神というものを持ち合わせてはいない。けれど、この「レンタルなんもしない人」のサービスを通して、世の中には僕の想像をはるかに超えた、いろんな困り方のバリエーションがあるのだということがわかった】

【にもかかわらず、この依頼者からはそこそこ長く付き合った友達と同等の存在とみなされたことが新鮮だった。僕が思っている以上に依頼者(もちろん人によるだろうけれども)は「レンタルなんもしない人」のことを気の置けない間柄だと感じているのだなと】

それではそれぞれの話を書いてみよう。

まず「お金」の話がやはり一番興味深かった。

【先ほど、「レンタル料をもらおうと考えたこともあった」といったけれど、考えようとしてすぐにやめたので、実際はほぼ俎上にも載らなかった。たとえば「1時間あたり1000円」とか、具体的な数字を検討するところまでいかずに、ほとんど一瞬でやめた。
もともと僕は「時給」という概念があまり好きになれないというか、自分の時間とお金を交換してもらっているような感覚が率直にイヤだった。まるで自分が奴隷になった気がしてしまうのだ】

これは凄く分かる。僕も、時間をお金に換算する発想は、あまり好きではない。それって面白いのかなぁ、と思ってしまう。前提として僕は、そこまでお金に執着がないと思う。もちろん、不自由のある生活をわざわざしたいわけではないから、不自由のない生活が出来る程度のお金はほしい。たまにちょっと贅沢できたり、ちょっとしたことならお金のことなんて考えずに誰かを助けたり出来る程度にはお金はあってほしい。でも、それ以上のお金は、別にほしいと思わない。あって困ることはないかもしれないが(いや、困ることもきっとあるが)、わざわざ必要ではない程のお金を稼ぐために自分の時間やリソースを注ぐ気力がない。恐らく著者も同じ感覚だろう。

また、こうも書いている。

【なにか行動を起こすときも、ふつうなら「お金」のことに思い至りやすい。しかし、だから新しいものがなかなか生まれないのでは、と思う。最上段にそれを掲げてしまうと、すごくつまらないことしかできないし、ストレスなく生きていくために求めていたはずが、かえってストレスを抱える要因になるという本末転倒を起こしかねない。だからお金はいったん脇に置く。すると、いまの活動に限っていえば、新しい面白さにつながっている。それはやがて、お金を生み得るものになるのではとも思う。依頼者から料金をもらってしまうとその流れは小さく簡潔してしまう、と本書の冒頭でいったのも、ここに関わっている。お金というわかりやすい価値尺度をいったん手放すことで、お金を介在させた既存のサービスにはない多種多様な価値観にもとづいた多種多様な関係性が生まれるのではないか】

お金が介在するとつまらなくなる、というのは本当にその通りだと思う。この辺りのことは、後々「仕事」の方でも触れるが、「お金」というものが間に挟まってしまうことで、「責任」とか「無理難題」とか「効率」とか、そういう面白くないワードが増える可能性が高まる。僕も、お金をもらわないで色んなことを引き受けることはあって、それは確かにその場では金銭は発生していないのだけど、いずれ金銭や金銭以外のものを生むかもしれないとは思っている。

【僕が会社勤めしていたことは、「やりたいことではないけれど、お金のために働こう」と思ってみたこともあったが、それを継続するのは難しかった。そしてそのあと、一時的に仮想通貨を手にした。すぐに飽きて手放してしまったけれど、それまでは「お金=労働の対価」という価値観しかなかったところに、それ以外でもお金が発生するところがいっぱいあるんだ、ということを知った。その変遷があり、いまの「なんもしない人」に辿り着いている。お金がないとできないこともあるけれど、お金をあきらめたことでお金以外のものが手に入るようになったし、お金とは、結局のところ便利で使いやすツールにすぎないということもわかった】

なんでも「お金」に変換することは、確かに分かりやすいけど、でも全然面白くない。少なくとも僕はそう思ってしまう。僕は先述した通り、お金ではないものを得ている、という感覚があるけれども、そういう感覚を持てないでいると、すべて「お金」に集約する発想になってしまうだろう。それは面白くないなぁ、と。

著者は、今の自身の活動を他人に説明する時、こう言う場合もあるという。

【(著者ツイート)人類の営みをすべて「飯の種」と捉えなければ気が済まない思考回路っぽい人には「自分はライター業をやっていて、今は取材に集中している段階と言える。交通費や諸経費の負担なしにいろんな経験ができるんだから、取材のやり方としてうまいでしょ」みたいに説明してます】

もちろんこれは本心ではないわけだが、確かにそういう捉え方も出来るし、そういう意味で「お金」を介在させないのは成功だなぁ、と思うのだ。

では「仕事」の話に移ろう。

やはり「仕事」の話で言えば、先程引用した【世の中には僕の想像をはるかに超えた、いろんな困り方のバリエーションがある】という気づきが最も興味深いものだと思う。著者が受けた依頼は本当に面白いものばかりで、一例を挙げると、「マラソンのゴール地点に誰か立っていてくれると完走できそうな気がするからゴールにいてほしい」「自分が証人として出廷する裁判を傍聴してほしい」「女子大生になりきって一日楽しんでほしい(女子大生が、もう一人の自分がほしいからという理由で依頼した)」「朝6時に「体操着」とDMを送ってほしい」「通りがかりの人のフリをして愛犬をメチャクチャ可愛がってほしい」「結婚式に招待されているが行きたくないので、その日は「レンタルなんもしない人」さんと予定があるということにして、でも当日ドタキャンしてほしい」などなどだ。なんのこっちゃ?という依頼もあるが、話を聞いてみれば、なるほどそういう事情かぁ、納得、というものもかなり多い。世の中にはこういう、「別に一人で頑張ろうと思えば頑張れるけど、誰かいてくれたら心強いんだけど、でも別に人に頼むほどでもない」という「困りごと」が結構あって、でもそれはなかなか顕在化されなかった。そりゃあそうだ。誰もそういう「困りごと」があることを口に出さないのだから。でも、「レンタルなんもしない人」が登場したことで、そういう「困りごと」が表に出る余地が生まれた。そして、「レンタルなんもしない人」が「なんもしない」という活動をすることで、世の中には多種多様な「困りごと」で溢れている、という現実に、「レンタルなんもしない人」だけでなく、多くの人が気づくこととなったのだ。

この点は、本当に興味深いと思う。「レンタルなんもしない人」という“社会実験(?)”の、一番大きな成果ではないかと思う。後の「人間関係」の方でも触れるが、これらの「困りごと」は、なかなか身近な人には頼みにくい性質のものだ。関係が近すぎて相手に負担になるから、あるいは相手に弱みを握られかねないから、という理由で言えない、ということが結構あるからだ。その、今まで顕在化されることのなかった実にニッチな課題を、「レンタルなんもしない人」は掘り起こしたのだ。これは非常に有益だったと言っていいだろう。正直、この「レンタルなんもしない人」の活動周辺には、新たなビジネスのネタがゴロゴロ転がっているような感じがする。

【実際にスタートしてみると、僕に対する支払いが生じないぶん、あるいはタダで僕の時間を拘束しているという気遣いからか、知恵を絞ってレンタルされがいのある、ユニークな依頼をしてくる人も少なくなかった】

あと、著者のスタンスとして非常に面白かったのが、「レンタルなんもしない人」は「ボランティア」ではなく「仕事」だと明言している点だ。

【(著者ツイート)人のために善意でやってるわけではないので、ボランティア活動ではありません。お金を多めに渡されたらためらいなくもらったりしてますし、誰かお金持ちが大きな額を無条件に出資してくれないかなとかも思います】

【ここは誤解してほしくないのだけれど、僕は無料だからといって、ボランティアでやっているつもりは一切ない。事実、誤解を避けるために過去に右(※この感想では上)のようなツイートをしたことがある。
別に好きでボランティア活動をしている人を貶めたり、否定したりする気はまったくない。だけど僕は、「ボランティア」という言葉からは、かなり純度の高い善意を期待されているという圧力みたいなものをすごく感じてしまう。だから仮にボランティアを謳っていたら、依頼の内容や顛末を報告するツイートもなるべく品行方正な感じで、いちいち美談にしなければならないような義務感を覚えていたんじゃないだろうか。
それらの期待を弾くために、「レンタルなんもしない人」をボランティアだと勘違いしていそうなツイートを見かけたら、積極的に否定して回っている。
むしろ、僕は自分が前任に見られることは極力避けたいと思っている。なぜなら自分はまったくもって善人ではないし、善人であることを期待されたくないから。だからお涙ちょうだい系だったり心温まる系だったりするツイート(結果的にそういう感じになった依頼の報告)が増えてしまうと「ヤバイ。これ善人っぽい」と思って、あえてネガティブだったり露悪的だったりするツイートをしてバランスをとったりしている】

こういう感覚は僕とぴったり合う。僕が書いた文章だと言ってもまったく違和感がないくらい、僕も同じことを考えている。また著者は、露悪的な部分を出すことによって、【「レンタルなんもしない人」をレンタルする顧客層を、自分の想定する顧客層に近づけたいといういともある】と書いている。こういうやり方も、まったく同じだ。僕は別に「レンタルなんもしない人」の活動をしているわけではないが、自分の見せ方を調整することで、自分の周りに集まる人間のバランスを整えたいと思っている。それが実際に出来ているかどうかはともかく、感覚としてメチャクチャ分かる。

また、「お金」の話とも絡むが、こういう感覚もあるようだ。

【お金が介在すると、やりとりは単純にわかりやすくなるけれど、「なんもしない」ことそのものの実際の価値が見えにくくなるようにも思う。お金のほうに引っ張られて、軸足がずれていくような。だったらそういうスイッチはあらかじめ存在させない、つまり無料にするのが妥当なのだろうという結論にいたった。無料のサービスなら僕も開き直って「なんもしない」でいられるだろうし、依頼者側も「どうせタダだし」と、このサービスに多くを求めることはないんじゃないか。たとえ1000円でも報酬があったら、「自分はお客さんだ」という意識が生まれやすくなるだろう】

この辺りのことは完全に後付の説明だろうが、しかし確実に的を射ていると思う。確かに、その通りだろう。「なんもしない」ということの価値が発揮されるのは、やはり無料だからだ。お金が発生すると、「お金払ってんのになんもしないのかよ」という気持ちが生まれ得るし、やる側も「お金もらってるのにこんななんもしなくていいんだろうか」と思ってしまう。双方が、あるいは片方でもそう感じてしまえば、「なんもしない」ということの価値は急落するだろう。この辺りのことについても、後付だろうがなんだろうが、きちんと深掘りしているところが良いと思う。

さて、「人間関係」についてである。これについては、僕が昔から考えていることと本当にぴったりくる文章があるので、それをまず引用してみよう。

【世の中的には、名前が付いたほうが安心できる場合がほとんどではないかと思う。「友達」にせよ「恋人」にせよ「夫婦」にせよそうだろう。しかし一方で、関係が固定されてしまうと、それに伴う息苦しさも生じてくるんじゃないか。「友達だから、相談されたらなにかアドバイスしなきゃ」とか。つまりその関係に名前が付いてしまうと、付いた名前に見合うなにかをしなければならなくなるし、付いた名前に見合う期待を背負わされてしまう。だから、もしAさん(※ある依頼の依頼者)と僕が「友達」だった場合、今後一切連絡を取らなくなったりしたらそれなりの気まずさは残るかもしれない。でも、別に「友達」じゃないからそんなことは気にしなくていいはずだ】

関係に名前が付くとか付かないとかいう話は、僕も昔からずっと考えていて、ほぼ同じ結論に至っている。名前の付く関係の居心地の良さみたいなものはあるんだろうけど、僕は逆で、名前が付くことによる「その名前の関係性であることの責任感」みたいなものが凄く嫌で、疲れてしまう。本書では、ある本に書かれていたこととして「贈与論」の話が出てくる。要するに人間は、「もらったもの以上のものを返す」ということを繰り返すことで関係性が継続するのだ、ということだ。それに対して著者は、【僕個人としては特定のコミュニティのなかで「多めにもらってるな」という感覚を抱き続けることは、めちゃくちゃ大きなストレスになる】と書いていて、メッチャ分かる、と思う。僕も、もらっている状態は、あまり得意ではない。まあ僕は、著者とはちょっと違う方向に自分をデザインして、「こいつは返さないんだな」というキャラクターを認知させようとしてきた。それは、ある程度はうまく行っていると思う。世の中には、あげることが好きな人はいるし(本書にも、「お金を使って人に何かすることが趣味」という人が登場する)、だったらもらうのが得意な人がいてもいいか、と思ったりするし、僕自身そういう人間だと思わせれば、もらいすぎていても返さなくても大丈夫かな、と思える。自己ブランディングの方向性は違うが、発想は基本的に同じだ。

また、この話も興味深いと思った。

【(著者のツイート)こないだ依頼者が「友達ならこうやってとりとめもなく話したり沈黙が続いたりしても大丈夫な間柄になるまでには何年もの時間とその分のお金がかかる。でもなんもしない人を呼べばその時間をすっ飛ばせる」「今かなり贅沢な気分」と言ってて、このサービスには何らかのコストカット効果もあることを知った】

【にもかかわらず、この依頼者からはそこそこ長く付き合った友達と同等の存在とみなされたことが新鮮だった。僕が思っている以上に依頼者(もちろん人によるだろうけれども)は「レンタルなんもしない人」のことを気の置けない間柄だと感じているのだなと】

「レンタルなんもしない人」は、「基本的な受け答えしかしない」というスタンスを常に守っている。相談をしてもアドバイスをくれるわけでもない。移動中に楽しい話をして盛り上げるでもない。とにかく、聞かれたらちょっと答える、ぐらいのことしかしない。しかし、「そういうことしかしない、とあらかじめ分かっている」ということが、依頼者にとっては気楽なんだろう、という分析なのだ。確かに、友達でそういう関係になるにはある程度時間はかかる。しかし、「レンタルなんもしない人」の場合、短時間の関わりだし(時間制限は特にないので依頼者次第だけど)、一度しか関わらないことの方が多いけど、そのほんの僅かな接触の時間を「時間を積み重ねた友人と同等の関係として接することが出来る」というのは、確かに価値を感じられる部分かもなぁ、と思う。

僕はこの、「長年の友人」のような感じで接することが出来るようなやり方を、自分の中でも意識している。初対面であっても(というか、むしろ初対面であるからこそ)、「テンションをあげないで話す」「敢えて喋らない時間を作る」「でも喋る意思は伝わるように接する」みたいなことをやって、「初対面感」をなるべく消すようにしている。僕の場合はそれを意識してやってて、「レンタルなんもしない人」の場合は「なんもしない」という行動スタンスの結果そうなっていったという順序の違いはあるんだけど、でもやっぱりこういう部分も、メッチャ分かるなぁ、という感じがする。

こんな感じで「レンタルなんもしない人」という“社会実験(?)”は、「お金」「仕事」「人間関係」という意味で非常に面白い反応・結果を引き出せていると思うし、正直、あぁ俺がこれをやりたかったなぁ、という気持ちが凄く強い。本書を読む限り、僕が「レンタルなんもしない人」として振る舞うのに足りない部分は1つだけ、「妻と子供がいない」という部分だけだ。

【これといって、人に話せる特技も能力もない僕が「レンタルなんもしない人」というサービスに向いているのは、これはいわば外的な要因になるのだが、妻と子供がいることも非常に大きい。要するに、依頼者側としては「家庭を持っている人間なんだからおかしなことはしないはずだ」「きっとヤバイ人ではないのだろう」といった安心感が得られるようだ。実際にそうってくれる依頼者もいたし、僕自身も折に触れて「35歳、妻子持ち」という情報をツイートすることにしている】

この部分はまあどうにもならんのだが、他はいけるだろう。その話はすぐ後で書こう。しかし、本書を読んでいて一番の疑問は、奥さんだ。「レンタルなんもしない人」の活動は、国分寺駅からの交通費と飲食代(何かを飲み食いする機会がある場合のみ)以外、基本的にお金が発生しない(たまに発生することもある)。つまり、ここから収入は得られない。なのに、妻と子供がいるのだ。お金は稼がないわ、家にいないから子育てもしないわで、普通なら許されないだろう。著者は一時トレーダー的なことをしていたようで、おそらくその時に貯めたのであろうお金で今は生活しているのだという。まあ、その貯金がどれぐらいあるのか知らないけど、にしたって、よく奥さんがOKするよなぁ、という疑問はある。そこは、最大の謎だ。

さて、僕がなぜ「レンタルなんもしない人」という活動に向いていると思うのか、つまり、「レンタルなんもしない人」と僕にどういう共通項があるのか、という部分について触れてみよう。

「レンタルなんもしない人」に必要な性質という意味では、この辺りのことがある。

【「そういう重い話を聞くと、それに引きずられて精神的につらくならないですか?」
と、よく聞かれる。正直、僕としてはそういう感覚はまったくない。むしろ、あまりに頻繁に同じ質問をされるので「え、みんな重い話に引きずられて精神的につらくなってるの?」と逆に聞きたくなるくらいだ。
これをいうとちょっと人間性を疑われるかもしれないけれど、僕が依頼者の話を聞いているときはだいたい「これはツイッターに書いたら面白いな」とか「よっしゃ、いいネタがはいった」とかそういうことを考えている。たぶん、自分は普通の人よりドライな正確をしているというか、他人の感情にあまり左右されないのだ。だから相手にシンクロすることもないし、この活動に向いているんだろうなと思う】

これはメッチャ分かる。僕もそうだ。僕も、「おぉ、そんな話を俺に相談するんだなぁ」というような話を聞く機会があるのだけど、でもそういう話を聞いても、僕自身が辛くなることは特にない。むしろ、面白いと思ってしまう。「レンタルなんもしない人」の使い方として、「誰にも話せない悩みを聞いてほしい」というタイプのものがあるけど、これは、シンクロしちゃう人には厳しいだろうなぁ。そういう意味では、僕は非常に向いている。

【それに比べて僕は「趣味はなんですか?」と聞かれると答えに窮してしまうくらい、特定のなにかに対するこだわりがない。だけどその代わり、わりとなんでも面白がれる】

これもメッチャ分かる。僕は基本的に、「声が掛かったら先約がない限り断らない」というのを普段から実践している。その時点で自分に興味のないことでも(というか、世の中の大半のことに興味がない)、とりあえずやってみる。で、大体のことを面白がれる。もちろん、僕に声を掛けてくれた人並みに面白がれるのかと言われるとそこまでは難しいけど、僕自身の主観として「なかなか面白かったじゃん」と思える。というか、「せっかく来たんだし、面白い部分を探そう」という気分になる。で、探してみると、面白い部分って割と見つかるのだ。

また、この話に繋がる、こんなスタンスも非常に面白い。

【いったい世の中でどれくらいの人が、自分らしさから延長線を引き、その先にやりたい仕事を思い描き、社会に貢献できているのだろう。なにもなければ、そこから自分の夢ややりたいことをひねり出しても、ロクなことにならないんじゃないか。それに対して「できない」「やりたくない」という拒否反応はほとんど直感に近い。言い換えるなら生理的な反応であって、それに従ったほうがある意味で正直な生き方につながると思う】

【漫画『ONE PIECE』の主人公、モンキー・D・ルフィのセリフで「なにが嫌いかよりなにが好きかで自分を語れよ!!!」というのがある。
これは一般的には名言とされているけれど、僕はこのセリフがめちゃくちゃ嫌いだ。それこそ生理的にこういうことをいう人はダメだ。「なにが嫌いか」で自分を語ったっていいじゃないか。むしろ「なにが好きか」で自分語りをする人の話はどこか漠然としていてつまらないことが多いし、「好き」をアピールすることで自分を飾っているようにも見えてしまう。それよりも「なにが嫌いか」をはっきりいえる人のほうが、話が具体的で面白いし、たぶんその人は正直だ。あるいは誠実といってもいいんじゃないのか】

これも分かるんだよなぁ。基本的には何でも手を出そうと思ってるんだけど、「どうしてもやりたくないこと」ってのはあって、それは絶対にやらない。それこそ、意地でもやらない。とりあえずやってみて判断する、みたいな躊躇もしない。そういう部分は僕の中にもあるんだよなぁ。

【ツイッターであらかじめ依頼を受けてからとはいえ、見ず知らずの人に会いにいき、その人とある程度長い時間を共有しなければならないことに対して、僕自身は抵抗がなかったのか?
結論からいえば、なかった。(中略)
こういったその場限りのコミュニティにおける、各人の過去も未来も意に介さなくてよい、フラットで一時的な人間関係は、とても心地よく思えた】

これも同じ。僕も、むしろ初対面っていうか、初めて会う知らない人ばかりの場所の方が、割と気楽に入っていける。「この人とは長く関わりそうだなぁ」という感じの人とは、最初からどういう段階を踏んで関わっていくのが良いのか考えてしまうけど、初対面の人の場合はそういうのがない。後日会う可能性がゼロではないけど、でも今日でバイバイ、という感じの人と接するのは昔から得意だったし、今でも好きだ。そういう意味でもメッチャ向いてるなと。

また、「飽きっぽい自分を長生きさせる」という意味で、僕自身にとっても「レンタルなんもしない人」の活動はメッチャ向いてると思う。

【考えてみれば、ライターのしごとにしても趣味のブログにしても、やることがマンネリ化あるいはルーティン化してしまうことが問題だったのだが、それを回避するためにその都度新しい刺激なり変化なりを能動的に求めていくことが困難だった、というか自分には無理だったのだ。だから他人の力を借りて、受動的に刺激なり変化なりを楽しんでいられるいまの状況は、非常に楽だ。】

さっきから「メッチャ分かる」としか言ってないけど、これもメッチャ分かる。まったく同じだ。僕も凄く飽きっぽいし、すぐめんどくさくなっちゃうんだけど、受動的に変化がもたらされるならメッチャ楽だ。そういう意味で、「レンタルなんもしない人」という活動は、僕を生かしてくれるものでもあるなぁ、と思う。

他にも書きたいことは色々あるんだけど、久々に感想が1万字を超えてしまっているので、この辺りで終わりにしたい。最後に一つだけ。著者が「レンタルなんもしない人」という活動を始めた背景の話だ。冒頭で、心屋仁之助の「存在給」の話や、「プロ奢ラレヤー」という人の存在の話などが出てくるか、さらにその奥の奥の話は非常に興味深い。こういう、心の部分に強い、逃れられない引力のようなものがあるから、お金の発生しない「レンタルなんもしない人」というサービスを始められたのかな、という気もする。

【僕には兄と姉がいる。正確には半分はいた、といえばいいのかもしれない。一番年長である僕の兄は、大学受験がうまくいかなかったことがきっかけで体調を崩してうつになり、以来、一度も社会で働くことなくいま40歳を迎えている。姉はというと、彼女は就職活動にずいぶん苦労したのだけれど望むような結果が得られず、それが心の大きな負担となって、自ら命を絶った】

【いずれにしてもそれらに直面したとき、僕は学生だったけれど、自分の身内である兄や姉の価値というものが、世間的になんらかの目的によって歪められたり、損なわれていると感じた。】

【姉の社会人としてのスペックは、彼女が受けた会社にとって求めるものではなかったけれど、僕自身にとっては姉はただ存在しているだけで価値があった】

久しぶりに、毛穴全開で読んだ、みたいな感じのする本でした。価値観が揺さぶられるなぁ。「レンタルなんもしない人」のことはきっと、折に触れて意識に上るだろうし、恐らくこれからの僕の人生に何らかの形で影響を及ぼしていくような気がする。


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